死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2015.11.23 01:56
昨日、11月22日は「いい夫婦の日」でした。

そんな日に私は何をしてたかというと、そうなっていない状態の夫婦のために「別居合意契約書」を作成し、最近使ってない「スーパークローザー」の技術を使い、とりあえずとしての別居の話し合いをスムーズにとりまとめておりました。


実はその前日、来年結婚することになっている、若い二人のお祝いをしており、これから夫婦になる二人と、これから夫婦をやめるかどうか考えてる二人を連続で見たわけなんですよね。

これから夫婦になる二人には、たんに「好きだから」という気持ちだけでなく、夫婦に大切な、「感謝」「尊敬」「想いやり」がお互いにあるのがよく伝わりましたが、これから別居する二人には、それを感じませんでした。

ホントはきっと、あるはずですし、なければ夫婦なんてうまくいくはずないのですが、それが表に出ることはないし、それに本人たちが「気づく」ことがなければ、周りがアレコレしてもムダなんですよね。
だって、夫婦間が一番密接でないといけないわけだし、夫婦の中で育てていくものなんですから。


今後、別居をする二人がどうなるかはわかりませんが、これまで近すぎて見えなかったことを、この冷却期間の中で、

相手と本当にどうなりたいのか?
今後の人生をどうしていきたいのか?
自分一人で生きていけるのか?

冷静に考えて、自分で答えを出してほしいものです。

幸い、今回の話しあいで、今まで話し合えなかったことについて話ができ、共有できたのは、「進歩」だと思います。


もちろん、別居なんてしないに越したことはないんですが、そういったこともあるのが人生ですし、人生を真剣に考えるから、できることもあるもの。

それに気づいて、前に進めるか、それとも普通に簡単に「一緒にいるのが苦痛だから」と別れを選択するか。

人の生き方はそれぞれなので、どの選択をするのかは自由ではありますが、人は一生、自分の生き方を、問われ続けるものです。

そして、それを写す鏡が、夫婦なんだと思います。


二人でいる時の関係や雰囲気は、決して一人では作れません。

だから、「素敵な夫婦」は誰が見ても素敵だと思うし、そうでない夫婦は、いくら片方ががんばって取り繕おうとしても、周りからは取り繕ってるのが丸わかりで、むしろ心配のタネにすらなる。

結局、「夫婦」なんてのは、社会的な意味とか、国家運営的な意味ももちろんないわけではないんですが、そんなのは微々たる要素であって、一人の人間対人間の、継続的な関係でしかないんですよね。

だから、内心、「コイツとはそのうち別れるし」と思っていたら関係修復のためのアクションなんてするはずもないし、「この人は、お金を渡すと何するか信用できないから渡さない」と思っていたら、信用そのものをしなくなる。
それじゃ、うまくいく方が「奇跡」。

継続するために、何が必要なのか?
譲歩なのか、相談なのか、はたまた分担なのか?

「いい夫婦」はそれができてるし、だから結果的に、それを実感し、成長する喜びを得るプロセスをさらに継続させるから、より、「いい夫婦」となっていく。

それはたんに、「いつも一緒で仲よさそう」という表面的なものではなく、精神的なもの。

だから、「いい夫婦の日」に表彰された夫婦が離婚するのだって、あり得ること。それが「残念」とか「夫婦なんてそんなもの」なんて言うのも、変な話。

夫婦二人が、「いい夫婦だ」と思えることが、周りに評価されるよりも、ホントはずっと大切なこと。
だって、仲がいいように“見せる”ことは誰でもできるけど、夫婦二人が「いい夫婦だ」と思えるのは、お互いが実感していなければ実現しないことだから。


相手のことを見ることで、嫌なことばかりが見えて、ダメになることもあるけど、そのアプローチじゃ、「夫婦」という関係を見ることなんてできない。

『星の王子さま』を書いた、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、愛とはお互いを見ることではなく、同じ方向を見ることである」とうまく表現したけど、たとえそれが「別居」であっても、二人の問題を解決するプロセスにそれぞれがアプローチすることで、見える夫婦関係もあると思うし、そうすることで次のステップに進めるのなら、それでいいんだと思う。

同じことを繰り返さないためにも、です。



なお、「いい夫婦」について真剣に取り組むんなら、石井希尚『この人と結婚していいの?』を二人で読むのがオススメですよん。タイトルは過激ですが、中身は過激じゃないのでご安心を。
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2015.07.09 01:36
 久しぶりの更新。
 Facebookのプチ更新しかしてませぬ・・・いかんいかん。

