死ななきゃOK

旧『楽しむぞ2010』で『The Style』で『文は人なり』で『欲望の日々』。ある物書きの日常。

2012.05.15 01:21
 気がつけば4月はなんと1回しか更新していないことに気づいて愕然としているtkiyotoですよ。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 本日、野菜があるから取りに来いやと親に言われたもんですから、仕事帰りに寄ったんですよね。

 というと、どんなところに暮らしてるのかと思うかもしれませんが、実際には都心部だったりするので、自宅で獲った野菜というわけではなく、親の実家で獲ってきた野菜、というものなんですが。

 その習慣自体は生まれてこの方ずーっとのことなので、それが「当たり前」だと思っていたんですが、スーツ着て、地下鉄で実家によって、野菜取りに行くってシチュエーションを考えると、かなり不思議で可笑しくて。
 ちょっとこれはフツーじゃないなと。

 で、久しぶりに地下鉄から歩いて実家まで行きましたけど、なんつーか、相変わらずなんですけど、新鮮でしたね。夜の8時なのにもう収集所のゴミが山積みになってるとことか、「工夫した名前の」飲食店がつぶれていたり、電話ボックスの中の東南アジア系の女性が大声で喋ってて、子供がヒマしてて中でカンカン叩いてたりとか、相変わらず。

 目の前が墓地で非常に静かな住宅街に暮らしている今のところとは、ホントに、えらい違う。

 しかし、それが我が「実家」のある町の現実だし、「故郷」にはなってしまうという、いかにも「現代」って感じが、なんか新鮮だった。


 さて、実家で、レタスが豊富にあるので振る舞われたのがレタスしゃぶしゃぶなんですが、親の姿を見ていて、「ああ、子供がかわいいんだな」なんて思ってしまいましたよ。

 子供のころからなにげなくというか常に気づいていましたが、子供が満足できるように親は子供が満足するように食べている。子供が食べたいものを優先的に食べさせている。自分が食べるのをやめてまで、子供の食べたい気持ちを満たしてやる。

 ・・・そういったモロモロのことが、「当たり前」と思っていただけでなく、子供心に「幸せな家庭だな」と思っていたのはもちろんなんですが、それでも、改めて、こういう「当たり前」に感謝しないといけないなぁと思いましたよ。


 ことに、他人と暮らしている今のことを考えると、やっぱり、親が子供に持つ愛情というのは特別なもので、そういうのを「当たり前」と思いすぎて、他人にそれを「当たり前」に求めるのは違うよねと。


 また、我が家はどっちかというと貧乏な方ではありますが、幸せな家庭だったんですが、その理由が改めてわかった気がしましたよ。ホントに、「家族」が大事で、お金は二の次だったんだなぁって。

 私は、若干貧乏だったことがコンプレックスというか不満というか、親を楽させてやりたいというのもあって貧乏よりも成功してお金がほしいと思っていましたが、それを追うために、そういった大事なものをおろそかにするのは間違っていると思いながらも、どこか、何かを犠牲にしないとなりたいようになれないんじゃないかとよく思ったりするんですよね。

 でも、やっぱり、「金が目当てなんだ」といじけるような晩年を送るよりも、何が大切かを実感しながら生きられる生活の方がやっぱりいい。いくら、歴史に残る作品を残したくて、そういう人たちのようにならなきゃいけないと思っていても、現実としてそういう選択肢はとれない。
 そういう発想が「小市民」的なのかもしれないし、それで思ったイメージまでいっていない生活レベルを考えると、なにか、憂鬱な気持ちになったりするんですよね、「このままでいいのかな」と。

 ただ、自分の思うイメージには届いていなくても、それに近づいている感があるのなら、あまり卑屈になるのもどうかと思うわけで。近づいていないなら焦らなきゃだけど、多少なりとも近づいていれば、それでいいじゃないか、それを積み重ねていけばいいじゃないか、と「当たり前」に思えるようになりたいのですが、それがまだまだ未熟者でして。


 幸せな家庭を築きながらも、お金も多少多めにあるような生活がしたい

 子供のころのプチ貧乏生活を見ると、相反することを実行するそれも難しいのではないのか? とつい思いがちですが、いや、その両立ができないかを模索しながら生きてきたのが私の人生じゃないかと、ふいに思い返してみたんですよね。

 過去がどうとか、他の人がどうとか、そういう「当たり前」に縛られすぎですよね。

 あくまでも結果論として「当たり前」になっていた方が都合がいいものだけが、「当たり前」であるべきなんですよね、きっと。

2012.05.06 17:26
ゴールデンウィーク中にこんにちは、更新ペースの悪いtkiyotoですよ。

ただいま一枚千円の五本指ソックスを履いて仕事中ですが、やっぱり値段は値段ですね。履いた瞬間から蒸れない感じがしちゃうとは。

パッと見、布でできてるのは同じなのに、実際には違う・・・まぁ、なんでそうですけれど、十把一絡げで見てちゃ、本質は見えないよねぇと思いましたよ。

忘れがちですけどね。

2012.04.14 02:44
 お久しぶりでございます。

 四月になり、異動になりまして、デスクワークをしながらルート営業みたいな感じになりましたよ。

 これまた「向いてない」仕事でもあるわけですが、勉強会とかを自分から企画しなくても「やってくれ」と言われる、受け身な私には非常に助かる仕事だというのがよくわかりまして。

