死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2011.05.31 10:37
 昨日、iPhoneで、以前録画しておいた『チャーリーとチョコレート工場』を観ながら歩いて帰る途中、画面ばっか観て歩いててはダメだなとふと顔をあげると、夜空の星が見えました。

 そこで、もうすぐ夏だというのに星が見えるんだなと思ったときはじめて、こっち来てから星を見てなかったなと思ったワケ。

 引っ越してきてから二ヶ月が経つというのに、はじめて星を見たような気がするのは、それだけ、いろいろと忙殺されたり、心に余裕がなかったということなんでしょうね。

 もともとが都心生まれなものですから、空を見上げても冬じゃなきゃ星が見えない生活をしていたので、空に対する意識というのが強くて。
 ふと立ち止まって、空のスナップ写真を撮ることが多かったんですよね。

 それなのに、ここ最近は、空すら見てないことに気づきまして、しばらく足を止めてしまいました。


 そういう想いになったのは、『チャーリーとチョコレート工場』を観てたからでしょうね。

 日本人的発想から離れられないもんで、拾ったお金で得たチャンスを逃さないという、いかにも大陸的なお話にカルチャーショックを受けましたが(日本人的発想なら、拾ったお金だから最後にはチャンスを返上するオチになると思う)、自分の中の「幸福」の基準が明確であることが大切だなというのは、世界共通かなとおもいまして。もちろん、それが、利己的なものではいけないということも。

 まぁ、そういうことを「キッチリ」意識したのではなく、漠然と感じただけですが、漠然とでもそういう風に心が動いたということがすなわち「作品」の価値というもので、こういう仕事に携わる人の社会的使命の達成でもあるのでしょう。

 「作品」というものは、たとえば大災害などがあったりしたときに真っ先に「いらないもの」にされがちなものですが、実際は、こういうものがなければ、現実にとらわれすぎるがために効率を最優先させ、人の心はすさむばかりなんですよね。

 まさに、空を眺める余裕のない私みたいな。


 今朝も、(珍しく)余裕をもって仕事に出かけた途中、時間的ゆとりと心のゆとりがあるがために、ふっとなんでもない空を見上げることができました。


 そこには、なんの特徴もない空と、けっして美しいとは言えない電線群がありましたが、その、「なんでもなさ」が私の心には妙に興味深く映りまして。

 とても計画性や美的価値など意識したとは到底思えない、いかにも日本的なみっともない(と言われがちな)電線群は、とにかくまず、生活の質の向上を優先していた日本人の意識の積み重ねの象徴なのでしょう。
 一般的にそういうのは、インテリに言わせるなら、日本人の芸術に対する意識の低さの表れだと言われてますが、文化的形式や様式美よりも人に対する「優しさ」の結果だと、そこに感じたんですよね。


 もちろん、スキのない美という要素は当然のことながらカケラも感じませんが、それでも、この、意図的ではない線のひかれ方に、私は妙な感動を覚え、そこに、まったく違う「美」を感じました。

 それはちょうど、真っ白なキャンバスに絵筆のしぶきをつけたような、「その一瞬」でしか作れなかったであろう景色であり、「作品」でもあると私は感じるんですよね。

 そんなことを考えて電線がひかれているハズもないのですが、私のように、そこに美しさを見いだして切り取る人間がいて、それを見た人がまた何かを感じて、それが心を通じて行動につながり、また伝搬していく・・・・そういう作品を創れるようにならないとね。全然修行が足りません!



 余談ですが、この、『チャーリーとチョコレート工場』ですが、映画の中での言葉のセンスが、色んな意味で、いかにもアメリカ的!な感じがしました。

 「金は世の中にごまんとある。毎日印刷されているくらいだ。だが、このチケットは、こんな広い世界にたったの5枚しかない。二度と、手に入らんものなんだ。そこらにいくらでもある金のためにそれをあきらめるのは愚かだ。お前は愚か者か?」
「いえ、違います」
「だったら、そのズボンの泥を払え、チョコレート工場に行くんじゃろ」

 こういうのがあって、チャンスをモノにした上で「選択」ができる・・・ってのがこの作品の「ミソ」で、単なる「マジメが一番」とか「家族って素晴らしい!」って単純な構造じゃないところが、いいところですよね。そういうのがないと、何度も鑑賞するのは不可能ですよね。

 一言で言えば、哲学がそこにあるってことですよ。つまらない人間にそれがないのもそういうことです。
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2011.01.17 02:14
この冬ではじめての本格的な雪の日でした。