 現在、今年の目標である「NextStep」の一環である、転職活動をしようとしているのだが、どうにもこうにも自己PRというのに悩まされております。

 いまや3X歳なわけで、いろんな出来ることもたくさんあるけれど、就活生みたいにそんなの挙げはじめたらキリがないような状態になってしまう悪循環。基本、「男は黙って背中で語れ」的な考えで、普段から自分をアピールする習慣もないもので、よくある転職指南の自己PRテクニックを読めば読むほど焦りばかりが生まれ、あーでもないこーでもないと毎日書き直す日々。


 よく、周りの皆さんから、私は「どこへ行っても大丈夫」とか言っていただくんですが、自分でもそう思うんですが(汗)、その「どこ」に入るのかが、私にはいちばん難しい。帰属意識というものがかなり希薄ですし、どこでも生きていけるように生きているから。

 でも、「どこでも生きていける」ということは、「どこでもいい」ということの裏返しでもあるわけで、そんなんじゃ、向こうからしたら「熱意」というのは伝わりませんよね。
 正直、会社に入る「熱意」なんかなくても仕事はできるし、そんなもんない方が挫折しなかったり、いい仕事できることもあるわけですが、やっぱり会社への「熱意」がないと一緒に働きたいと思えなかったり、結局辞めそうとか思われるのかもしれません。

 ま、私でもその立場になってみればそうですが、組織に必要なものを考えるのが自然な行為なわけで、それを考えると私のような人間は用ナシのようにも感じてしまい、なおさら、自己PRしようという気が萎えてきます。
 実際は、ありがたいことに必要としてくれる人は山ほどいるわけで、そんな考えは「杞憂」でしかないのですけど、でも、その、必要としてくれる中でいることも安住することを、私は良いことと思えない。悪い意味ではないですが、居心地の悪さみたいなのを感じてしまいます。「このままで本当にいいのかな?」と。

 新しい環境で、必要とされることが、私にとっては理想的なことなのでしょう。平たく言えば、「真性のドM」みたいな気もしますが、いろんな経験をすることが、自分の人生を豊かにする方法だと思っているからというのもあるでしょう。少なくとも私にとっては。

 だから、どんな仕事でも真剣に取り組むし、それが結果を伴っているだけ。
 それをアピールするのにゴチャゴチャ言っても、空虚なだけに感じてしまうのも当然の話とも言えます。自分にとっては当たり前で、それを人にアピールするのも違くないか?的な。

 そんなわけで、毎日あーでもないこーでもないと行きづまる。
 どうにもこうにもならないので、嫁に相談したところ、自分の中にはなかった答えが返ってきました。

  自分はこんな人間ですと書けばいいだけだよと。
  「やりたいこと」を書けばよくて、難しく考える必要は一切ないと。
  自分が「伝えなきゃいけないかなぁ」と思ってるものは、伝える価値がないものだと。
  もっと打算的に考えないと、相手にとって必要なPRの取捨選択ができないよと。

 それを聞いて、その発想があったのか、まったく自分の中にはなかったなと思いました。
 結婚する価値のひとつに、「自分にないものを自分の中に取り入れられる」というのがありますが、改めて、これがあるから結婚したいと思った時のことを思い出しました。


 言われてみればたしかに、他者に自分を評価してもらうんだから、その、他者の気持ちになるのは自分ではできないから、どうしたらいいのかわからないのも当然で、いくら自分を商品のように分析して、相手に響くようにPRしようとしても、何か決定打に欠けるのも無理なかったなと。

 ちょうど、商品を売るために広告を作りました、というレベルの話で、その市場では何がトレンドで、どんなものが好まれ、どんなものが飽きられ、どんなものが望まれているのか、どんな新しいものが受け入れられるのか、業界にどんなインパクトを起こし、どんな準備をすべきか・・・・などを考えた広告を作ってはいなかったとも言えます。

 「自分の強みうんたら」とかも、よくあるコトバですが、現実問題、PRとは、広く知ってもらうことであり、別にカタログのスペックを提示することでも、売れるようなプロモーションを打つことでもなく、PublicなRelationを築くための活動ですよね。