 なかなか興味深い仕事なので、今後のためにもがんばってみたいと思いますよ。まぁ、いつもそうなんですけれど。

2012.03.28 03:23
 今月もやはり更新日数が少ないtkiyotoですよ。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 そんなことを毎回毎回言っているけれども、実際、右メニューの「過去記事リスト」にある「すべての記事を表示する」を見てみてビックリしましたよ。

 今までこのブログに書いた記事がバーッと出てくるのはいいんですが、あっという間に去年の今頃の記事にたどり着くわけ。そう、あっという間に。

 それはつまり、「よほど書いてない」ということであり、これって自称「物書き」としてどうなんだと思ったりしたわけで。

 まぁ、それだけいつも疲れ切って書く気もおきない日々だったと言えばそうなんだけれども、しかしこれでは、ダメだなぁと。少なくともプロだったらどんな時でも書かないといけないし、どんな事でも書かないといけないわけだから、プロにくらべたらじぇんじぇん甘っちょろいということになりますね。うん。


 なんてことを考えながら、これでは文章で食っていくのは当分先だねぇと思いながらも、今度は今度で異動になった新しい仕事のことを考えることで精一杯の私。

 それは、一つのことにしかエネルギーを注げないゆえの帰結なんだろうけど、それでも、一応昇進みたいな形で違う仕事に就くわけだから、それはそれで発見もあるだろうし、発見もあれば書くことも増えていくだろうと、あくまでもポジティブに考えている私。

 それで、「自然体」を目標と掲げてる今年なので、自然に、「思ったこと書ーこせっ(←名古屋弁だよね?)」と思ったんですがその前にブログを見返してみたら「あらまぁビックリ」という更新頻度だったわけですよ、大きな目で見ると。

 新しい仕事はかなり自由があり、かなり楽と聞いているので、更新頻度が増えるはずだと思うけれど、すぐなんらかの仕事を見つけて自分から忙しくなってしまう性質(たち)なので、あまり期待はできないかもしれない。


 まぁ、そうやってのんびり構えているのがいいのか、せっつかれながらやるのがいいのかは、当事者である私には本当の意味ではわかりませんが、後で後悔しないような生き方だけはしたいですよね。

2012.03.21 05:14
職場に、大卒から一年経ったイナカ育ちの若い子がいるんだが、その子が地下鉄に乗ってたらスリにあったとのこと。

スリって実際にあるのはわかるけど、そうそう実体験を聞くことがあるわけではない。

どうも、車内のベンチシートに座って居眠りこいてた時にやられたらしいが、よくよく聞けば、サイフには光熱費とか払うため3万4千円と結構な金額が入ったてたらしく、しかも、カバンの一番端のチャック式ポケットに入れ、それを自分側ではなく外側に向けていたらしい。

・・・アホや。

と思わずみんながツッコんでしまうぐらいマヌケな話だが、その話には実はもっとひどい現実があって、今日、なんか顔が死んでるから理由を問いただしたところ、本当は「一ヶ月分の給料が入ってたサイフ」だったらしい。

それをまるまる盗られ、生活もできないから、遠く離れた実家の親に電話したら、「自分が地元じゃなくてそっちがいいと就職したくせに、そんな時にしか電話してこんのは都合がよすぎるわ」と言われ、一銭の援助も得られなかったらしい。

・・・笑ってはいけないんだけど、マヌケすぎて笑ってしまう自分がいる。いや、笑ってしまうよ!悪いけど!

いやね、月に四、五回は電話するのにそんなこと言われるのもかわいそうな気もするけど、給料全額入れて地下鉄で鞄も抱かえこまずに眠りこけるなんてないでしょ?

せめて抱こうよ!

そりゃ、盗ってくださいませ、だよと。

もともと、いわゆる「ゆとり第一世代(自分で言ってる)」で、イナカ育ちの人当たりのいいタイプで、女性経験もなく、仕事もやるにはやるんだけど一年経っても指示待ちだったりするところがあったりするくらいで「この子、こんな平和な性格で大丈夫か?」と思ってただけに、起こり得たといえば起こり得たんだけど、やっぱり世の中って甘くないよね。

まぁ、命まで盗られなくてよかったじゃない、というぐらい。


この子の親が援助しない、というのも、そんな性格を見越しているのかもしれないのかな、と思ったりもする。
家族会員のゴールドカードを「なんかあったら使え」と渡してるぐらいの親が、援助しないというのは。

常々、学生っぽい雰囲気だったその子は、この危機を乗り切るために、自分の大切にしていたものを売ったり、いろんな人の助けを借りたりしていくことになるだろう。

それを乗り越えれば、顔つきも大人になって行くんだろうなぁ・・・と思う。

だから、この親御さんの考え方は冷たいなぁとは思うけれども、気持ちもよくわかる。

自分の言動の責任は自分で取る。

これが、当たり前のようでいて、当たり前じゃない。
だからこそ、DVしといて、「こんな俺にしたのはお前のせいだ!」みたいなことをほざく人も出てくるんだからね。

親としては、そんな子供になってほしくない・・・と思うのが自然だし、それなら突き放す「やさしさ」も必要だよね。


人生とはままならないもの。
だからこそ、意味が出てくるものもきっとあるし、大人の充実感なんて、そういう中にあるものなんだと思ったりしましたよ。

子育てなんかがいい例かな。


そういうののくり返しが、生きていくってことなんかなもね。

2012.03.16 03:40
 ここのところ、一週間に三日も休むせいと、異動の話があるので、例のごとくストレッチ中に寝てしまうとかあるけど、朝まで本を読んだりしている。

 ・・・なぜ異動と本が?

