死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2013.12.18 00:28
 こんばんみ。
 相変わらず仕事をしまくっているtkiyotoですよ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 毎日毎日、「仕事をしすぎた」「その割に給料に反映されない」とため息をつく日々ですが、しかしあれですよね、今の自分は、今の自分が望んだ現状になっていることが現実としてはあるんですよね。

 たとえば、「仕事は常に認められるし、周りから頼りにされる」割に固定給だから給料には全く反映されない・・・と思っていたとしても、逆に「仕事で認められないとか頼られないのは嫌」という自分がいてそうなっているわけで、実際にそういう状態になってしまったらとっても不幸ですよね。たとえ給料が良くても。

 そんなわけで、自分が望む人生を生きていると言えば生きているのが人間というわけで、悪いところばかりに目が行きがちだけれど、その悪く見えるようなところも、実はある種の必然であり、それが自分のためになっているという側面があることも決して忘れてはいけないんですよね。


 逆説的に考えるならば、状況を変えたいのならば、自分の行動、その大本の意識から変える必要があるというのはもっともなことで、自分に望むものだけを「on」していくような都合のいい考え方がまかり通らないのもまた、必然なんですよね。

 よくいるじゃないですか、結婚したからと言って配偶者に自分の権利ばかりを押しつけても平然としている人。
 そういう人も発想は、自分という人間が正しさの中心であるという想いから「on」の発想になって、それを積み重ねて行くことでより、相手の立場に立てなくなっていき、自我を強化するあまり、どんどんと精神的な孤立に追い込まれて、たとえばある日突然離婚される・・・なんてこともあるので、物事に対して謙虚な気持ちになることで、自分のしていることを素直に「認められる」ようになる・・・という心持ちも大事だね、と風呂でホッと一息ついたときに思ったりしました。

 皆さんも、思考が堅くなりがちな冬こそ、お風呂に入りましょうね。
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2013.05.11 19:37
 世の中、アホだなぁと思うことは往々にしてある。

 たとえば、原発。原発のことを「安い」と言ってる人間は、昔からアホだと思っていた。なぜなら、「原発」そのものしか見ていないからだ。

 冷静に考えれば、物は作って終わりではなく、そこからの維持費の方がコストがかかることは、バブル崩壊でみんなわかったはずなのに、特に原発なんて、廃炉や放射性破棄物という、使っているときよりも長い時間「処分料」が必要になるにもかかわらず、そういうものに対しての感性が、日本人(に限ったことではないかもしれないが)はほとほと鈍いようである。臭いものに蓋、というか。

 とくに、アメリカのような、広大な敷地があったり、ヨーロッパ諸国のように植民地的に使える土地があるわけでもない、海と山だけの地震大国で、原発の「ゴミ」をどうするんだという議論は、いまだに解決を見いだせそうにない・・・というか、解決するわけないのに、頑張って、努力しているわけだ。
 原発の輸出ならまだわかるが、世界最大ともいえる地震国日本で原発を推進するなど、今の時代に生まれた人間からすると「アホの極致」としかいいようがない。

 もちろん、日本が高度経済成長したのは、原発の役割も大きかったし、火力のように汚染を排出するでもなく、水力のようにいつも発電できるわけでもないから、原発のみが、一度起動したらフル稼働するしかないが安定して使えるベースロード電源として活躍していたのは、私が小学生のころから知っている。

 だが、だからこそ、原発の「うまみ」に甘えて、それを見つめ直す時を取らず、それゆえに放置された、原発が抱える闇についても憂えているのも現実だ。


 なぜ人は、いい面しか見ようとしないのか?

 たしかに、書店にあふれかえる自己啓発本のほとんどは「いいところを見よう」とポジティブに訴えかけているし、実際、世の中の「上の方」の人たちは、市井の人たちよりは確実に「ポジティブ」である。いわゆる「成功者」はケチな人より明らかにポジティブだし、貧乏でもポジティブに生きている人たちは幸せそうである。
 ただ、ポジティブになればいいのかというと、そうでもない。先に挙げた原発の問題は、原発をポジティブに考えてなければ起こりえない問題なのが、いい例だ。

 もちろん、「ポジティブ思考」そのものが悪いわけではない。

 だが、「ポジティブ」とは何かに対しての相対的な位置づけであり、だからこそ、その正反対の極致として「ネガティブ」が存在する。
 自己啓発本の「ポジティブ」は、本来は、自己啓発本を読まないといけないと思いこむような心持ち(つまり「ネガティブ」な気持ち)があるからこそ、訴えて響く考え方であり、「ポジティブ」そのものが素晴らしく、正しく、世界を救う手だてなどと喧伝するのは、ちょっとどうかなというのが私の考えである。

 たとえば、美人でスタイルが良くて、周りにも気を使える、頭の良い女性がいるとして、実際そんな女はいないかというといるのはいるのだが、だからといって、その人が人として「完成形」であると考えるのは間違いだ。

 美人でスタイルが・・・・となると、注目度も高いから、過去のこともぐちぐち言われるだろうし、高嶺の花になればなるほどイメージで語られてしまうので、本人がいくら努力しても防げないトラブルに見舞われることもあるし、周りから「美人はいいわよね、お気楽で」などと言われることそのものが、時には美人にとっては負担にもなるだろう。

 このように、一つのことに対して、一面的なとらえ方をしていては見えてこないものがあるのが、本来は「当たり前」であるのだから、そういった意識を心のすみにでも、置いておかなければいけない、ということだ。


 そのことは、みんな知ってはいる。わかってもいる。

 だが、ときとして人はそれを忘れてしまうし、特に、自分の関心にないことに対しては、それこそ、そこに意識をめぐらせることをしない。

 原発の問題も多くはそういったところから来ているし、ずっぽりと社会の仕組みの中に入り込んで、関わる人が多くなって、イノベーションも、リノベーションも起こらないような状態になってしまっていたからこそ、冷静に考えれば小学生でもわかるような「真実」がなおざりにされてきた。

 これは何も原発に限ったことではなく、たとえば、毎年たくさんの人を殺している自動車の速度は未だに遅くならないし、ロボットの技術進化は人を殺せない様にするどころか、操作する人がイヤな思いをせずにゲーム感覚で人を殺せるようになってしまった。

 そんなアホな世の中の中で生きるのだから、ある程度我々も、アホにならなきゃやっていけないのも事実だろう。でないと、とても、生きにくい。生きにくいから、死を選ぶ・・・なんてことも、あるだろう。


 純粋すぎる人が自殺する・・・日本の将来を憂えて割腹自殺(切腹)した、作家の三島由紀夫なんてその代表格なんじゃないかと思うんですが、「生き抜く」ためには、時には汚れることもあるだろうし、泥にまみれることもあるだろうし、でも泥を食らい、汚れを隠しながら生きていくこともまた、違う意味では「純粋」なのだと思う。ただ違うのは、アホになれるかどうかだけ。

 もちろん、アホそのものになってしまってはいけないけど、アホにならなきゃやっていられないこともありますよね。でなきゃ、生きていけないし。

 でも、だからこそ、こうやって、時には真面目に人生と向き合うことも、人間には必要なんじゃないですかね?


 それがある人とない人との差が、本当にアホな人との差、なんじゃないでしょうか?
 