 端的に言えば、「自分のことを知ってもらいたい」という想いの表現というか。


 こういった文章を書くのも結局は、そういう部分があるのですが、それを細々とやるあたりが、こんな悩みを生むのでしょう。

 でも、逆に言えば、今年の目標である、自分が踏むべき「NextStep」は、そんな今からの「NextStep」、脱却もしていかなければいけないということでもあるんでしょうね。おおよそしてこなかった、人と積極的に関わっていく、というような。
 
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2015.03.11 21:50
Evernoteを整理していたら、ずいぶん前に書いた記事ネタが残っていたので、そのまんま載せてみます。

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ゆえあって綾小路きみまろのDVDを観ました。

最初は軽い気持ちで観てたんですが、これがなかなか味のある面白さで聞き入ってしまいましたよ。
というか、聞き入るというほど聞いていないんですが、何かをしながらでも耳に入ってくるというか。だからといって、その作業のジャマをしないというか。

“綾小路きみまろ”といえば、中高年のアイドルっていう世間的イメージがありますが、私個人としては、川崎和男のイメージです。
自分が使う車イスのデザインが気に入らないから自分でデザインしなおしたという、『デザイナーは喧嘩師であれ』という本を記したという、人工心臓をデザインしたという、インダストリアルデザイナーの川崎和男。

たしか、NHKの『プロフェッショナル』でやってたんだと思うけど、「綾小路きみまろのDVDを聞きながら作業するとはかどる」ってなシーンがあって、その印象がすごく強い、きみまろ。

前フリが例のごとく長いですが、そんなきみまろDVDを観ていると、はじめは「んなわけないだろう」と思っていたんだけど、川崎和男の言ってることも理解できてたわけ。

「きみまろ」は、邪魔しない。

なぜそんなことが起こるのか?

きみまろのトークは、「死」や「老い」という、一見すると重いテーマで、ヘタしたら悪口になりかねない危うい綱渡りのようなトークなのに、 さまざまな人生経験をしてきた中高年の琴線に触れるようなあたたかみもある。

しかもそれは、これを若い人がやってもなかなかマネできないだろうというレベル(以前、嵐が挑戦してた)。

私はまだ中高年ではないので、腹を抱えて笑うということはないのだけれど、思わず笑ってしまうことが多いのは、そこにある種の真理が存在するからかもしれない。

きみまろはよく「あれから40年...」なんて言葉でオチを話します。

たしかに、「浮気なんてしないで私のことだけ見て!」なんて言葉を言ってる女性が40年経って同じ言葉を言うかといえば、おそらく言わないだろうなと思わせる真理性がそこに転がっている。

「若い頃はそんなことも言ってたな」という、自分の過去に笑えてしまうというのは、歳をとってるからこそ、感じられる笑いなのだろう。
私もたしかに笑えるのだが、それはあくまで「想像」であって、実感ではない。でも、中高年はそれを実感できるからこそ、はげしく笑える。
「そんなこと言ってたな」とか「言ってた奴もいたな」的な。

それが、きみまろの人気の秘密なのだろう。

で、本題。

川崎和男の言うように、私も「きみまろを聞きながら」で、作業をしてみた。
ペン習字したり、洗濯物たたんだり、アイロンかけたり。

これがまた、おそろしくはかどる!・・・ってことはないんだけども、なんというのだろう?邪魔しない?

そういう不思議な感覚。決して能率が上がるわけではないですよ? むしろ、下がる感じ。

でも、集中しすぎて力が入りすぎることがない感じなので、ペン習字なんかにはいいんですよね。
字って力を入れすぎてもきれいに書けないし。

いい感じに力が抜けて、でも自分の行動のジャマをしないというか。

そういうのがきっと、川崎和男のデザイン思考の助けになるんだろう。

これが、「そんなの関係ねぇ」とかだと、思考の流れをその勢いでジャマされるから、ダメなんだと思う。

そういう点では、きみまろを聞きながら、というのは、これはこれでありだなと思った。


若い頃のようなガムシャラにではなく、ほどよく力の抜けた「生き方」の肯定が底にあるから、力が入りすぎず、でもポジティブになれる・・・・ということかもしれません。

でも、それだと20代の人にはあまり効果がないという気がしてきます。
しょうがないか。
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2014.12.17 07:02
うまくいく結婚かどうかは、石井希尚『この人と結婚していいの?』を読めばわかるが、残念ながら、うまくいかない、いくわけのない結婚をしている人もいる。