と思う方も多いとは思うのだが、ようするにアレだ。悩んでいるわけなのだ。単なる異動ではなくて、請負先への出向なので、行ったらなかなか辞められなくなるからね。

 なんと自由じゃないんだ!

・・・と思う。しかも、最近気づいたんだが、私も結構いい歳になってきたからね。

 そんなにのんびりしてていいのかな~という想いもあるが、だからといって具体的な代替案があるわけでもない。

 新しい仕事は少なくとも今よりはずいぶん自由があるから、いいかもな、レベルでは思うけれども、そんな軽い気持ちで選んじゃダメだろう、後悔するだろう、とも考える。悩むのだ。


 基本、人は道が選べるから悩む。

 たとえば昔の農家の長男が他の仕事を選べなかったように、道がたくさんある人の方がいわゆる「プラプラ」してしまうもの。そこからどちらが幸福でどちらが不幸かなんてムダな議論をする気はさすがにないけれど、「自由」を追い求める人の着地点はやはりどこかにあるものだと思うわけで。

 それが「結婚」なのか、はたまた「就職」なのか、それとも「破産」なのか、「出産」なのか、それともそれとも、何があっても変わらずにいるというのか・・・・それはまぁ、それぞれの人の価値観といえば価値観なんだろうけれども、どの道を行こうが、その人生の責任を自分でとるのが大人というもの。

 そういう意味で考えると、悩むということは「責任」について考えるからで、逆にそれに縛られすぎてしまうと「自由」な発想は消えてしまうし、逆にそれをまるで意識しないで自由にいると、「責任」をとらない人間となるということでもある。

 だから、「自由人」気取ってる人は結婚できないし、結婚してもうまくいかない。

 ただ、何があってもそんな「自由人」で居続けられるというのは、それはまたそれで、すごいことだよねとも思う。真似したいかどうかというのは別問題だが、自分の生き方だと思って生きてるわけだから、ちゃんと自分の人生に対しての「責任」はとれているってことだからね。

 まぁ、そんな究極的「自由人」は目指していないが、自分の人生をふり返って、人のせいにせずにできる選択をしていくしかないよね、と思ったりしましたよ。つまり、自分の人生をかけるに値する選択かどうか・・・・ってことかな、大げさに言うと。

2012.02.23 04:43
 マッサージ屋に行きましたよ。
 というのも、整体に行って、骨のゆがみよりも疲労や冷えからの張りから来ているという話だったので、整体で治そうとしても限界があると思いまして。

 で、最近、多いじゃないですか、安いマッサージ屋。60分で3000円前後みたいな。これまでの半額近い低価格。

 どういう理由で生まれたのかは推測でしか言えないんですが、おそらく、マッサージ屋は値段が高すぎて回転率が低くなってしまう現状があるからではないでしょうかね? 本来は頻繁にマッサージを受けた方が体もほぐれるというものでしょうが、頻繁にマッサージを受けられる人ばかりじゃないのが現実。

 そこには、マッサージをする側の社会的使命感というか、仕事への充足感として「ガチガチになってから来ても一発でよくはならない」よりも、頻繁に来てもらって健康になってもらいたいことへの願望があったのではないでしょうか? 少なくとも、私がマッサージ師なら、そう思ったりします。そんな、やばくなってから来られて、解消しなくて「あそこダメだ」とか言われちゃかなわんですからね。

 それよりかは、値段を下げて回転率を上げ、お客さんも「来たい」マッサージ屋に頻繁に来れるし、お店も安定的・継続的に収入を得られるというところにビジネスチャンスを見いだした…というのが、この「安いマッサージ屋」ではないかと思うわけ。単なる価格競争というだけではなくて。


 そんなこんなで、その、新しくできた安いマッサージ屋に行ってきたんですが、感想。

 建物の作りが安っ!!

 いや、しかたないんですけど、なんか、オフィスみたいな内装だし、壁薄いし、パーティション低いし、外気の影響受けやすいし・・・・とまぁ安いなりのことはあるなと思いました。
 で、マッサージもきっと一般人レベルのことをやるのかなと思いまして。チラシには【高い技術!】とか書いてあったんですが、なんとなくそんな感じがして。

 足つぼ+全身もみでやったんですが、風呂屋でやる倍ぐらいするマッサージの時と同じように、足つぼをするとき片方の足にタオルを巻いてくれたのはやってくれないと(勝手に)思っていただけにちょっとビックリしました。ただ、タオルの生地がさすがに安かったですね。暖かみを感じるものではなかったですが、まぁそこはしかたないでしょう。

 あと、利用分でポイントがもらえるのはわかるんですが、マッサージ着に着替えないとポイントがもらえるというのもコストダウンの賢い方法ですね。ただ、30分ぶんに相当するポイントなので、それは太っ腹すぎないかと思ったんですが・・・でも、着替えとかあると確かに「60分」のマッサージが実際には「75分」とかになることだってありますよね。説明して、移動して、着替えしての2セット。それと洗濯代、予備着代を考えれば妥当な線かもしれません。実際にそれで「やりやすい服装」できてくれるなら楽なもんだと。シャンプーしない床屋と発想は同じかもしれませんね。


 で、実際にやってもらった感想としては、ごく普通。普通に普通のマッサージでした。

 そういう意味では、リピートしやすいと言えばしやすいのかもしれません。「安かろう、まずかろう」ではなくて、あくまでもファーストフードと同じく「安い、(普通に)うまい」というポイントはおさえています。そこ、大事なポイントですよね。なんかの本に書いてありましたが、「マクドナルドは世界で一番うまいハンバーガーを作るわけではないが、普通のハンバーガーを世界で一番売ることができる」的な感じといえばわかるでしょうか?