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2013.03.22 13:37
おはゆごぜます。
早起きしてブログ書こうと思ったけど、そんな時間もなかったtkiyotoですよ。

あれですね、寝たら頭の中が一回リセットされてしまうので、冷静に振り返るとかなら効果的なんでしょうが、想いを綴る系の記事は、頭の中に何もないので、書く気がまったく起きないですね。

まぁ、起き抜けに想うことは、「眠い」とか、「暖かくなって来たな」とか、「まだ今日は寒いな」とか、「春眠暁を覚えず」とか、どちらかというと、思索じゃなくて詩作に向いてるように思います。

どちらにしろ、書くネタを「朝書こう」と思って寝ても、朝起きる時にはどうでもいいやとなってしまうのは、おそらく、それで一日が終わって、また新しい一日が始まるというプロセスーーつまり生きるプロセスをくぐり抜けた安心感からくるものもあるのでしょう。

そうであるならば、不安で眠れない夜があるとか、朝が来るのが怖いとか、夜中にやたらといけない考えに支配されてしまうとかは、実は、生きるプロセスを正常に送れていないサイン、なのかもしれません。


もちろん、朝起きても悩みが続いている・・・なんてこともあるのは避けられないかもしれませんけど、それでも、朝を落ち着いた心持ちで迎えられることが、ちゃんと生きていると実感できるということであり、それができるように逆算して人生設計をすれば、生き続けることは難しいことではないのかもしれません。

それを思うと、朝、市場に行くとか、朝、漁や畑に出るとか、朝、ラジオ体操するとか、いわゆる「健康的」な生活をすることはやはり、長生きすることに繫がる生き方なのかもね、と思いましたよ。

だから、朝、やることを見つけることは、見つけられている人は、幸せなのかもしれません。

もちろん、義務的な「やらなきゃならないこと」ではなく、できれば、自発的な「やりたいこと」であることがベストなのは言うまでもありませんがね。
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2013.02.04 12:10
 「熱心な教育指導」と「体罰」は紙一重だと言う意見って、多いですよね。

 でも、普通に考えればわかるけど、違うよね?

 教育に携わる人間は、何のために働いているのか?

 子供の未来に仕える仕事なんじゃないのか? だからこそ、「聖職者」と言われるのではないのか?


 たしかに最近の先生は、「仰げば尊し」みたいな人は少なくて、友達感覚的な、人間味のある人が多いけれども、それでもやはり、子供の未来を案じている人がほとんどだ。もちろん、なかにはニュースに出てくるようなアレげな人もいるかもしれないけれど、一般社会にくらべたら圧倒的に少ないと思う。
 実際、教育現場に入って仕事したことがあるけれど、おかしい人はそういない。むしろ、一般企業よりも明らかに、社会や子供のことを考えているのは疑いのない事実だ。

 体罰問題が五輪代表にまで及ぶほど拡大している現在、賛否両論が渦巻いているけれど、そもそも、「体罰は是か非か」というシンプルな議論に持っていくことそのものがおかしい。原発問題もそうだけれど、「議論する=どちらか正しい方を選ぶ」という簡単な二極化に持っていくことこそ、諸悪の根源じゃないかと私は思う。なぜなら、これで問題が解決するとは思えないからだ。問題を提議するのによく使われる手法が、目的になってしまってる・・・大人の社会ではよくあることだが、非常に恐ろしい傾向だと思う。

 で、そんな世の中にあって、当事者の子供たちはどうすればいいのか?

 今日も新聞には、「体罰問題のあった高校の駅伝強豪校」の話が載っていました。
 体罰問題があった監督は参加できず、主将はレース直前監督に電話を入れて激励されたとか、報道陣に向かって「監督のおかげ」と言ったとか、強豪校にした指導者なので卒業生の親らがゴール付近で監督続投の署名を求めたとか、把握している体罰は12件あって転校や退学した生徒もいたそうな。

 日本のスポーツ界って、いわゆる「軍隊式」であっても、「結果」さえ残せば多少やり方に問題があっても、目をつむろうってところ、多くないでしょうかね。いや、海外がどうなのか実際にはわからないんですけれど、日本人に多い「仕方ない」がここでも発揮されることが多いように思います。それは、たぶん日本人の美的感覚として「苦労して苦労してたどり着く」というのが好きというのも多いに関係しているでしょう。

 「楽したらあかん」と。だから、厳しくするんだと。

 相撲でも体罰による死亡事故がありましたし、おしどり夫婦で人気のプロレスラーが「シゴキ」で事故死させてしまったということもあったようです(真偽のほどはわかりませんが)。

 「スポーツは他者と争うのだから、どんな辛いことでも負けない心を育てる」という一種の愛情表現が、日本スポーツ界にはびこる「愛のムチ」。

 これはたしかに、戦前から戦後にかけての厳しい時代を生きてきた人が手に入れた、たったひとつの「真実」だったのかもしれませんが、それを「押しつけられる」方はたまったものではありません。
 そうしなければ絶対に成功しないかといったら、そんなことはありません。だって、「真理」ではないですから

 「体罰?必要です!感謝してます!」
 という成功者もいるけれど、それがあったからこそ・・・って思ってる人ばかりではありません。実際に、昔の優勝監督がはびこらせた「体罰」を禁止させて黄金時代を作った、前中日監督の落合博満みたいな人もいますし、中学時代から「その体罰に納得がいかない」と言っていた中田英寿みたいな人もいますしね。


 暴力の問題は根が深い。

 それは、未だおさまらない日中・日韓関係を見てもあきらかです。

 よく、相手国の「国民性」を問題にする人がいますけれど、相手国の国民性に問題があるとしたら、こちら側の国民性にも問題があるという発想を忘れてはいけません。

 そう、それはちょうど結婚みたいなものです。
 妻が悪い、旦那が悪い・・・そんなことを言い合って、何が解決するというのか? そうなってしまうのは、そもそも、解決する気もないし、自分たちの負担を減らしたいだけの人間の欲望がそこに垣間見える気がします。

 それがたとえ、9:1にしても、非があることを認めた上で「お互いにとって」よりよい関係を築く・・・つまり、離れることになっても相手のことを想いやれる気持ちが必要ということです。
 これは結構たいへんなことです。愛情がなくなった人に愛を注ぐみたいで・・・だから、なかなかできないんですが(まぁ、国交間の問題は「一度何対何で決まったのに蒸し返しやがって」みたいな気持ちがついてまわるからもっとややこしいんですが)。

 体罰の問題も同じ。

 指導者が体罰をする。結果を残す。

 あら、全部正しい。やっぱり体罰は効果があるんだ。むしろそういうのを制限するのはダメなんだ。

 それは、10:0の考え方です。

 体罰に文句を言う方がおかしい。イヤなら辞めろ。殴られて鼓膜が破れても、そういった指導に嫌気がさしてそのスポーツ界から優秀な人材が去っても、「仕方がない」・・・。
 大相撲の季節になると必ず「日本人横綱が生まれない」ことがネタになりますけど、こういった所に根っこがあるんではないでしょうか? ちょうど、大人社会でも、就業環境が良くない会社は、優秀な人材ほど辞めていくのと同じように・・・・。