それをなぜか?と考えても、「子どものため」だったり、「生活ができないから」だったり、はたまた「私がいないとあの人何もできないから」だったりと、いろいろな「理由」があるし、「勇気」がないだけだったり、なにかを「期待」していたりすることもあったりするなど、深く突き詰めれば突き詰めるだけ、たくさんの、もっともらしい原因が見つかる。

自分と向き合うことは、すごく大切なことだ。そこで見つかる答えもあるだろう。
しかし、そもそも、「結婚」とは、二人でするものであり、一人でするものではない。

だから、一人で考えても、一人で頑張っても、問題は解決しないのだ。

逆に言えば、「二人で」発想があれば、どれだけ身分が違おうが、性格が違おうが、貧乏生活をしようが、同性婚だろうが、やっていける。
なぜなら、「二人で」発想がなければ、二人の間に愛情は育まれないからだ。

でも、それがなければ、どれだけ頑張っても、「形だけの夫婦」にしかならない。


「形だけの夫婦」も、次のステップのための一時的な状態なら、それはそれで良いと思う。

「形だけの夫婦」としては、正しい姿だからだ。夫の退職金が出たら別れる熟年離婚なんかは、その際たる例だ。

でも、そうじゃなくて、明らかに関係が破綻してるのに、「子どものため」に一緒にいようと頑張っても、ちっともDVは収まらず、むしろ悪化して、最悪のケースになることだって、現実にはある。


本当にシンプルなことなのに、それが見えていない。

結婚式で、神父が「健やかなる時も、病める時も・・・」と聞くのは、それが、夫婦関係に必要だからだ。
それがわかっていれば、別に、どんな形の結婚式でもよいし、なんなら「式」を挙げなくてもよいし、それこそ「事実婚」であってもうまくいく。

でも、それができない人が多いからきっと、そんなことを「誓う」システムになっているんではなかろうか?
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2014.12.05 00:44
 最近、立て続けに2つ、懸賞が当たりました。

 「私、失敗しないので」の米倉涼子ばりに、「私、当たらないので」という人生でしたが、そうでもなかったようです。

 とはいえ、不在通知が来て「いったいなんだろな?」位忘れていたので、当人は当たることをまったく想像していなかったのがよかったのかもしれませんが、ちょうどそういった運気が来ているのでしょうか? ロトでも買って試そうかと考え中です。

 しかし、冷静に考えれば、当たったものだって、数あるキャンペーンにまとめて応募した(ネット社会って便利よね)ものの一つならぬ二つであり、実際に応募したキャンペーンは実は他にもあったりして。

 でも、そんな中でも、二つが立て続けに当たると「やった、ツイてる!」とか「運が来てる!」とか思うので、人間というのは不思議なものです。よく言われるたとえに、「野球でいえば○割」みたいな感じですが、正確に言うとハズレの方が多いのに、その中でも「当たった」ものがあればそれを人は「成功した」と思うんだなと。

 自己啓発本の多くは、「成功した人はたくさん失敗した人でもある」的なことが書いてありますが、まさにそうで、こういった、実はもう自分自身でも忘れてしまっているような「ハズレ=失敗」よりも、ほんの少しでも「当たり」があれば、人は「成功」と思うわけ。
 結婚とかでも、100人に振られた人でも、最後に見つけた人が超相性良くて、結婚して幸せになる人もいれば、超美人でモテまくるんだけどなぜか結婚するとうまくいかなくてすでにバツ3になっている人もいます。どちらが成功者かと言われれば、誰だって同じ答えが出ると思います。

 そう考えると、人生に悲観的になる「成功とは程遠い人生」というのは、ある意味では挑戦していない人生とも言えるのでしょうし、でも、だからといって、「たくさん失敗した人が成功者になれるわけではない」というのもまた、事実です。

 だって、負けることも多いけど勝つこともあるから、ギャンブルってみんなやめないんですよね?
 たまに勝っただけで「成功した」と思うから、続けてしまうんですよね?