そのため、誰も冬支度なんてしてないもんだから、日曜だというのに車の少ないこと少ないこと。

仕事帰りに歩いて帰る私は久々の雪道をザクザクと踏みしめながら歩く。

顔をあげれば、信号がかわってもゆっくり発進する車がいたりする。

いつもはせわしなく車が行き交う交差点なのに、まるで真夜中のような車の少なさと、普段では考えられないようなスピード。

それはまるで雪が、忙しすぎる世の中のスピードをゆるめてくれてるような感じを受けた。

そんな中でも、スピードをあげたせいなのか、坂道の頂上地点の手前で、タイヤが曲がった状態で停車している車もある。
おそらく、ホイルスピンしてるのにパワーをあげて、少しのハンドル操作で勢いよくスピンしてしまったのだろう。

やはり、こんな日はたとえ早く帰りたくても、慌ててはダメである。
そうしたい気持ちはわからないでもないが。

私の家は、新しい住宅地のなかにあるので、構造上、通過交通が少なくなるようなつくりになっている。そこに住む生活者しか通らない道があるということだ。

普段はそういうことを意識するのは、周りが静かだとかいうときぐらいだが、こんなに雪の積もる日には、その生活の軌跡というものが明確に提示されることがある。





雪道に残った「わだち」は、ここが住宅地の生活者用道路で、必要のない道路の使い方はしないという証でもあるように感じた。

人は、自分の欲望に従って生きている。

「家に帰りたい」
そういう気持ちに素直に生きているということである。

その想いが空回りすることもあるし、その想いが家庭という幸せや、その積み重ねで「当たり前」をつくっていくのだとも思う。


雪が降り続く静かな夜は、いつもより時間の流れがゆっくりと感じられる。
それはきっと、「たまの雪」だからこそなのだと思う。

どれが正しいかなんてわからない世の中だけど、ひとつ言えるのは、真っ白な雪だけが見せてくれるものがある、ということだけ。

安全ばかりを意識しすぎて、誰も通らない道を歩くゆえの心地よさも味わえないのなら、それはそれで不幸だと、すくなくとも私は思う。

みんながわだちを残すのなら、私はそのわだちを見て、そこに思いを馳せる。

そんな楽しみ方が、人生にはあってもいいんじゃなかろうか。

少なくとも、そういったものが、私には必要なのだ。
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2010.04.14 23:15

今日ではないが、前の携帯(WILLCOMアドエス)のデータを整理していたら、撮りっぱなしになった写真が出てきた。

エビのフォール
 これは、いけすの中で伊勢エビが他の車エビ(?)を足でフォールしている写真である。わざわざ解説がいるのは、エビがジタバタしていたのを静止画ではうまく伝えられないからである。

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2010.04.06 23:36

壊すこともできない
 先日、総合駅の近くの公衆トイレに入ったら、トイレの窓に、パンチだかカカト落としだかわからないが、一発入れられている光景に出くわした。

 この窓は、ガラスの中に金網が入った割れにくい窓で、さらに鉄格子までついた頑丈なものだが、それに一発、何のためかわからないが一発、入れられていたのだ。

 ご覧のように、この窓はどんな強烈な一発を入れようが、人の力ではいかんともし難い強度を誇る。ヒビは入るが、窓自体が粉々になることはない。

 これをやった人がそのことを知ってか知らずか、もう一枚の窓も、同じように一発、それよりも強烈な一発をお見舞いされていた。粉々になることはなかったが、この窓よりも若干、中心のガラスの飛散面積が増えていた。だが、窓自体がその役割を失うほどの被害ではない。

 

 何がしたいのだろう? という問いはムダだろう。とにかく、なんらかの破壊衝動に駆られた、という理由だけが確かなもので、あとは個人的な感情によって引き起こされた、些末な行動だ。ただ、周りの人間にとってはそうであっても、本人にとっては、ムダなことではないのだろう。

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2009.04.21 22:40

 「ちょっとした気配り」を見つけました。

 今は、物を買うと袋にテープ貼る習慣があるじゃないですか。あれ、万引き予防と落下防止用につけるんだと思いますけど、あのテープってはがしにくいと思いません? つけるなよ! と叫びたくなりません?