 日本は島国根性があるというのは皆さんも認識していることでしょうけど、スポーツ界、とくに学校スポーツ界でもそれは特に顕著なんじゃないかな、と思います。

 自分たちで道を切り拓くことができないから、たとえ問題があっても、それができる人に頼りたい。多少の問題があっても、成功例の方が多いのだから、そこは目をつぶろう。それが、子供たちのためになる。
 結果が伴えば、将来にも繋がるし、成功体験を味わえる・・・・それが、反省しない体罰指導者を生む温床になるのでしょう。

 子供たちの声に耳を傾けない、子供たちのためを思って心を鬼にしている大人たちが、本当に鬼になってしまっている・・・というのがおそらく、体罰問題の、本当の問題だろう。

 特にやっかいなのは、「感謝してる」って人がいるところですよね。それが、気づかないうちに「鬼」を育てている。昨日は節分でしたが、まさに「鬼は外」と言うのは、大人になってからかもしれません。


 大人の社会では、清濁があるのが人間で、多少問題があっても、結果が良ければ目をつむろう、的なことはしょっちゅう行われております。でもそれも、いつまでも許されるものではなくなってきているのが現実。

 昔は、「セクハラ」は泣き寝入りが常識だった。

 でも、今は逆に上司が「セクハラ」におびえる職場も出てきている。

 どちらが正しいとかが問題ではなく、忘れてほしくないのは、大きな時代の流れをつかむことだ。

 体罰教師は、体罰教師の生きた時代に身につけた成功体験を、子供たちに味あわせたいという「愛情」から、「心を鬼にして」結果、体罰をくり返す。なんど学校から指導されようが、子供たちがいなくなろうが、「成功」のためには、多少の犠牲もいとわない。

 なぜなら、その方法しかできないから。それ以外の方法では、結果を残せる自信がないから。その自信を作る方法論を構築してこなかったから・・・だから、自分にできるベストを尽くすしかない。期待に応えることが大事だ・・・彼らの思考プロセスはおそらくそうなのだろう。

 だから、恐ろしいことだけれども、当事者の声はさておき、「卒業生の親が署名活動」なんてことも起きる。「厳しくされたけれども、今の我が子があるのは監督のおかげ」と。結果しか見ていない。教育には、プロセスも大事だというのに・・・・。


 でも、その「成功の船」に乗れなかった人はどうなるのか?

 そこまで考えている体罰教師はおそらく、少ないだろう。なぜなら、そこから逃げだした「負け犬」は、人生も「負け犬」になると信じて疑わないからだ。

 たしかに、何ごとからも逃げ続け、成長しない人は現実にはいる。

 だが、昔使われていたけど、今はほとんど使われなくなった「腐ったリンゴ」方式で育てる教育は、社会に負の影響を及ぼすドロップアウターを創り出すことがわかっている。そういう教師がいなくなったワケでは決してないが、「それは果たして、社会にとって益があることなのか?」と考える人が増えたということだ。
 そういう大人は必ずいる。目に見えない「結果」を見られる人だ。

 もちろん、そうでない人間もたくさんいる。

 大人はついつい懐古主義にひたりがちだ。誤解を恐れずに言うならば、中途半端に成功した人ほど、自分の成功を客観視できていないから、安易に「これが正しい」と断言してしまう傾向があるように思う。嫌われ者のワンマン社長とかもその典型だろう。

 中途半端な成功でも、成功しないよりはマシ。

 それが、大多数の大人にとっての「真実」。

 それが結局、暴力に見舞われる子供を生み出す温床になる。大人たちに「悪意」はない。むしろ、本人たちは「善意」だと思っている。

 だが、大人の社会では、「善意」が人を殺すこともある

 むしろ、善意だと思っているからこそタチが悪いこともかなりある。原発問題も、諫早湾の問題も、長良川河口堰の問題も、ベースは利益だけじゃなく、「善意」だ。だが、それで苦しむ人は確実にいる。それが見えなくされているだけだ。

 また、それを教えない大人があまりにも多い。綺麗事で塗り固められたものを伝えることが教育だと信じ切っていることなど、まさに「善意」による暴力そのものだ。

 現実は、その通りにできていない。なのに、それしか見せない。それを「暴力」と言わずになんと言うのか?


 体罰等、理不尽なことに負けず、非常に優秀な結果を残す人間は、スポーツ界に限らず、そのことを理解している人間だ。その、「非常に優秀」というのは、周りがどう言っているかとかそういうレベルではなくて、「あの人は○○をしたんだ」という枕詞さえ不要な人だ。その人の言葉そのものが、言霊になるような。

 体罰問題は大きくなったからこそ、以前よりはマシになることも多いとは思う。
 けれど、そういったことが絶対なくなるとは言えない。それは、どんな立派なシステムを作ろうが、人間そのものが入れ替わらない限りなかなか難しいから。そして、そんなことは現実問題、不可能だからだ。

 だからこそ、そういう問題の当事者になった人、特に体罰やイジメを受ける側の人は、そういったことに負けずに生きていくことが必要となる。それは、目の前の「成功の船」に乗れないという辛さを受け入れることに他ならない

 でも、よく考えてほしい。

 あなたが乗りたいのは、その「成功の船」なのか?と。

 本当に、その船しか、この広い世界にはないのか?と。


 高校生ならば、ある程度自分で学校も選べるけれど、義務教育を受けている子供は、学校を選べない。それでも、自分が乗る船は、自分で選ぶ気持ちを持ちたいところだ。

 あなたが乗りたい船は、ルフィが船長を務める「サウザンド・サニー号」か? エースの船か? シャンクスの船か? それとも「黒ひげ」の船か?

 子供でも、人生を選ぶ権利はある。むしろ、子供にこそ、人生を選ぶ権利はある。大人は養わなければいけない者がいるからこそ縛られる。でも、子供はその面では自由だ。その事実こそ、疑いようのない「真理」だ。

 だからこそ、子供が自らの手で人生をつかみ取り、自分の人生を生きていかなければならないし、それこそが、本当の成功だ。大人たちが言う「成功」は、本当の成功じゃない。それはたしかに「嘘」ではないかもしれないが、必ずしも「本当」とも言えないからだ。

 どっちかが正しいという安易な考え方にならず、必ず「側面」を見る習慣を持つことだ。そういった発想を持ちつづけることが、成功への秘訣だ。そしてそれができれば、体罰しかできない教師に「違う意味で感謝」することができるようになる。精神的にも優位に立てるだろう。


 そのためには、学校とは別の、そういった「真理」や、それを見つける術(すべ)をもたらしてくれる、小説やマンガ、映画、美術、音楽など、精神的栄養を与えてくれるものに触れることが大切だ。それこそが、本当の意味での「教養」だ。体罰教師の辞書には「強要」はあっても、「教養」はない。だから、押しつけるしかできないのだ。

 大人たちは神サマじゃない。だから、すべてをすべて信じる必要なんてない。また、それを伝えるのが、作り手たちの仕事だ。学校に行かなくなってもいいが、そういったものに触れることは欠かさないでほしい。
 それが無駄に耐えることよりもずっと、あなたを強くするかもしれないから。

 そして、それをわかって伝えてくれる教師こそ、本当の聖職者だ。
 なぜなら、あなたの人生そのものを、真剣に考えてくれているからだ。


 世の中は、一本化されていない。複雑なバランスの上に成り立っているものなのだ。

 その中で、ひとつの成功パターンだけで生き残れるとは限らない。むしろ、大人社会を生きてきて思うが、それがあるために、成長せず、人に害悪をもたらす大人たちのなんと多いことか。

 それが結局は「暴力の連鎖」を生む。
 これは、体罰じゃなく、「児童虐待」の連鎖にも言えることだ。

 世の中は本当に多様である。そのことを常に忘れないことだ。それが、結局は、人間の価値を高めることに繋がる。周りが思う「成功」だけを追い求めると、それが見えなくなってしまう。

 あなたは、そんな人間になりたいのか?