 
 「成功」というのは、ある意味では、調理法を知らないと毒になる、悪魔の果実なのかもしれません。
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2014.01.17 01:37
 目標って、ありますよね。

 まぁ、ここでいう目標は、目標というものそのもののことなのですが、やはり目標を持つことで行動が決まると言うこともありますから、目標そのものの大事さについては今さら語ることもないと思います。目標のある人とない人の違いは、目標を持ちつづけて、さっそくセリエAでゴールを決めた本田圭佑を見ればわかりますよね。

 でも、この目標って、結構やっかいなんですよね。

 目標を立てて、それを追えば必ずしも結果が伴うわけではありません。

 むしろ、その「目標」のために命を落とす人もいるわけです。厳しいノルマとそれによるパワハラを苦に自殺とか、よくありますよね。まぁ、よくありますよね。ホント。

 そういう意味では、この「目標」というものは、ファジーな表現ですが「ちゃんと」していないと、人を導く光になると同時に、時には人を殺す凶器にもなるわけで。だからこそ、その「目標の立て方」というのは非常に大事なんだなと。


 たとえば営業の世界で「○○件獲れ」という号令があるとするとしましょう。
 しかし、それってホントに可能なのか? たとえ「可能」であっても、その人ができるのか? 努力すれば叶えられるものなのか?

 ・・・・ということは割とおざなりになりがちです。

 その理由としては、目標を追う人が立てたものではなく、あくまでも第三者が勝手に「押しつけた」目標だからというのが大きいでしょう。「(自分だったら)これくらいいけるから」とか「これくらいやってもらわないと困る」という発想で、与えた目標。

 だからこそ、それが人を殺す道具になったりするのでしょう。自分が立てた目標で殺されることはさすがに・・・ちょっと想像できないですもんね。

 そういうことを考えると、いかに自分自身で「目標」を立てるのが大事かというのも見えてきます。決められたものではなく、自分が、目標を決めるのです。

 もちろん世の中、自分だけの目標だけ見ていればいいというほど簡単なものではありませんが、それでも、他人が作った目標に押しつぶされないための自分だけの目標を持つことは大事ではないでしょうか?


 でも、自分だけの目標も気をつけなければ、他人が押しつけた目標と同じように機能することもあります。
 たとえば「頑張って正社員になる」とか「今年中に素敵な人と結婚する」とか、漠然としているというか、自分の努力だけではどうしようもない要因を入れると、その目標が達成しなかった場合、逆にそれに押しつぶされてしまうといったことです。

 そうならないためには、自分の中の目標というのは、「自分の努力で達成できる」目標を立てるのが大事だと思います・・・と、「目標は200本安打」と自分の力で追える数字を毎年目標に掲げているイチローのドキュメントを見ていて思いました。

 ま、その「自分の努力で達成できる」というところの基準が人によって違うので、本田圭佑のようになれる人となれない人が出てくるのですが、でもそれはそれで別にいいことなのではないかな、と思います。あくまでも自分の人生なんですから。

 ひとつだけ言えるのは、目標に対して真剣であれば真剣であるほど、そしてそれが、たとえ端から見ているとそうは見えなくても、自分の中で着実に目標に近づいているという実感があればあるほど、高い目標でも叶えられるようになる、ということでしょうかね。 
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2013.10.15 23:50
 こんばんわわわわ。

 連日のふざけた挨拶でごめんなさい、tkiyotoです。

 今日は関東に台風が近づいてきているということで、「日本の一大事」みたいな報道も目にしますが、しかし、関東を通り越して東北の方がよっぽど大変ですよね、真面目な話。

 真面目な話といえば、「雇用の流動化」って、ホントに効果あるんかな?って思いません?

 いわゆる「労働者」をユニット工法よろしくとばかりに、「無駄なく活用」するには最適ではあるんですが、そればっかり増やしていると、新しいものを何も生み出せなくなりますよね。今日も、その、「雇用の流動化」の最たる代表である契約社員(まぁ、私もなんですが)のPDCAシートを見ましたけど、何もプランしていないし、書いてあってもコピペだし、目標も書いてない。

 私個人としては、PDCAで全部解決できるわけないのになんでもPDCAっていうのはどうよ?って思ってはいますけれど、それはあくまでPDCAが乱発されているからであって、PDCAそのものが使えないのはそれはそれでどうかなと。

 でも、仕方ないんですよね。
 真面目に考えれば、「雇用の流動化」をしてしまえば当然、スキルが伸び続けるってことはないです。流動化しないでスキルアップしてた方が絶対に上ですからね。それと勝負して勝てるわけがない。でも、多くの企業はそれを選択してきたし、それで危機を乗り切ろうとしてきた。バブル崩壊の反動から。