 そんな袋についた「うざい」テープですけど、この間買ったところのは、よく見ると、ちっともうざくなかったですよ。むしろ、感動した。

アイシティの気配り わかるかな?
 テープの端が折り曲げられていて、はがしやすくしてあるんですよ。その証拠に、テープが浮いてますよね。

 今どきは、テープを「ギザギザカット」じゃなくて真っ直ぐ切れるというテープカッター台(新製品)も売っていますけれど、業務用のテープ台なんて、たいがい「ギザギザカット」。

 それが、紙袋だとか、ビニール袋についてるわけだけど、その、ギザギザをはがすときのもう、むかつくことむかつくこと。みなさんもそう思ったことが一度や二度どころではないはずだ。
 なに? 切ればいい? 再利用したい場合とかもあるじゃないですか、人に渡すときとか。そんな時も困りますよね、テープの残りカスがついていたり、テープを引っ張ったときに袋が伸びちゃったりとか、紙袋だったら破れちゃったりだとか。

 そんな、「うざい」袋のテープですけど、こうやって、片方を折り曲げておくだけでもう、まったく別のものになったような感じがします。変な言い方だけど、非常に快適。

 そもそも、ブランドショップの紙袋をコーティングしてバッグとして再販することが問題になるほど、ブランドロゴの入った袋を持たせたがる昨今ですが、企業は、「持たせる」袋にはこだわってみせても、客がテープをはがす「苦労」を、なんら顧みてこなかったような気がする。

 客は一度たりとも「袋にテープを貼ってください」なんて頼んでなんかいない

 にもかかわらず、「袋にはテープを貼る、これ常識」と店側は、頼みもしないテープを袋に貼りつづけた。ハッキリ言って、店側の都合で。口の開いた袋で万引きする人が多かったためだろうとは思うが、一般客には、いい迷惑でしかない。ただ、「理解」しているだけだ、そういった店側の都合を。はがすときにイライラを抱えながら・・・。

 それはたしかに当たり前のことなのかもしれないけれど、当たり前になりすぎて、そのことについて何ら配慮がされずに来ているのが現状なんだろう。その根底にあるのは、客を「消費者」という存在としている考えだとまでは言わないが、自分もひとりの客として、「こうしてくれたらいいのに・・・」という想いがあるはずなのに、それを自分の仕事に持ち込めない。持ち込んだほうが絶対「いい」にも関わらず、だ。

 そういったエネルギーというか、発想が生まれないのは、やっぱりどこか、お客というものが、「見知らぬ他人」だという想いがあるからではないだろうか?

 

 この、テープを貼る際の気配りを誰が始めたのかわからない。調べてもきっと、見つからないだろう。だって、簡単なことだもの。ある一人の人だけが発想したことではないと思う。

 私が思わず写真に撮ってしまったこのテープも、この、厳しくてケチな私が人に勧めるほど信頼できる「あまり安くない」コンタクト屋の会社の方針なのか、それとも、私にこの袋を手渡した店員が自分の判断でしたことなのか、それともその店員がどこかで同じようなテープの使い方をされてうれしかったからなのか、それとも従業員の中で話し合ってやるようにしたことなのか・・・・それは私にはわからない。

 しかし、「たかが」テープの貼り方ひとつでも、その小さな行為一つにも「やさしさ」とか「愛情」というものが込められるんだな、という感じがした。

 特にそれは、他のところではあまりお目にかかれないからこそ、なおさらそう感じるんだろう。そして、だからこそよけい、意識しないかぎり、それには気づかない。でも、やさしさとは本来そういうものではないだろうか?

 お仕着せのサービスや、お仕着せの愛情や、見返りを求めるやさしさがあふれている世の中で、本当のサービスや愛情ってのは、マニュアル化された「行為をなぞる」のではなく、そうやって、相手の立場に立って、自分の手間を惜しまないなかに生まれるのかもしれない。

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2009.02.28 23:55

 夜8時、営業も終了してるであろうラジコンショップの前に、一台の車がとまっていた。フェラーリ(たぶんF360)だ。

フェラーリ

 今日は土曜日である。そんな日の夜にフェラーリがラジコンショップの前にいる・・・もったいないと思うだろうか?しかし私には、なにか心を動かされる光景に思えた。

 ラジコンとかパソコンとかを好きな人は、同時に車好きであることはよく知られていると思う。それはきっと、メカニカルなもの、かつ、それをいじることが好きなのであろう。

 だから、別段不思議な光景でもない、とも言える。実際、中日ドラゴンズの山本昌投手(44歳)は、億単位の年俸を毎年もらい続け、複数のスーパーカー(エンツォ・フェラーリ含む)を所有し、同時にラジコンの腕もプロ級としてよく知られている。ラジコンを趣味にするお金持ちはいるわけだ。
 それもそのはず、おもちゃ屋で売られている既製品のラジコンと違い、本格的なラジコンはお金のかかる趣味である。ときには、原付バイク並のエンジンを搭載したラジコンヘリもあったりするわけで、お金がかからないはずがない。

 そんなラジコンを趣味とする人が、おそらく営業時間外、それも土曜日にお店に来る・・・ということは、その人にとって、それが一番大事だという証なのではないだろうか?と感じたのだ。