 技術を高めることがナンバーワンじゃないってことですよね。そこが、ホンダがトヨタに勝てない理由とでも言いましょうか。いや、話がそれましたが。


 で、そのマッサージ屋を出る時に、従業員総出で外に出てきて(バイクなのに)誘導してくれたのはビックリしましたね。このビジネスを立ち上げた人は結構、真剣にマッサージ屋で成功しようって考えてるんでしょうね。あくまでも「こんなんやろうぜ」的な感じじゃなくて、「これからはこういうのが必要なんだ」っていうのもありながらも、さらに「安くてもいいものを」って心がけを忘れてない感じがしました。

 こういうのを見ていて、なんとなく推測でしかないんですが、このビジネスをやろうと思った人はファーストフードもしくは、その亜種ビジネス出身じゃないのかなぁ? と思いました。少なくともマッサージ業界上がりではない気がします。誘導、見送りなら一人出れば済むことですもんね。それを済ませないあたりが、こういう「常識破りの」価格を打ち出せるんでしょう。

 まぁ、ここが元祖というわけでもないでしょうから、どっかの真似か、それともライバル店に対しての違いを打ち出しているのかもしれないんですが。それでも、こういうのが増えていくっていうのは、まちがいないなぁと思ったりしましたよ。


 ちなみに、マッサージ中、他の店舗との電話連絡している話を聞いていましたが、今日は5時時点で売上が9万弱(だったかな?)あったそうで、今後は他の店舗からこちらに人を増やした方がいいかもね、なんて会話をしていたので、順調に売上を伸ばしている感がありましたね。
 かといって、料金が安いからといってめちゃ混んでるというわけでもないし(むしろ空いてる)・・・でも、電話対応は非常に丁寧でしたし、設備にはあまり満足度は高くないですが、それ以外に及第点はとくになかったので(←ここがポイントなんだと思う)、こういう会社の株を買っておくというのもひとつの選択肢なんでしょうなぁ・・・・。

2012.02.16 03:30
続きを書く書く言ってちっとも書かないという悪いクセのあるtkiyotoですよ・・・ゴメンナサイ。

なんでもそうなんですよね、やりかけのままというか。
何かをきちんと終わらせることがほとんどないですよね。このブログも、前にやってたホームページも。終わったのは中国旅日記ぐらい?

こういうところが「アマチュア」的なんですよね。自分の感情ベースってところが。

現在、藤子不二雄Aの名作『まんが道』読んでますが、この中に登場する手塚治虫の仕事っぷりや人間性たるや、知ってはいたけどすごいものがありますよね。

手塚治虫が新しいマンガの地平を切り拓いたゆえに、各社から引っ張りだこになり、その期待に応え続けるという、ハードな仕事。

その根底には、自分の仕事への愛情と誇りと、期待に応え、それをいい意味で裏切る、「創作」という行為への姿勢でしょうか(現実論として逃亡しまくってたのも理解できますが)。


・・・なんてだいぶ脱線しましたが、そんなこんなで期待に応えなきゃダメでしょうということでニーズがあったのに長らく書いていなかったロフテー枕の使用編です。いやほんと、更新が遅れてゴメンナサイ。

⇒ロフテー枕購入編はこちら(みんなきっと忘れてるハズ)


百貨店で、ピローフィッターに枕を処方してもらい、「いい買い物した!」と帰っていったわけなんですが、それと同時に、「うまく買わされたのかな?」という想いもなきにしもあらず。

なにせ、枕に一万を超える金額ですからね。特に私は貧乏育ちのため、歩いて15分のところにあるとはいうものの、大百貨店様で買い物するなんて基本、ないわけで。
高級家具とかが売っているフロアにある寝具店で、販売のプロから枕を買うわけですよ。知らず知らずのうちにその気にさせられてるんじゃないかと。

とはいえ、正直なところ、角度云々よりも、実際に横になってみたところの、しっくり感。
これは自分一人で格闘していては一生たどり着けなかった地平。とくに、なんでもかんでも枕ばかりに意識がいってましたが、試すためのベッド自体の心地よさといったらもう!
畳の上に一応一万円近くした「腰痛対策布団(腰の部分が固めになっただけの布団)」に寝てる現状とは、あまりにもかけ離れておりました。ベッドのマットレスの上に、さらに二枚?のマットレス。横になった時に感じるハズの足の重みを感じなくなるのは、「やっぱ寝具には金をかけるべき!」と思ったものです。

てな感じなので、低反発枕はテンピュールのそれに全然かなわないのに、それを言うと、そこは素直に認めない、ピローフィッターとしてではなく、そこはあくまでも「ロフテーの人」な感じがしましたが、全体的には満足したワケです。ちゃんと向き合ってくれたわけですから。
「だますならうまくだましてくれ!」という、セールスマンとしては合格です。だましてはいないとは思うのですが、客がそう思える仕事をさすがにしてました。