 手垢のついた表現だと、こういうやり方していたら当然、iPhoneもiPadも生まれないですけど、それ以上に何よりも、「その先に何があるの?」という気がしてしまいますよね。

 「雇用の流動化」素晴らしい。便利だ。雇用に貢献している。

 でも、その先に何が? 見えるところは何もない。なにせ、そこそこの部品の流用をしているのと同じですからね。それってすなわち汎用品の作り方であり、それはつまり、汎用的な会社、つまり「他と差別化の図れない、淘汰されても仕方のない会社」になるという意味でもあります。


 そこまで未来を見据えて「雇用の流動化」を謳っていたのかは定かではありませんけど、誰にとっての流動化かを考えたら、業績が悪い会社のためのものなので、それで一時的に悪い数字を良くできたとしても、何の改善にも至らないってことも往々にしてあるでしょうね。

 真面目に考えたらわかりそうなことなんですけど、その「便利な言葉」に惑わされた経営者のなんと多いことか。ま、そういうことって、何にでも言えますけどね、「便利なものほど、危ない」。

 理由はカンタンですけどね。
 考えなくなっちゃうんですよ、真面目に。

 原発のことも、「経済が止まる!」って煽ったら、未来のこととか考えなくていいですもんね。すっごい楽ですよね。あと30年も生きられないオッサンたちからしたら、すっごい楽。でもあと80年生きなきゃならない子どもたちからしたら、すっごい苦痛だと思いますけど。

 新聞のワードになるような言葉って、便利なようで、怖さもありますよ、ホントに。
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2013.10.15 02:10
 ああこんばんは。

 最初に「ああ」を付けるだけでなんて偉そうな表現になってしまうんでしょう? 世の中って面白い。


 さて、三連休でしたけど、何してたんでしょうね? まぁ、休んでましたよ。というか、私ぐらい働いていると三連休ぐらい、時にはないと疲れが戻らないんですよというと怒られそうなんでやめておきますが、世の中、私より働いていないのに当たり前に三連休をもらって、しかもボーナスを使って、遊んでいる人もいるわけです。

 これを不公平というかなんというかはあれですが、たいして仕事もしていないのに権利ばかり行使する人ばっかりになってしまったらそりゃ、成果の上がらない組織になっちゃいますよね。

 そう考えると日本が抱える閉塞感っていうのは、「不公平」が原因というよりも、危機感はない割に、危機になることだけを怖れて自分の身を守ることばかりみんなでしているからじゃないのかな、とも思いました。

 それは誰がというよりも、例えば正社員なら給料が下がらないようにとか、非正規社員なら頑張っても給料上がらないし収入少ないから余計なことはしないどこうとか、視点が世の中とか社会じゃなくて、自分の、だいぶ先じゃなくて、ちょっと先の未来、今に限りなく近い未来しか見ていないからじゃないのかなと。


 私は現在、閉塞感のある会社を支援する立場で働いていて、よく「なんでそんなことができる?」とか「凄い発想だ」とか言われますけど、そういうことを言ってるのがもう、閉塞感に包まれている証拠ですよね。

 本当は、長くいる人ほど、「今のダメな所」っていうのが見えてもおかしくないはずなのに、それを客観的に見る視点を「重視」しないし、それを元に分析することも愚痴の中だけで終わるし、それに基づいて利害を乗り越えた大きな行動を起こさなきゃいけないのにそれぞれが好き勝手していたりするので、ダメな所にダメな所を塗り重ねているとしか思えないようなことが生じてしまうようです。色んな所からの流れが集まって、どこにも流れない「ため池」ができているというか。

 乱暴な結論かもしれませんけど、閉塞感を打破したいのなら、内側ではなくて、外側に向かないとダメですよね。
 内側に向かっている以上、永遠にループがくり返されるだけです。そして、それを「仕事」と思っている人たちに「そんなの仕事じゃないよ」とハッキリ言うことも必要なのかもしれません。だって、何の価値も生み出していないのに、価値の代替である「お金」をもらうなんて、そもそもがおかしいんじゃないですかねぇ?
 