 フェラーリに乗ってる人が、金持ちのボンボンなのか、それとも、自ら財を築き上げた人なのかは私には知る由もない。しかし、この人にとって大事なのはつまり、こういうことなのだろう。

 「クルマとラジコン、そして気の合う仲間があればいい」

 別に、フェラーリに乗ってるからとか、土曜だからとか、そんな理由で女と遊ぶといったこともしないのだろう。むしろ、それを利用しない、したくないとさえ思っているかもしれない。もちろん、正確なところはわからないが。

 私がこの光景を見て感じたのは、敬意に近いものなのかもしれない。周りに合わせない姿への敬意というよりも、もっと、こう、ひたすら自分の「好き」なものを追いかけ、それを実現した姿。たぶん、この人がボンボンなら、こんな時間にラジコンショップで語らうなんてしないだろうから、フェラーリに乗りたくてがんばってお金持ちになったのだろう。そしてそれを実現した。巨大なラジコン、フェラーリと、おそらく子供の頃から好きだった小さなラジコン・・・それを儲け度外視で語り合える「居場所」と「人間関係」がある・・・たとえこの人が奥さんに逃げられていたとしても、この人はきっと、幸せを享受できているのだろう。

 そしてそれを見た私は、自分に何が欠けているのか、なんとなくわかってきた。

 私は、自分の中に、夢のイメージがあっても、それに向けて努力していても、それがいつも漠然とした形でしかなかったのだ。たとえばこの人のように「フェラーリに乗りたい」というような具体的なものではなく、「いつかは…」と考えてる自分がいたことに気がついた。なのに今まではそれに気づかず、その「いつか」にちっとも近づいてないような自分に一人で焦ったり、悩んだりして、でも、だからといって大きなエネルギーが湧くということもなかった。努力していないとまでは言わないが、あまりにも自分で「実感」を感じられなかったから、それが障壁となって立ちすくむ結果となってしまっていたのだろう。

 私は、もっと自分の感情や欲望に、もっと素直になるべきなのかもしれない。常に我慢して努力してればなんとかなる、それが必要なことだと思ってた。だが。結果は違うのだ。 この、フェラーリとラジコン(とその仲間)を愛する人に、私は生きる上で大切なことを教えてもらった気がする。
 もちろん、そう思えるようになったこれまでのことももちろんあるのだが(昔のブログ名も『欲望の日々。』だったし)、私が今、一番何をすべきかというのを問われているような気もした。

 私は、文を、自分の思う価値でお金と交換したい。
 昨今は、仕事ではなく身分で給料が違うといったような、「対価」という発想があまりに軽んじられる傾向がある。私は、そういうことを常々おかしいと思いながらも、自分もその罠にはまっていることに気づいていなかった。

 私は、自分の文の、具体的な対価を考えたことが一度もない。「これならこれぐらいもらって当然だろう」というような。もちろん、実際問題、そんなことが言えるのはごくわずかな物書きだけだ。たいがいは、とにかく仕事をこなしていく内に、強く出られるようになる、というものだろう。

 私も今までは世の中はそういうものだと思ってきた。しかし、今の世の中、私の職業のように、3年経ったらどれだけ仕事が出来ようが、新しい人と入れ替える、というようなことを平気でするような世の中だ。法を守る側の役所ですらそう。

 むしろ、私のように、「いつかは報われる」と信じている人間の心を「まじめに働く便利な労働力」として利用しながらも、困ったら「立場」を利用して切ることが出来る・・・・私はここで、その善悪を問うているのではない。別に、人間なんてそんなものだ。つい数十年前まで黒人は人間じゃなかったし。
 そういうことではなく、そういう「現実」を現実として受けとめ、それに悲観することなく、愚痴をこぼすだけでなく、「その中でも」たくましく生きていくための方法を、見つけたような気がしたのだ。

 対価の価値を知らない人間には、対価を教えるしかない。それはつまり、自分を安売りしないという事だ。安売りしてしまったら、叶う夢も叶わなくなる・・・・フェラーリは一生買えないようになる。私はフェラーリがほしいわけではないが、水素ロータリーのハイドロジェンRX-8がほしい(市販されてないけど、買えば一千万はするだろう)。

 「好き」を追いかける、それはつまり、自分の人生を自分でデザインして、かつ、それを実現させていくための大事な姿勢なのだろう。自分自身を大切にすること、自分の「価値」を自分で不当に落とし込めないこと。それが、今の時代を生き抜く我々に必要なことなのじゃないだろうか?
 閉店後のラジコンショップ前のフェラーリは、そのことを教えてくれてるかのようだった。

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