で、実際に使ってみた数日ですが、羽毛ならではの気持ちよさがありながらも、実際の効果のほどは・・・な感じがしたわけです。
肩こりがとくに軽減されるわけでもなかったので。

で、一ヶ月くらいして枕自体がなーんか凹んできて、お店にどうしたらと聞きにいったところ、羽毛だから時々風をいれてモミモミ強く握らないとダメだと。

うーん、そうなのかとメンテもしたのだが、確かに枕も復活したのだが、だからといってやはり、肩こりや首痛が治るわけでもなし。

そしてそのうち、この枕自体を使わなくなってしまった。

その理由は、治らないからというよりも、頭がビミョーに落ちるからだ。

私は身長が185あり、身長なりに肩幅もあり、松井秀喜並みとはいかなくても、比較的大きな頭をしている。
そのため、真上を向いて高さがよい枕でも、横を向くとそれがダメになることも多い。
前回とりあげたオルトペディコ枕がまさにそうで、均一の高さの枕だからこそ、横になった時の肩幅の影響で、頭が落ちて、まっすぐにならないというわけ。

ロフテー枕では、そうならないようにピローフィッターが横向きの状態でもチェックしてくれたのだが、そのときは鏡でみても確かにまっすぐだったのだが、いざ家でやってみると、どうもそうじゃない。

肩幅の問題かなと、自力で横向き時に頭が当たるサイドの部分にタオルを詰めてみたけれど、ちっとも解決しない。いや、高さが合わなきゃタオルを入れてみたらと言ったのは、お店の人なんだが。

しかも、この枕、一般的なサイズの枕なため、幅も60cmしかない。このサイズだと、私の体格で横になると、頭が収まり切るギリギリの位置になってしまうのだ。

そのため、安心して寝返りを打てないためか、窮屈に感じる。
いくらサイドにタオルをつめようが、寝てるときは無意識だから、そんなに都合よく枕を使えないわけだ。

これなら、高さが低くても、幅が80cmあるオルトペディコ枕(通販生活で言う『メディカル枕』)ほうがいい。寝返りしても、枕にしっかり収まる。
ちなみにそれまで私は実家でどんな枕をしてたかというと、二段ベッドで寝ていたせいで、横に柵がついてるのをいいことに、枕を二つ並べ、そのまさに間に後頭部を埋めていたワケ。だから、寝返りをうっても枕からはみ出るとかはなかった(体自体は窮屈でしかたなかったが)。


・・・というわけで枕を使わなくなってしばらく。とはいえ、その枕を他人(女性)に貸したところ、めっちゃ寝やすいと好評ではないですか。

サイズの問題もあったのでしょうが、どうも、肩幅の問題もあるのでしょう。寝返りを打てば、私の肩幅では枕から距離が生まれるのに、女性の場合は発生しない。

お店ではそんなことなかったのになと思って考えてみたところ、重大な事実に気がついたワケ。
あの、お試し用ベッドと、今の私(あくまでこの当時の話)の家の一枚布団では、状況がまるで違う。

肩が、沈まないから、お店と同じ状況にならないのだ。なんてこった!

貧乏人の貧乏布団に枕だけよくしてもダメだったのだ!
せめて、布団二枚とか、マットレス敷くとかは欠かせなかったのかもしれない。

とはいえ、だからといってその後、その枕を使ったかというと、そんなことはない。
理由は、幅の問題もあるし、羽毛枕ゆえの柔らかさも問題だからだ。

私の、体にみあった頭の重さを、羽毛はどうもコンスタントに支え続けることができないらしい。
そういった意味で、「心地良さ」よりも、耐久性も考えるべきだった。そばがらとか。「頭にフィットするから」と、沈みやすい羽毛にしたが、なんとなく、沈んでピッタリフィットする感じが変な感じだったんだな。
店員さんは、それが正しい「状態」と言っていたけれど、その正しい状態を維持できなければ意味はない。

少なくとも、布団を変えなきゃ、枕に、頭の重さだけでなく肩の重さもかかるので、どーにも効果が感じられなくなっていたようだ。

そんなわけで、その枕とはすっかりお別れし、そのあともエアウィーブ枕とか試したりしたが、結局、現状、ベッドのマットレスの上に、薄いマットレス、さらにその上に安物の低反発マットレスをしき、オルトペディコ枕を使って寝ている。

肩こりがすっきり治る!

なんてことはないが、少なくとも寝ていて悪化することはない状態。
やっぱ、枕だけでなく、寝具の組み合わせがとても大切なのだと思う。

今の組み合わせはいわゆるbetterで、満足するものではないが、お金がないので(というかどうしてもというほど逼迫もしていないので)、今のところ変える予定はない。
変える予定があるとすれば、今のセミダブルのベッドに載ってるシングルのマットレスをセミダブルにすることか。

ちなみに、以前の布団のときは、シングルで寝ていたが、体のサイズから、寝返りを打つとシングルでは収まらないことが判明したため、セミダブルのベッドにしてあるためだ。

これは、通販生活で、極上のマットレスをシングルサイズで試した為にわかったことだ。
非常に柔らかく、足が、ピッタリとフィットするので、足に力がまったくかからず、雲の上で寝ているようなマットレスだったが、寝返りを打つと、腕がマットレスから落ちてしまったのだ。ここで初めて、寝具選びそのものが間違っていたことに気づいたワケ。
ちなみにこのマットレス。寝てるときにまったく力が入らないことがこんなに快適なのかとかなり感動したのだが、驚くほど高密度な低反発素材なせいか、通気口があいていても、恐ろしく暑い!
当時の私の部屋は古いマンションの最上階だったからなおさら、暑くて死ぬかと思った。密着するのも考えものだ。しかし、冬はおそらく、天国に違いない。