 最後に、ちゃんとした大人がいるからこそ、この世の中に絶望しないでほしいというメッセージを含めて、大人たちが子供たちに読んでほしい本として「青少年読書感想文コンクール」の課題図書に選んだ本から引用する。

 戦争という暴力から人生哲学を学んだのか?という質問に答えた、サッカー日本代表の元監督、イビチャ・オシムの言葉だ。

「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」(木村元彦著『オシムの言葉〜フィールドの向こうに人生が見える』)


 たとえ、「体罰」から学んだとしても、それをくり返すことは、人として正しいことだろうか?

 少なくとも、我が父は、それをしなかった。柔道の有段者である父親(私の祖父)に体罰で育てられた父は、自分の息子である私たち兄弟には「絶対に手をあげない」と誓って、実際にそうしてきた。だからこそ私は言える。「体罰などなくても、成功できる」と。

 愚かな歴史や、くだらない現実に負けないでほしい。
 
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2012.12.16 00:35
 こんばんみ。

 ・・・これも結構古いんかな? まぁいいか(こんなこと言ってるとおじさんになるのだ)。


 そうそう、気づいてました?みなさん。

 iOS6ユーザーのためのGoogle Mapsアプリが公開されてるんですよ!

 しかも、速くて精度が高くて高機能!
 iOS6のような3Dビューもできて、市バスまで対応した総合ルート案内までついて、AppleにまざまざとGoogleの力を見せつけたような格好になっています。

 「さすがGoogleMaps」という声が上がるのはもちろんですが、昔もGoogleMapsも結構「?」なところもあったわけで、やっぱり、「継続は力」だなぁと感じる次第であります。


 だから皆さんも、自分の強みとか売りがないという人でも、とにかく、続けてりゃそれが力になるので、なにごともあきらめないことが大事だよ、ということです。

 というか、「続けることが力になる」というよりも、その「続けよう」と思えるモチベーションを支える「負けん気」とか「意地」とか「使命」とかが大事とも言えるんでしょうね。結局は気持ちの問題ということになるというか・・・

 でも、そもそも、映画じゃないんだから、ある日突然、天から特別な力を与えてくれるなんてことあるわけないので、「自分には何かあるはず」とあてもない観測だけで夢を追いかけ続けて結局何も得られないよりも、自分の力で「勝ち得た」ものこそ、自分が生きていくための力になるんじゃないでしょうかねぇ?


 それだけ。
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2012.08.21 22:50
 こんばんは。

 委託会社向けの懇親会で、セーラー服を着させられたtkiyotoですよ。
 とりあえず、ビジュアルには触れず、足キレイとは言われました。

 その足ですが、わざわざハイソックスまで用意したからリキ入れすぎかなと思ったんですが、上には上がいて、スネ毛を剃ってきた強者もいましたよ。

 銭湯とか行ったら恥ずかしいじゃんねぇ?とも思うんですが、こういう人って、やる前は乗り気じゃないクセに、いざ本番になるとノリノリだったりするんですよね。
 いろんな人がいるもんです。いいことです。


 始まってすぐなので、出オチで終わるんじゃないかと心配してましたが、意外と最後まで盛り上がってたのでよかったです。

 女装させられたのは二回目で、まぁ正直やりたかなかったですが、やってみればなんてことはないことで。

 本人が思ってるより周りは気にしないもので、むしろ、みんな社会人ですから、ある部分では楽しみ、ある部分では同情し、ある部分では感動する・・・といった色んな感情が混ぜこぜになった中を生きるってことが、大人ってもんですよね。

 いわゆるコドモと、何が違うって、そこですよね。

 知識があるとか、経験があるとかじゃなく、「わかって」いるということ。

 これは、教えてできるものでもないし、教えても理解できないものだし、自分で、つかみ取るしかない能力ですよね。

 それができれば、極端な話、小学生でも大人として扱われるし、それができなきゃ、いくつになってもガキ扱いされてしまいますよね。

 ま、教科書には載ってないことだし、先ほども言ったように、自分でつかみ取るしかないことなので、当然のことながら、学校では教えてくれないことなんですよね。


 ただ、それをやらなきゃ、大人として生きていくのはかなり大変なので、みんな苦労しながらでも身につけていくことですが、それに馴れすぎても今度は逆に大人になりすぎて困った人にもなることもあるので、そのバランスって、何気ないことですけど、意識し出すと、すっごい難しいことなんですよね。

 人の中にいると、当たり前すぎて、そんなこと意識することはないですけど、そういうのがない人にとっては、かなりすごいことだったりするもんなんですよね。

 だからこそ、人は人の中で生きる方が自然だし、健康的に生きられるんですよね。

 空気と同じように、意識しないでいられる方が幸せというか。

 「四日市ぜんそく」のあったかつての四日市とか、今では福島とか、安心して呼吸ができない状態は、幸せじゃないですよね。

 幸せとは、意識しないでいられることのことなのかもしれませんね。

 大人として生きるってことは、そういった中で生きることで、何かを手に入れるってことじゃないのかもしれませんね。
 「手に入れたい」って気持ちは、幼児だって持ってる感情ですから。
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2012.08.21 01:00
 こんばんうっひー??

 「こんばん…」まで入力したらこんな候補がでてきてビックリしているtkiyotoですよ。みなさん、いかがおすごしでしょうか?
 はてなキーワードが出てくる機能、必要でしょうかねぇ? ATOK。まぁ、ネタになるからいいか。


 本日、占いしてきましたよ。
 なにをって、まぁ、今後のことですよ!

 四柱推命という、ポピュラーなやつなんですけど、実は、やったことなかったんですよね。
 それを、パートナーが知り合いの経営者とやってきたというもんだから、じゃぁやってみようと。将来を占ってもらおうじゃないかと、どんなもんなんだと、マジメに。

 それで、行ってみたんですけど、もうビックリ。

 何がビックリって、昭和で生年月日伝えたら、それで本開いてなにやら漢字を書き出して、その上に西暦を書いたわけですよ。・・・10年違うやん!!