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2013.08.24 02:35
 24時間テレビ直前スペシャル版、『嵐にしやがれ』を観ましたよ、ええ、先週の。

 なぜか要潤が讃岐うどんネタで登場し(※ここでいう「なぜか」は24時間テレビとの関係性についてであって、要潤がうどん県副知事であることではない)、その次に森山直太朗が登場。最近、オネエ疑惑があるけれど、ついつい人前でだけやってしまうが、実際はノーマルだとか、そんな話のなか、いい歌を即興で作ってしまう(けど本人はいつも満足していない)というネタが。

 森山直太朗といえば、最近はファンケルのCMが有名かもしれませんが(私は人に言われるまで森山直太朗だとちっとも気づかず、ファンケルの歌のうまい社員だと思っていました)、やはりそこは森山直太朗。24時間テレビでマラソンをやる、森三中の大島美幸の応援ソングを即興で作るという話になって、1時間半くらいで即興で作った歌は、「タピオカミルクティー」とか「ノーリバウンド」とか出てくるのに、なぜか聴かせる歌になってました
 
 そこで思ったのが、ケネス・ヒルデブランドの「人は、自分の才能を悪しき目的に使ったためでなく、まったく使わなかったことに責めを負うべきだ」という言葉。

 単に歌がうまいというだけじゃなくて、人の心の琴線に触れられる歌を歌える人は、やはり歌を歌うべきなのだなぁと思った。


 それは、どんな仕事でも言えることで、それが「やれる」以上はやはり、やらなきゃいけないのだ。

 私も、なんやかんやと新しい仕事が舞い込んでくるのに対し、お金がまったく増えないという状況について、色々と暗い方向に考えてしまいがちだが、やはり、これも下積みだと思い、自分が必要とされている以上は、「ここにいてはいけない、もったいない」と言われるまで、精一杯仕事するしかないのかもしれない。

 実際、これまでもそうしてきたし、きっとこれからも、そうしていくのだろう。

 そうやって本当に道が拓けていくのかどうかはわからないけれども、少なくとも、私の書いた文章で誰かの人生が好転するのならば、私もきっと、文章を書かなければいけないのだと思う。その形が果たして、路傍に咲く花のように多くの人に知られずに、気づいた人だけにしか意味のない存在になるのか、それともまったく違う風になるのかは自分の行動次第だと思うが、とにかく、その才能の大小はあれど、やはり人は、その才能を使うべきなのだというのは疑いようのない事実だ。


 確かに、才能を悪用する方が、才能を使わないことより悪い感じはする。

 だが、世の中とは、大きな意味では「よき方向」に自然と流れるようになっているものだ。
 それは別に神がそうしているからとか、そういうことじゃなくて、人々の生活が継続し、歴史を紡いで来た行動プロセスがよかったからこそ、それを「よき方向」と人々が価値感づけているだけだ。

 だから、才能を使うことは、悪しき方向に使ったとしても、それは必ず「よき方向」への見えない力が働き、その悪しき方向を正そうとする人や動きに洗われていくのだ。
 もちろん、それがそのまま行くかもしれないし、手遅れな人もいるだろう。

 だけど、「よき方向」に流れる時の河は、そういったものも飲み込んでいくのだろうと思う。


 原発でどうとかこうとかあるけれど、東日本大震災で福島よりも震源地に近かった女川原発は、「未曾有の大洪水」の歴史に学び、そこまでする意味があるのかという周囲の反対もあるくらいの安全性を盛り込んで作られた。

 かたや福島は?

 その結果は、皆さんの知るところで、福島は収集がつきそうもないのは、それに携わった人たちが、「自分のすべき仕事」に最大限の努力をしなかったからだろう。もちろん、今、福島で作業している人たちが最大限の努力をしていないかといったらそんなことはないのだろうが、起こる前に精一杯のことをやっておかないと。起こってからでは手遅れなのだ。

 そういった意味でも、「才能を使わなかったことに責めを負うべき」というのもうなずける。

 その結果として「悪しき結果」を生むことになるのだから。
 そしてそれは、悪いことしか生み出さない。
 
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2013.06.25 00:10
 こんばんは、相変わらずぶっ通しPC作業で、目が、「誰か! 誰か助けて下さい!」と、今どきの若い子は知らないかもしれないセカチュー風に始めてみたtkiyotoですよ。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