とはいえ、そのために買える額でもなかったので、無料期間中に返品した。涼しい環境なら、おそらく最高のマットレスかもしれない。テンピュールなんて比較にならないくらい、いい。柔らかすぎず、硬すぎず。

ただ、夏クソ暑い名古屋で、冷房嫌いの人間が使うマットレスではなかった。


・・・とまぁ、枕だけで問題は解決しないということがよくわかったわけでした。

なんでもそうよね、問題の解決は複数の要素が絡み合っているから、トータルで解決しないと。

それを「これこれで解決しました!」っていうセールストークで一蹴してくるのが商売というものですが、「現実」というレベルで考えれば、それで解決しない問題も多い。D○C飲んだだけで痩せるとかもそうだよね。

相性じゃなく、バランスの問題なんだと思いますよ。

2012.01.31 23:59
 どうも!

 お久しぶりですみません。

 いやしかし、なんでしょう、テンション上がりますね!!

 今までかなり問題のある人間と一緒に仕事してきたのですが、やっと、やっと消えてくれました。

 ほぼ詐欺みたい(というか間違いなく詐欺的)な契約の取り方をする、異常なまでに数字にこだわる周りが見えない人間なので、救いようがないと判断し、色々と手はずを整えていたのですが、そんな人ですからなかなか思惑通りことが運ばず、ただ、今日、元々消える予定だったんですが、それにも全然従う感じじゃなかったんですが、例によって「キレて※」嵐を起こしたその後で、「(私の)上司を呼んで言い分を聞いてもらえば僕の正しさがわかりますよ」と言ってた上司の呼び出しで消え、そのまま帰らぬ人となりました。
※週に1回以上はキレます。先月末に「次キレたら終わりね」と話していたのにもかかわらず。

 社会人としてそんな去り方はヒッジョ~にかっこわるいことこの上ないのでしょうが、まぁ、ね。

 オオカミ少年で、エラそうで、ペテン師で、バーサーカーで、無責任で、DV野郎※で、爬虫類の目をしたサイコパス・・・・とさんざんな言いっぷりですが、実際にそうなんだからしかたないんです!
※新婚4ヶ月ですが、奥さんを殴ったりするそうです。ちなみに奥さんは彼の髪を引っ張るそうですが。

 世の中には、残念ながら「死んだほうがいい人間」というものはいるものです。残念ながら。

 しかし、「善と悪」という概念があるのだからそれは当然のことで、「善き人」がいれば「悪しき人」がいるのも当然のこと。

 そういう現実に目をつぶり、人を悪く思ったりしちゃダメだとか、耐え忍ばなきゃダメだとか、そんな制限ばかりかけられても、今度はこっちが病気になる。だからこそ、自殺者の数とかうつ病の数も減らないんじゃないんでしょうかね?

 「悪いものは悪い」

 そういった事実はきちんとしておかないとやっぱりいけないですよね。

 今回のことで、ホントにそう思いましたよ。

 もちろん、その彼は口癖のように「僕、間違ってませんよね?」「僕、正しいこと言ってますよね?」「アイツ、おかしいですよね?」と言っていましたが、そもそもその「基準」ってなんでしょね? まぁ、彼にとっては「自分が間違ってるハズがない」という困った信念をお持ちだったということに尽きるのですが。


 そもそも、

 「これが正しい」

 なんて絶対正があるというのなら、誰も勉強しなくていいし、世界に宗教は一つでいい。だが、そういうわけにも現実にはいかない。

 南の島で平和に暮らしていた家族が、大国の核実験により住み慣れた土地を離れなきゃいけなくなる・・・・なんてことも、現実にはある。それでも、大国側の「自分たちの領土だから」という主張を「正しい」と言う人もいるし、「いや人としてそれはおかしいだろう」と言う人もいる。

 それを左右の思想の考え方に分けるのもよく使われている方法論だが、どちらにしろ「正しい」をアピールする人間はそもそも信用に値しないことが多い。それを「疑え」ということを教えてくれるのがいわゆる「高等教育」というやつだ。

 だが、その「正しさ」というものを強く持っているものに惹かれていく人間がいるのも現実。自分の中に強い強い「正しさ」というのを持つのは並大抵ではないから、そこに頼りたくなる。

 それが「宗教みたいな」会社であったり、「宗教」そのものであったりするわけで。

 オウム真理教は端から見たら異常な集団以外の何者でもないかもしれないが、その中にいればそこでの「正しさ」が「絶対正」となっていくのもムリのないことだろう。我々も、日本の中にいれば「常識」のことも、他の国では違うなんてこともたくさんありますよね。


 今回サヨナラしたそのサイコパス君も、体育会系の会社から、その取引先に出向して、その立場でかなり保守的な大手企業の仕事を引き受けているウチの会社の下請け的な仕事をしているのに、それを指示監督する立場の私に対して「オマエ」と言ってくるぐらいだから、そうとう違う世界で生きてきたのでしょうね。