 もちろん指摘しましたが、大丈夫かなと思い話を聞いていたんですが、いやね、聞いた話もビックリでしたよ。


 以下、箇条書き
  • かなり珍しい運勢らしい
  • 正義感が強いらしい
  • 白黒ハッキリさせないと気が済まないらしい
  • かなり偏っているらしい
  • しかも偏ってるのが、「ストレス」と「考えすぎ」らしい
  • フットワークが重いというか、そもそもフットワークの要素がまったくないらしい
  • 結婚に向いてないらしい
  • 実は10代、20代がよかったらしい
  • 30代もなかなかよいらしい。通知表で行くと4らしい
  • でもストレスはずっとついて回るらしい
  • 40になってからが通知表で行くといきなり1になるらしい
  • 大殺界らしい
  • 大殺界は転職や引っ越しや新しい契約をしない方がいいらしい
  • 松井秀喜は大殺界の時にメジャーに行ったらしい
  • 50代から60代は最悪らしい
  • 最悪死ぬらしい
  • 30代はフットワークが軽い運勢が回ってくるらしい
  • だから転職したい欲が出てきたり、何かやりたい欲が出るらしい
  • 転職するのもありらしい
  • ただ、後の運勢が良くないので物書き専業!みたいに賭けに出るとホントに悲惨になるらしい
  • でも悲惨な運命の方がいい作品作れるから難しいとこらしい
  • 考えすぎな人は普通じゃないから創作に向いてるらしい
  • 相当いい相性の結婚相手を見つけない限り運命はかわらんらしい
  • 大殺界にはラッキーカラーがシルバーか白になるらしい
  • 大殺界にはエネルギーにあふれた人のそばにいるといいらしい
  • 50代から60代の運勢はそうそう変えられんらしい
  • とりあえず先祖を大事にしないといけないらしい
  • そして感謝を忘れないようにしないといけないらしい
  • それを乗り越えてもまぁ・・・らしい
  • 20代から30代にかけてが最強だったらしい
・・・・・とまぁ、こんな感じ。

 なんつーか、あれよね。
 パートナーの話を聞いてると、もっといい意見があるかと思いきや、今はピークから下り坂という、妙に現実的で、コンビニに売ってるポジティブ系占い本もビックリの内容でしたよ。



 まさか、自分の中ではぜんぜん満足してなかった10代20代が最高って言われても、すんなり受け入れられなかったですが、思い起こせば、やれ家が破産したとか、借金取りに追われたとか、抗ガン治療を受けたとか、足を切断したとか、親から虐待を受けたとか、レイプされたとか、監禁されたとか、誰かに刺されたとか、薬物依存で抜けられないとか、リストカットしたとか、たしかにそんなことはなかったなと。

 その時代、自分の中では、金もないし、本を作れないし、ちっとも思ったようにいかねぇ感ハンパなかったですが、充分幸せだったんだろうよと言われ、いや、そうでもないよと思ったんだけれども、まぁ、冷静に考えてみると、そんな、パねぇほどの苦労はなかったなと。

 自分でもよく「大した不幸でもないから、偉大な芸術家たちのようにいい作品創れないかなぁ」と悩んでいたんですけど、たしかにそれは正解だったのかもしれない。だから、苦労しようと思っても、仕事してもうまくいくし、苦労しねぇなぁ、なんか苦労が足りんのかなと思っていたのは、運勢がよかったからかもしれないと思ったりなんかり。
 むしろ、これからそれがやってくると聞いて、なんかホッとしている自分がいる。・・・・そこがたぶん、普通じゃないんだろうけど。



 では、なんでその絶好調時代に大成しなかったのかと聞いてみると、フットワークの要素がないからだと。なるほど。

 今は、運勢的にそれがついてきてるからいいけど、前はなかったんだと。

 というか、若いときに見てもらえばよかったのにと言われてしまいましたよ。そんなこと言われてもな。


 まぁ、それもまた運命ということで、仕方のないことですけれど、それよりもなによりもやっぱりビックリなのが、今は認められなくても、この時なら自分の中では大成しているだろうと思っていた50〜60代が、最悪中の最悪という結果でしょうか。

 自分の人生プランの中で、めっちゃ充実しているだろうと想像していたんですが、むしろ、「ええぇ?」みたいな。

 むしろ、「今までだよ!」みたいなこと言われて・・・行動をもっと起こしておけば違ったのでしょうか??(まだ今も大丈夫みたいなフォローはあったが)

 フットワークの悪さが、歳をとれば身につくと思ったり、誰かがやってくれると思っていたけど、そんなことはなく、若い内の方があったんだからもっとグイグイ、『成りあがり』みたいにやっとけば・・・と後悔はしないけれど、そうだったのか!という想いが湧いたりして。

 手遅れではないけれど、逆に今がチャンス、というのもなんとなく理解できる気もします。





 実は、ここ最近、ずーっと思ってることがあるんですよね。

 ま、『死ななきゃOK』ってタイトルをつけ始めるちょっと前あたりからなんですけど、何のために書き続けるのかっていうか、誰のために書き続けるのかって思ったんですが、『死んだ方がいい』人のことを書いた記事を読んだ人たちの「生きる希望を持てた」的な感想から、「あ、こういうことがしたかったんだな」と思って。

 ずっと忘れてたけど、基本、昔から目指してるのは、TM NETWORKなんですよね。

 ある程度認知度はあるけれど、誰彼かまわず知ってるとか、よく聞くとか、思い出とかにされるんではなくて、聴いた人の人生に影響を及ぼし続ける作品を作り続けるというか・・・そういう意味で、世間ではコムロの時代の方が凄いとか言うけれど、100円CDにされるとかではなく、いつ聴いても、何度聴いても、「いいなぁ」と思えるものを創る存在というか。だから、TM。

 もちろん、ある程度の金銭的成功も、だけど、浜崎あゆみとか嵐みたいになりたいとは、思わない。別にそれが悪いってことじゃなくて、役割の問題だと思うんだよね。



 頭痛の薬でも、バファリンみたいなどこでも売っててよく使うものもあれば、医師に処方箋を出してもらわないともらえない薬とか、もっといけば病院の入院患者ぐらいじゃないと出してもらえないとか、それこそ保険すら下りない薬とかもある。
 アーティストも色々いるけど、違いって、そういうことなんだと思うんだよね。浜崎あゆみと忌野清志郎は、あきらかに違う。でも、上下ではない。

 話がだいぶ飛んでしまったけれども、ようは、CMでやるようなポピュラーな頭痛薬ではなくて、困ったときに駆け込める漢方医の出す頭痛薬(しかも治る)みたいな、そんなのがいいなと昔から思ってはいたんですが、だからまぁ、ガツガツしてなかったってのもあるんでしょうけれどもね。

 でも、そんなのんびりしてたら気がつけば30だし、でも、自分が書いたものから何かを感じ取ってくれて、人生にちょこっと方向性を与えた的なことをコメントから実感できるって、幸せだなと。これだなと。
 子供の頃、タイトルも作者名も憶えていないマンガたちに、私は育てられたんだと。社会的に、そういう役割を担いたいと、純粋に思うわけで。

 そんなわけで、『死ななきゃOK』を書籍化目標にしたりとか、また他に書きたいものもあるなぁと思ったり、そうやってる内に「やっと実現化するプロセスができてきたかも」と思ったり。

 そこで、占い師の言うことで、今がそういうフットワークが動き出した時というのも理解できるし、なにせ50〜60に死ぬかもしれないらしいので、だからこそ、今、やっとかないと!!