 それにしても、電子書籍は一般レベルで実用的になりましたよね。いきなりでなんですけど。

 昔の電子書籍と言えば、数が少ないとか版権がとかなにやら色々ありましたけど、クラウドサービス連携やスマホ、タブレットの普及で、格段に使いやすくなった気もします。この辺の所は詳しいところがあると思うのでそちらにおまかせしてしまいますが、やっぱり、場所をとらない電子書籍の恩恵は大きいですよね。

 もちろん、電子書籍にもデメリットはあって、私自身の話で恐縮ですけども、ハッキリ言って、本気で読み込むような本は向かないですね。サラッサラッと本屋では立ち読みで済ますような、コンビニなどで「つい」買ってしまうような、ブックオフで「安いから」買ってしまうような本を読むなら、電子書籍が一番ですね。場所もとらないし、買ったあとの処分を迷うなどといったことからも解放される・・・ここが、「残したい本」との分けどころというか。


 本って、本当に残す価値のある本ばかりじゃないんですよね。ぶっちゃけた話。

 もちろん、世間で言う「名作」は残すべき・・・という意見も間違ってはいないんですけど、それが本当に、すべての人にそうなのかというと、そんなことはなくて。人類にとって文化的価値があるものであっても、今、その人に必要ないものは、必要ないわけで、それをムリに「良いものだから」とコレクションすることに一体、どれほどの価値があるというのでしょうか。対外的な価値しかないんじゃないでしょうか? むしろ、「読めていない」罪悪感に苛まれることもあるかもしれません。

 そう考えると、本当に必要な本って、そうそうないといえばないのかもしれません。

 むしろ、そう思うようになるまでのプロセスとして、不必要な「名作」を揃えたり、人生に大きな影響を与えたくだらないマンガを買うこともあるでしょう。中には、人には言えないエロ本を買ったり、それで表紙で買うのは失敗だと学んだり、ハードカバーより文庫の方が場所がとらないと思えたり、ブックオフで買った打ち切りマンガが意外と身に浸みたり、コンビニに売っていた昔のマンガの復刻版をなぜか愛蔵しちゃったり、色んな「本とのつきあい方」を学んでいくものですよね。

 その中で、何度も読み返す本ができあがったり、図書館で借りた本だけど、気に入って自分でも買ったりして、自分の中の「どうしても手放せない本」というのが出来上がっていくのではないのかな、とも思ったりします。本を、大切にするというか。

 これって、ある部分では人間関係とか、恋愛に似てるのかもしれませんよね。


 気になるから近づく。必要だからそばに置く。必要じゃなくなったら手放す。再び必要になったらまた取り戻そうとする・・・ただただ本を積み重ねていくことで知恵が身につくのなら、教育も何もいらないけれども、実際は本というのは読んで、自分の中に取り込んでいくときに最も力を発揮するものじゃなかなと、私は考えます。

 だからこそ、本を読むときは付箋が手放せない私ですが、やっぱり本屋で立ち読みで終わってしまう本だったり、付箋付けるまでもないような中身のない本、途中で挫折しそうになるくらいつまらない本も、これまた本を読む上で避けられない。また、ときには気負いもなく「情報」として本を読むこともありますよね。

 そんな時、電子書籍の気楽さといったらないですね。
 所蔵した本のようにパラパラ〜っとめくって好きなところだけを読むことができないので、頭から読まざるを得ないという特徴というか欠点がありますが、だからこそ、頭から読んで、かつ、ページをめくるのが紙よりも数段、楽なことを考えると、電子書籍ほど「サラッと読み」に最適な媒体はないと思いません?

 そんなわけで私は、電子書籍の役割を決めて、上手につきあうことにしています。

 でも、電子書籍しかなくなった時代になったら、人との接し方も今と異なってしまうのかもしれない、とちょっと思えもします。今や、子供たちはネット経由のイジメとかに悩まされる時代ですからね。本質的に変わらないことはあっても、やはり少しずつ、表象的な部分は変わっていくのは変わっていくものですが、それに流されないようにしたいものですね。

 電子書籍も、人間関係も。

 共通するのは、対象に対して、どこまで敬意を表せるか、かもしれません。それが変わらなければ、紙だろうが、デジタルデータだろうが、本質的には変わらないんだと思います。

 もちろん、デジタル化はどんどん進んでいくことが想定されますが、だからこそ逆に、紙で書かれた本が貴重品になり、「価値の高い本」になっていくこともあり得るのでしょうね。世間的な価値もそうですが、自分の中での価値も。
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