 だから、彼には彼の正義があったのかもしれないが、でもやっぱり、それはそれとして、平気でウソをついたりできる人を、信用することはやっぱりできないんですよね。

 それがめぐりめぐって「信用」になり、それがないからこそ、多くの人から「消えてほしい」そして、実際に消えたら「ホッとした」とされてしまうわけ。

 本当に信用ある人なら、そんな態度とられないですよ、よっぽどひどい所でなければ。

 もちろん、彼にとっては、「こんなに」正しい自分がひどい目に遭わされる方がワケわかんないという感じなんでしょうが、そういう「そちら側の正義」にこだわるんならやっぱり、そっちで暮らせばいいだけだって、誰だって思いますよね。


 そういった「現実」に目を向けずに、自分のやりたいことばかり主張し、追いかけ続けた結果、結局足下から崩れてしまった・・・・ってのが、彼にとってのこの3ヶ月だったんでしょう。仕事をするためには、足下を固めないとダメですよってことですよね。

 そんなこともわからない人が、よく世の中語ってたよなぁ・・・・と思いますが、「営業系」の会社にどっぷり浸かって、数字とお金だけで全部計れると勘違いしている典型的なコゾーだったなと思います。今思えば。

 そんなバラガキに、まともに接したのがバカだったんだなぁ・・・とちょっと反省。

 まぁでも、これ以上一緒にいても人生のムダだったんで、ちょうどよかったです。いい経験でしたけどね。サイコパスって、間接的に相対したことはありますけど、実際に当事者として相対すると、こういう感じなんだなって、非常によくわかりました。

 「社会」に対する感性が著しく欠乏している。
 だからこそ、平気でDVができるんだろうし、ウソとばれるに決まってるウソをついて仕事をとろうとする。しかも、堂々と「目先の利益を追ってちゃダメですよね」と言ったりね。スゴイよねぇ・・・・そういう意味で「病的」でした。

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 「悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じる」(文中p.285)

 罪の意識がないから、平気でウソをつける。
 「○○さんも僕が正しいって言ってましたよ」⇒その人に確認「そんなこと言うワケないじゃん」・・・・・なんでこんなこともわからないのかとホントに思うのだが、ホントにわからないから怖い!! 想像力がなさすぎて、ホントに爬虫類の脳なんじゃないかと思うぐらいだ。たぶん、自分と仲良く話してるから自分の味方をしてくれると信じて疑わないだけなんだろうが、キライでも仲良く話すよ、特に女はねぇ。

 そんな恐怖から解放されてホッとしている、というワケですよ、うん。

 そんな人間を抹殺せず他に丸投げしたような気がしないかって?

 いや、そういう人間はどこへ行ってもダメですから、まさにその事実こそが彼にとっての「罰」なんでしょうね。ちょうど、人を殺すのが好きな兵士みたいなものです。「俺様が現場で活躍してるから戦争に勝ててるんだ」と言って、時にはレイプしたり掠奪したり軍紀に違反したりと好き勝手して、結局、どさくさに紛れて味方に殺される・・・と。

 「彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。」(文中p.92)

 歴史上そういうことがゴマンとあるというのに、こういうことがなんでわかんないのかなぁ~と、高校時代に思って物書きを志した私としては、非常にいい経験をさせてもらいましたよ。

 やっぱり、「バカは死ななきゃ直らない」って死語にならない理由があるんですね。

2012.01.18 03:12
 山崎豊子原作ドラマ、『運命の人』観ましたよ。

 さすがにというかなんというか、山崎豊子的ですね。『白い巨塔』とかその代表格ですが、重厚の中にも触れやすさのあるドラマの作り方はさすがです。

 で、そういえば山崎豊子について調べたことないなと思い立ちまして、調べてみたんですが、どうも「盗作疑惑」でイロイロと叩かれているようで・・・。
 私自身、山崎豊子作品自体、『白い巨塔』の原作とドラマに触れただけで、その、盗作されたものとか、山崎豊子自体の文壇での足跡なんかの話題には触れたこともないので、そのこと自体のゴシップな話題は正直、どっちでもいい話に感じてしまいます。「物書き」と自称しておきながら興味がないというのもどうかと言われそうですけれども。

 というのも、あれやこれやと言ったところで、じゃぁ清廉潔白な人が書いたものを面白いと評価して、読んでくれるのかという現実があるわけだし、むしろ、この『運命の人』の主人公にしても、『白い巨塔』の主人公にしても、「己の(信念に基づいた)目的のためには手段を選ばない」者の生き様の中にこそ、ドラマが生まれるんではないのかと。

 ことに、山崎豊子自身、この作品について「沖縄の人たちの苦労を・・・」と言っているようですし、少なくとも原作ではなくドラマしか観ていない中でですが、作中の主人公にも「沖縄の人たちの苦労を・・・」というようなことを言わせていることを考えるに、作家が作中の人物に自分の想いを語らせたり行動に反映させるのは非常によくあることだし、特にリアリティを追求したり、実際の事件をテーマにする以上、ドキュメンタリー作品でもなければ客観的であり続けるのはほぼ不可能で、「作家」として「自分の想い」を作中に盛り込むことはごくごく自然な行為と言えるでしょう。