 ・・・・と本日書いたわけでありますよ。


 昔のバイト仲間が20すぎで死んだとき「明日死んでもいい、生き方をしよう」と思ってて、最近それが薄れてきたけれど、「リミット」が出てきたことで、具体的に生きられそうな気がしました。映画にもよくあるネタですよね。リミットがあるから、生きることを楽しめる。

 これから頑張りますよぉ(いつまで続くかわからんけど)。


 まずは、読んでなかった『だから、あなたも生きぬいて』『成りあがり』でも読んでみようかな。

 死ぬまでに、読みたいと思ったものは読んでおかないとね。考えすぎてもしかたない。

 まだ、命があることに、感謝しないとね。
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2012.08.17 03:35
 祖母の田舎で初盆でしたよ。

 いとこの三女がなにやらゴキゲンで、読経中もアキャアキャしてたのを見て、なにか、感慨深いものがありましたよ。

 「四十九日」ならぬ「三十五日」や葬儀の時にはビービー泣いていたはずですが、今日はしっかり?座って遊んでおりました。

 まぁ、他のいとこの子たちのようには立つこともできないくらいなんで、だまって座るなんてできなくても当然ですが、生きる楽しさにあふれている姿を見てると、法事というしめやかになりがちな大人の行事のなかで、一服の清涼感を与えてくれるものです。

 それと同時に、祖母にとっての子供(私の親たち、4人)の人数よりも多い、いとこの6人の子供たち(祖母にとってのひ孫)を見ていて、祖母は亡くなったけれども、こうやって命の灯火を絶やさずにきたという、大きな仕事をなしとげたんだな、とも感じました。

 と、同時に、その中で「嫁は子供を産むのが仕事」という嫁観が生まれたのも理解できます。

 だからといって、「子供を産めない嫁だから浮気/離縁されてもしかたない」という考え方が正しいとは言いません。ただ、そういう、「時代遅れ」と言われかねない考えの人がいるのも、共感はできなくとも、「理解」はできるな、と感じた、ということです。


 先のような「子供を産めない嫁だから浮気/離縁されてもしかたない」というような発言をする人を、「時代錯誤もいいとこ」と一蹴するのはカンタンです。

 実際、女性のためのサイト『大手小町』の掲示板『発言小町』に、それを象徴するかのようなスレッドがありました。
 「子供ができない嫁を離婚させたい」という、余計なお世話もいいとこの60歳の姑からの炎上必至の相談スレッドなんですが、468件のレス※があり、そのほとんど(というかすべて)が「あんたがおかしい」というものでした。
※発言小町は検閲があり、乱暴な発言は消されたりするので、実際はもっと多かったと想像される。

 当然と言えば当然の帰結ですが、これはあくまでも、普段口撃されることのない姑が、口撃されてもしかたない所に現れたがために起こった、かなり稀なケースで、実際の家庭環境ではまず起こりえないことでもあります。

 実際、このようなことを嫁側が発言したらどうでしょう?

 ここまで一方的に、「その考え方がおかしい」と言ってもらえるでしょうか? 言ってもらえないと思います。

 おなじく発言小町に、そのようなスレッドがありました。「妻である自分に子供ができずに夫から責められるのは、見合いだからしかたないんですよね」というものです。

 フツーに考えたら、子供ができるできないの問題は、個人の努力ではどうにもならないことです。
 周りがみんな無事産んでいるように「見える」から気づいていないだけで、流産・死産の数は想像以上に多いですし、出産時に母体が死ぬこともあるという現実に対して、あまりにも軽く考えている人が多いようです。ですから、「ブライダルチェックしなかったのは悪い」という、今さら言ってもしかたのないことを言っている人(夫含む)もいるのが私はビックリなんですが・・・。

 現実問題、医者に「あなたは子供を産めない」と言われていた女性が、妊娠・出産したなんて話は、流産した話よりも多く聞きます。あくまでも一般論を元にしてつくられた科学が、どれほどあてになるか怪しいところです。

 だから、古来より「授かりもの」という考え方があったのでしょうし、実際、今もそうやって考えている人も多くいるわけです。
 それなのに、「授かれないこと」を、サンタクロースのプレゼントばりに、「お前が悪い子にだから授かれないんだ」と言いつのるのは、大人としてどうなんでしょう?


 ちょっと話がそれてしまいましたが、私はあくまでもここで、不妊にまつわる価値観の議論をしたいワケではありません。ただ、そんなことで責められて、責任を負わされるのはどうなんだ、と言いたいのです。

 人の価値とは、そんなことで決まるのかと。


 たしかに、人間も生物ですから、種の保存は大切な仕事だし、尊ばれるのも当然のことではあります。

 ですが、人は、それだけで生きているのでしょうか??

 私ははじめに、祖母の法事の中で、祖母にとってのひ孫が生を謳歌している姿を見て、「大きな仕事をした」と感じたと言いました。

 でも、それは単に、「子供を産んだ」からだけではないハズです。

 きちんとした、「家族」を作ってきたからこそ、その子たち、孫たちが、「家族」を作ろうと思い、実際に家族を増やしているんです。
 初盆には参加していませんが、6人のひ孫の他、私の兄にも2人子供がおりますので、すでに8人のひ孫がいます。子供のいない孫が私を含めて4人。ですが、全員「結婚しない」と頑なに思っているワケではないので、もっと増えていくのは確実でしょう。

 それは、我々にとって、「家族」というものが、「作るべき」というものではなく、「作りたい」と思えるものだからに他ありません。

 (すくなくとも)私の近しい親族は、橋田壽賀子ドラマのような、嫁姑でドロドロ・・・みたいなのとはほど遠い、親しい親戚関係です。
 我が家では橋田壽賀子ドラマは「ファンタジー」以外のなにものでもありません。「違う世界」のこととして「こんな人いる?」と楽しんで観ておりました。
 ネット掲示板で、舅を「ウト」、姑を「トメ」、あわせて「ウトメ」なんて呼ぶ必要もありません。邪魔な存在ではないからです。

 それは、「恵まれている」と言われればたしかにそうなのかもしれません。

 ただ、それは、そういう家庭を築いてきた人たちの努力のたまものなのではないでしょうか?


 もちろん、人間なので、すんなり行くことばかりではないのも事実。でも、許せる範囲内です。それが、許せない範囲のことが行われている家庭では、いい家族など生まれるハズもありません。だから、うまくいくはずもないし、真似をしたいとも思わないのです。

 たとえば、その、私のいとこ姉弟の子供たち(祖母にとってのひ孫たち)は、名前が「しりとり」になっている、なんてのは真似をしたくなる好例ではないでしょうか?

 長女(姉)の子供の名前が、上から「あけみ(14歳)」「みか(10歳)」「かいと(8歳)」と続き、その下の長男(弟)の子供の名前が「とうま(4歳)」「まみ(2歳)」「みのり(9ヶ月)」と続く…といった感じ。
 もちろん、プライバシーに関わるので名前も性別も変えてありますが、兄弟が、自分たちの子供に、生まれた順にしりとりで「つながり」を作っていくのもまた、家族としての「努力」であると言えるのではないでしょうか?

 だから、「子供を産めない嫁だから…」という議論が出てくる家庭が、いかに、「家族をつくろう」と真剣に考えていない家庭なのかもわかってくるというものです。

 目の前の「事象」にとらわれすぎて、命を紡ぐ、家族という「精神」が伴っていないと言えばいいでしょうか? 本当に家族をつくりたいという気持ちがあれば、養子縁組でもするんじゃないでしょうか?

 江戸時代には将軍家でさえそうしたのに、この平成の世にあって、「血」だの「ご先祖様に」だの、おかしな議論だと思いませんか?