 それに、そういう「誰かに伝えたい」という衝動がなければ創作活動などできるはずもなく、その際にどういうモラルを持っているかというのも、想いの強さの前ではどんどん色あせてしまうこともあるのも、良きにつけ悪しきにつけ、創作活動に付随する「毒」の一種でもあると思うのです。
 とくに、今回の主人公にしても、「戦時中は国家と新聞にだまされた」「沖縄の未来を変えたい」などといった正義を行使するためなら、奥さんを裏切って情報をくれる女と密会をしたりするなんて、まさにその考えを投影した存在とも言えるわけですよね(でも、その正義の行使は国家のやってることと違わない・・・というドラマ展開になるんだと思うが)。

 つまり、そんな「想い」を作品に強く投影しようとする山崎豊子だからこそ、『運命の人』の弓成亮太や、『白い巨塔』の財前吾郎というキャラクターを、意志が強すぎて共感できない部分がありながらも、どこか憎めない、どこか同情してしまうという、一口で言い表せない彫りの深さのある造形物として描くことができるのだと思う。つまりそれが一つの、作風というか。


 こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、毒のない善人の書いたものほどつまらないものはないし、「○○へのラブレター」的なそれは一瞬の感動を生むかもしれないが、人の心に何かを突きつけるような鋭さもない。

 それが別に「善」であるとは言わないが、少なくとも、作品を世に送り続ける「作家」としては、そのような鋭さを失ったら「フツーの人」に成り下がってしまうし、それを人々が、「作品」と呼び、そしてわざわざ触れようともしないだろう。どこにでもある常識のままに書かれたものであれば、それはとりたてて特別な存在になることもない。

 世阿弥も言っているが「珍しきが花なり」なのだ。


 多くの人が「作家」や「芸能人」にモラルを求めるが、現実問題、それを言い出してしまうと、作品がつまらなくなるという意見は、ある意味で正しいし、だからといってそれを無条件に認めるのも正しいとは言い難い。

 しかし、世の中というものは得てしてこういうものである。

 浜崎あゆみが離婚したことに、世間の評価としては「やっぱりか」というのが大半を占めるのだと思うが、私もその一人だ。あれだけ感情を込めた曲を書く人間が、フツーの恋愛婚をして、うまく行くはずがない。なのに何をそんなにドラマチックに感じて行動に移してしまうのか。

 端から見たら予見された滑稽な光景だろうが、その、クリエイターとしての姿と、少女のような想いを捨てきれなかった姿の両面があるのがまた、人間らしさなのだと思う。創作に殉じつづけるということはやはりなかなか難しい。もちろん、結局は創作に帰ってくるのがみんなわかっていたからこそ、結婚してもうまく行くはずがないとみんな思っていたのだろう。知らぬは当人ばかりなりというわけだ。

 冷たい言い方かもしれないが、これはまぎれもなく現実である。

 こういったことが世の中には往々にしてあるし、だからこそ世の中は時に醜く、時に美しく、映ったりもするものだ。

 そしてその中で自分が何かを感じたものを形にしていくのが「表現者」であり、そのための方法論はそれぞれの信念や生き様や価値観に影響されるものだが、それが人によって違うからこそ、同じテーマでも違う作品ができあがるし、それに触れる人々の感じ方もそれぞれ違うのだ。

 その中でもいい作品が、何年経った後で触れたときにまた印象が異なるのは、まさにその点からで、平面じゃなく、立体的だから、一面じゃなく、多面だからこそ、様々な人に触れられるし、様々な心を映し出す。

 だからこそ「何度」も触れることができるわけだし、だからこそ「展開」され、「人気」も出る。そうしていける作品が、歴史の中に埋もれずに残っていく。それが結果として「いい作品」とか「名作」と呼ばれるものになっていくのだろう。
 日々変わっていく人の目に耐えられ得る作品が、いい作品というわけだ。

 それは、作家志望の人にありがちな独りよがりな作品にはないもので、インモラルだったり、人々の常識の外にいる人たちが作ったものにはあるものだ。それは、そういった人たちは創作時に常に、自分という人間の様々な面を意識せざるをえないからだ。


 作家たちは、創作を通じて、自分の作品と真剣に向かい合うことで、自らの人生を問われている。そして、そうやって完成したものが今度は我々に、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と人生を問い直すようになる。だからこそ、そういった作品が我々の心に「何か」を呼び起こさせる。

 それはつまり、「作品」とは、我々の心の試金石のようなものであるということでもある。

 だからこそ、心が豊かな人は様々な作品に触れ、そこから何かを得ることができるが、心の貧しい人は「値段」とか「評価」とか「人気」とか、そういった後から付随してきたものでしか作品を見ることができないので、何も得ることができないのである。

 「作品」は「作家」の「人生」なのだ。

 だから、作家に引退など存在しない。死ぬまで創作しつづけるしかないのだ。大正生まれの山崎豊子がさんざん罵られながらも書き続けるのも、その使命感があるからだろう。描くのは「正しさ」ではない。「人間」の感情そのものなのだ。

 それをわからない批評文は、取るに足らないものだと断言できる。なぜなら、作品と真剣にぶつかっていないからだ。作家が真剣に書いた作品と、真剣に闘っていないからだ。そこに心のギャップが生まれるのはムリからぬことで、「期待していたのに裏切られた」なんて言葉はまさにその最たる例だ。

 そういった面でも、作品が心の試金石である、ということが言える。

 本来、作品に触れることは、闘いのようなものだ。そうでなければ、作った人に対して失礼だと私は思う。人、一人の人生をカンタンに切り捨てることなんて、そうそうできるものではなかろうか? それとも、あまりにもライトな作品に触れすぎて、そういうことを忘れてしまっているのではなかろうか?