 ・・・・と、私がそう思うのは、我が祖父が、そもそも婿養子だったからかもしれません。祖母姉妹には、兄も弟もいなかったためです。が、それでも、今現在、我が家系は拡大していっているのです。ブライダルチェックなど、なくてもです。
 そんなのあったら、今の私は存在していなかったかもしれません。


 ですから私は、「子供を産めない嫁だから…」という理不尽な言葉に悩まされている人に対して問いたい。

 「産めなきゃ家族になれないのか? それをはたして家族というのか?」と。

 人の価値は、子供を産んだ産まないにあるワケじゃありません。

 子供を産んでも虐待する親はいるし、子供を産んでも人を愛せない、人を傷つけて平気な子供に育ててしまう親もいます。自殺まで追い込むようなイジメをする子供など、その、最たる例ではないでしょうか?

 人が一生のうちにできることは限られています。

 もし、子供が産めないのであれば、親のいない子供の親になってあげてもいいですし、子供の命を救う活動をしたっていいと、私は考えます。
 子供を産むことはたしかに、社会的には+1かもしれませんが、子供が死んだら−1になるのです。ですから、死ぬかもしれない子供を救うだけで、−1が消えることを考えれば、それは+1の働きになるのではないでしょうか?と思います。

 こういう、人の命を数字で考えるのは不謹慎だという声が上がるかもしれませんが、でも、こうやって見なきゃ、見えないものもあるんじゃないでしょうか?

 数多くの出産が人類を発展させてきたというのは、まぎれもない事実です。
 ですが、ここまで人口が爆発的に増えた理由は、「死なずに済む人」、つまり「出産以外の+1」が増えたからに他なりません。医療の進歩はもちろん、食糧供給力の向上、衛生面での改善、それに伴う寿命の増加等、あげればキリがありません。

 これは、「出産」以外のことにも価値があると信じ、貫き通してきた人々の、努力の証ですし、その大多数は、「産めない性」の男たちが担ってきたのです。命を産めないからこそ、命を守ろうとし、命を育てようとした結果です。


 現代では、「産めない女性」という存在が増える環境になっているのは事実です。
 原因は様々ですが、それをあげつらって責めるよりも、女性が、男性がしてきたようなことをすることで、「産めない」ことを責められる気持ちを和らげる・・・という選択肢も、今後はあっていいんじゃないでしょうか?

 「子供を産めない嫁だから自分はダメなんだ…」と悩む人に、そうやってグローバルに考えなさいなんて、難しい提案かもしれませんが、これも一つの「出産」だと、少なくとも男である私は提示しておきたい。

 『作品』をつくり、それを世に出し、それに触れた誰かの命が救われるのならば・・・と考えてるのも、一つの例でしょう。男たちは、自ら遺伝子を残せない代わりに、仕事に遺伝子を費やすことが多いのです。
 そういう男たちは、「自分の優れた遺伝子を残したいから結婚する」なんてことは言いません。そんなことしなくても、伝わるものです。伝えられるものを、産もうと必死になっているのです。それをしてこそ、自分の子供に、自分のしたことを伝えられると考えているのです。


 もちろん、こういった考え方を参考にすることで、抱えている不妊にまつわる問題が解決するなどとは思いません。
 ですが、自分を責めたところで、妊娠なんてできませんからね。自分を責めて責めて、責め抜いて「妊娠した!」って話は、私は聞いたことがありません

 むしろ、女性としての幸せを感じていたり、この人の子供がほしいと思っていたりしていた方が子供ができやすいものです。皮肉なことに不倫相手の方が子供ができやすかったりするのは、そういう部分も少なからずあると、私は思います。
 不倫して妊娠した話はホントによく聞きますから(そして結局堕ろすハメになった話もですが)。

 ここまで述べたのは、私個人の考え方ではありますが、子供が「天からの授かりもの」とするならば、人事を尽くして天命を待つしかないんじゃないでしょうか?

 その「人事」というのが、「家族をつくる」ではなくて、「妊娠する」ことにあるのだったら、それはうまくいくはずもないですよ

 だって、家族って子供だけじゃないじゃないですか?
 夫ともうまくいってないのに「子供ください、子供がいればうまくいきますから」って、そんなの家族じゃないでしょうよと。
 子供は家族のための道具じゃない、これだけは絶対言えることです。

 家族をつくろうと必死になっていたら、がんばってがんばって、子供を授かることができなくても、その、必死になったプロセスの中で、「自分たちの家族になってほしい人」が見えてくるので、養子に迎え入れたい子供の姿も見えてくるでしょうし、たとえ養子を組まなくても、自分たちがきちんと人として生きてくれば、自分たちの背中を見てきた人たちが子供同然になったりしていくことも、あるんじゃないでしょうか?


 私がもし次に生まれ変わるとき、女性として生まれ変わったのなら、この気持ちだけは忘れずに生まれ変わりたいものです。妊娠・出産は女性の最大の喜びかもしれませんが、それがなければ人生じゃないなんて、ツラすぎます

 もしそれしかなかったのなら、自分に娘が生まれて、その子が不妊症だったら、その子の未来をどうやって明るく照らせるというのでしょう?
 
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2012.07.12 00:26
 NEWS ZEROを観ましたよ。

 いじめ問題で警察の強制捜査があって、いじめ問題に取り組んでいる元教師の訴えがあって、その後にパンダの赤ちゃん死亡のニュース・・・・なんとも言えませんよね。

 いじめで自殺した子供が死んだ時に同じぐらい取り上げたのかなぁ、自殺した大勢の子供たちの死をパンダの死以上に悲しめていたのかなぁ、と。そもそも、人の命が奪われたことよりもパンダかよ!という気持ちがなくはない、という人もいるのではないでしょうか?

 こういうのでマスコミの姿勢を問う、みたいな意見も当然出てはくると思いますけれど、マスコミの情報のチョイスはやっぱり「ニーズ」がベースなので、パンダの赤ちゃん死亡が、イジメが原因で前途ある若者が死亡よりも大きく取り上げるのも自然と言えば自然なんですよね。善悪の問題ではなく。

 ただ、世の中とは得てしてそんなものだという現実も、現実。

 その中で生きていくたくましさが、人間として生きていく上で必要な「生きる力」だと私は思うのですが、それってたった一回、講義をしたからと言って身につくものでもないですよね。ちょうど、鳥が空を飛ぶのと同じように、いきなりはうまく飛べないものですから、挑戦して、挑戦して、やっとできるようになるもの。

 逆に言えば、大人たちがすることは、子供たちをいかに、「羽ばたかせることができるか」ということ。


 もちろん、教育熱心な親も、家の手伝いをさせる親も、同じように子供には羽ばたいてもらいたいという想いがあるのは間違いがない。教師たちも、そしてテレビの前の視聴者たちも、そう。建前では、理想では、そう。

 だが、現実として「羽根を一つ一つもいでいる」という環境を作っている大人たちも少なくはない。もちろん、同級生によるイジメとかが理由で、もがれた羽根もたくさんあるだろう。

 生きてる以上、苦難はかならずある。
 飛ぶことを憶えて、巣から羽ばたいた鳥が、別の動物に襲われることも現実にはある。

 人間は鳥ではない。だが、同じように「生物」なのだ。生きるという意味での基本は同じだ。
 何かを食らい、消化し、体を維持させ、一分一秒を過ごしていくのだ。

 鳥が外敵に襲われて、羽根を何枚か失うこともあるだろう。
 何もしなくても、落ちていく羽根もあるだろう。

 だが、飛ぶために羽根が必要であれば、羽根は生えてくるものだ。だが、大きな傷があれば、生えるものも生えてこないだろう。


 子供たちは、可能性に満ちている。
 私みたいに30を超えてしまうと、頑張れば何とかなるものもあるが、頑張っても何ともならんこともある。今から頑張って社長になることはできても、さすがにプロ野球選手になるのはムリ、というように。

 だが、子供たちは違う。
 まだ、何者でもないだけに、何にでもなれる可能性を秘めているのだ。
 でも、何者でもないからこそ、上手に羽ばたかせてあげないといけないのだ。

 いじめ問題が起こるたびに、なぜいじめがなくならないのか? どうしたらいいのか?

 そんな問いが生まれ、親が悪いとか、教師が悪いとか、同級生が悪いとか、大人たちが悪いとか、社会が悪いとか、原因探しをし、いじめは必然的に生まれるから仕方がないとか、なくなることはないとか、そんなのに負けてちゃダメだとか、結局最後はなぁなぁになる。

 よくよく考えればわかることだが、結論など、出るわけがない。
 だって、原因なんてこれが決定的な原因、ってことばかりじゃなくて、複合的にからみ合ってるんだもの。

 からみ合ってるからこそ、「死」という選択をするのではないだろうか。

 大きな羽根があるのに、飛べないと思い込まされていたり、実際にすでに羽根をもがれてなくなってしまっていたり、端から見てると飛べるはずなのに、飛べないと思ってしまう。

 そして、飛べないまま、飛び「降りる」という選択をする。



 逆に言えば「克服できた」いじめ、というのは、その複合度が割と軽微なものだったのかもしれない。いじめられたけど親友はいたとか、親が味方になってくれたとか、教師が親身になってくれたとか、近所のおばさんの家に逃げ込めたとか・・・・私もいじめられたことはあるが、「死」を選ばなかったのも、そういう点で恵まれていたからだろうと思う。

 だから、ほんのちょっとでもいい。
 支えられることがあれば、支えてあげるべきだ。ほんの少しでもいい。あなたのやさしさで救われることがある。

 支援がまったくなくなれば、未来を失う。
 それは、人であっても、国家であっても、パンダであっても、同じ事だ。

 「生物」は、何もかもインプットされた状態で生まれてくるロボットと異なり、生まれ落ちた時が完成ではない。生きながら、徐々に完成されて、死ぬまでそれは続く存在だ。
 特に、体は完成に近づいているのに、心がそれにともなわない中高生は、特に要注意だ。死のうと思って死ねる選択肢も力も、あまりにも多い。そして、支援が少なくなり、敵が増えていくのだ。

 だからこそ、誰かの支援があって、やっていける。
 支援がなくなり、孤立無援になったら、死ぬしかない。ちょうど、籠城して、取り囲まれた武将が、燃えさかる城の中で切腹するのと同じ事だ。もはや、未来も、可能性も、ないと判断するからだ。端から見たらそれが間違った判断かもしれなくても、そう判断するしかなかった事実は、曲げられない。


 今回の事件は、今後の学校教育のあり方に対して、かなり大きな方向性を与えることになるだろう。
 良い意味で言えば、学校が隠し通すことをあきらめることになる。
 悪い意味で言えば、学校が中ではなく外を見てしまうことになる。


 現実の社会とは、こうやって何かがあるたびに少しずつ変化していくものだ。

 その中で「生きていく」というのは、自分の経験だけで導けるものではない。

 親鳥が飛んだ空と、雛鳥が飛ぶ空は、同じであって、同じではない。親鳥が飛ぶルートにはない危険物が、雛鳥のルートにはあるかもしれない。親鳥が飛んでいた頃にはなかった建造物が、雛鳥が飛び回る頃には完成しているかもしれない。

 だからこそ、我々はやらなければいけない。
 自分の手で羽ばたけるようにと、教え、支え、守り、導き、見送ることを。

 それを忘れた場所から、命が消えていくのは当然の帰結ではなかろうか?



 もし万が一、自分の場所がそういう所だと思えるのであれば、今すぐにでも、支援が得られる所に行くべきだ。それは、イジメだろうが、モラハラだろうが、DVだろうが、なんだろうが、同じ事だ。

 飛べない時は、助けを求めるのも、生きていくためには、必要なことだ。生きていくためには。
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2012.06.08 01:51
 こんばんわんこそば。
 大変おひさしぶりのtkiyotoですよ。なんていつもか。


 さて、現在、新☆書斎でキーボードを叩いていますよ。
 今回、大幅な模様替えをいたしまして、まだ完成していないんですが、今回のは、やっと、Goodなものができた感じです。完璧にできあがったらまたお知らせいたしますね。

 さてさて、書く書かないでモチベーションが上がったり下がったりをくり返しながら人生過ごしている私ですが、よく思うんですよね、ホントに進歩してんのかと。進歩してないことはないんだろうけど、その歩みはものすごく遅いんじゃないかと。

 でも、「失敗は成功の母」なんていうぐらいですから、色んなことをして、その結果「体感」したことって、絶対にムダにならないんですよね。

 たとえば、今みたいに書斎を造ってますと。
 でも、そこに至るまで色んな風にしてきましたよと。
 というか、プチ改装したのは1ヶ月ほど前ぐらいですよと。

 でも、それがあったからこそ、新☆書斎が、快適な感じでできあがってるんじゃないかと。

 もちろん、行き着くところは「どこかの本に書かれている」ことかもしれないですよ? 「ある意味常識」なことかもしれないですよ?

 でも、書籍の中の情報だとか、世間の常識って、ひとつじゃないですよね、正しいって言えることって。
 だからこそ、自分で体感しながら、自分の中で納得できる落としどころを自分自身の手で見つけられた瞬間って、すごく大事なことだと思うんですよね。だって、同じ失敗をしないためにはどうしたらいいか?ってことがわかるってことじゃないですか。

 それだけでも、未来への財産になりませんかね?


 人は、色んなことを抱えたり、立ち向かったりしながら生きていかなきゃならないんですよね。

 時には理不尽なこともあったり、とっても幸せを実感できるときがあったり、色んなことがある。いいことならいいけど、イヤなこともほんと、たくさんあります。それって避けられることもあるし、避けられないこともありますよね?

 だからこそ、自分の中に「これっ!」って決められる判断基準ができていれば、訪れた苦難に負けなくても済むかもしれない。


 失敗を恐れて前に進めないよりも、失敗を積み重ねても、それでも「前へ」進んでるってとっても大事なことだと思いませんか?

 それを考えたら「ちょびっと」しか進んでないと嘆くよりも、「ちょびっと」でも進んでいれば、それがたくさん積み重なっていれば、結果的には大きく進んだことになる。

 人の歩行スピードが違うように、人生という道の歩き方も、ホントに人それぞれ。
 全速力で駆け抜けて短命で終わる人もいるし、なが~く生きている人もいる。どれが正しいかなんて人それぞれだけど、私が今、こうして「ちょびっと」でも進んでると思うってことは、全速力で駆け抜けて命を散らす生き方を「カッコイイ」と思ってない証拠なんでしょうね。

 だって、「死ななきゃOK」って思ってますもんね。

 もちろん、生きてても死んだような人生なら、それは言えないですけどね。
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