死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2005.04.07 23:25
ホリエモンが「新聞読んでない」といったせいか、新聞各社がやたら躍起になって新聞の存在価値があることをアピールするキャンペーンをやっているそうな。読書週間みたいなもんだ。

新聞は必要か?
いい大人が情けないと言えば情けないが、「自分は必要な人間である」と思っていた人がそうでない現実もあると突きつけられたときに起こるアイデンティティ・クライシスとしては、まぁ自然かもしれない。それだけ、彼らも「何で新聞が大事だってことが伝わらないんだ、こんなに頑張っているのに」とでも思っているのだろう。しかし、こういった見方は一つの傾向(偏向とも言う)を生む。

「他の人だって頑張ってるし必要なんですけど」という事実があることを忘れてしまうことだ。特に、学歴や社会的地位があったりするとこの傾向が起こりやすい。花屋は潰れてもいいが新聞は潰れてはダメなんだという感じだ。同じことが国家にも言える。新聞は潰れてもいいが国家は潰れてはダメなんだ、と。
しかしこれは、実際は本当に潰すべきものを潰していないときの言い訳に使われるのがほとんどだ。


”必要”というシステム
これは新聞に限ったことではない。文学も同じだ。
「文学の素晴らしさを」ということで「要約」した本をかなり目にするようになったが、これでは文学が単なる知識と教養だけになってしまう。また、文学だけに限らない。芸術作品も、画集だけでわかった気になってしまうということだ。

絵描きなら絵描き自身が、「この絵」としてしか表現できなかったことを、文章という記述で表現することでわかった気になる恐れがある。これは、浅い理解を産む。そして、その浅い理解の数が知識となって、それを誇るだけに陥る。そのころには絵描きの苦悩や意図などどこかへ行ってしまい、その絵描きを貶めた美術批評家のように自分の威勢だけを張っているだろう。

しかし、真の芸術作品というものは、書き手と同じような感情を経験したことのない人間にはわかり得ないものなのである。文学も同じだ。気休めの知識など、あっても仕方がない。『相対性理論』を一般人が知ったところで、意味はないのだ(それをアインシュタイン自身が言っているのにもかかわらず!)。それを「魅力」だとか「楽しい」とかで無駄に選択を増やすことが素晴らしいというのはどうだろう?

人は必要だから芸術に触れるのである。教養や文学もまたしかり。女の子が「女性らしくありたい」と願うのも、またしかりだ。
女の子が「女性」になるには、女性になりたいと思う経験がなければ起こりえない衝動なのだ。元々「女性らしい」女の子はいない。女の子は元々、女の「子」なのだ。そしてそのためには、たった一人の愛すべき男がいればいい。数ではない、質の問題だ。質は数を凌駕する。


「生きる意味を見いだせない」
とする若者が多いとメディアは言う。しかし、いつの時代の若者も、そして大人もそうそう「生きる意味」など見いだせてはいない(新聞社だって自分たちの意味にゆらぎを覚えている。「読んでません」と言う層がいるだけで!)。

そこで、「生きる意味など自分で探すものだ」というのは簡単なことだが、そうすると「探す方法すらわからない」と反論されるだろう。しかしそれは逆に言えば、探す意味を必要としていないのだ(新聞だったら「読まないのはあり得ない」と思ってることがそれだ)。ではどうしたらいい?
自分という存在に正しさを持つことで解決できるのか?しかしそれならばどうやって正しさを持つことが出来る?

自分に正しさを持つときに出てくるのは「社会的価値」「宗教的意味」「哲学的存在感」のどれかだ(これが絶対だとは言わないが)。
新聞社なら社会的に必要だと言うことで社会的な存在価値を、子供に正しいことを伝えたいと思うならば宗教的な意味合いを、自分の行動に間違いはないのだと思いたいのなら哲学的に存在感を見つけだそうとする。どれも欠かせないものであり、相前後して密接に関わってくるときもある。しかし、共通しているのは、これらは必要性が必要だと感じたときに生まれるもので、生もうとするものなのだということだ。

そうしなければ、正しさなどは生まれない。そう、正しさとはしょせん相対的なものにしか過ぎないのだ。しかし、人間が相対性を失うことは人間が人間であることの意味を失う。なぜなら、「人間は人間によって人間とされる」からだ。
「あいつ、生きる価値のない野郎なんだぜ」と規定された人間に待ち受けている運命は、「生きる価値のない人間」としての扱いだ。いじめもしかりだが、戦時中の強制収容所などでは特にこれが顕著だ(だから悪口を言ってはいけないんだが、そんなことわからない教師もいるよな)。


哲学的な話はこれぐらいにして
本題に戻るが、では「生きる意味」とは結局どうしたら見つかるのだろうか?キャンペーンで魅力をアピールすることか?

違う。必要な人間にとって必要な存在であるという事実を大事にすることだ。
新聞ならば、新聞を読む人、読みたいと思う人にとってそれに答えるべきなのだ。それこそが「知る権利」の正しい反映であり、必要性に「応える」という正当な手順である。それなのに、無理矢理需要を喚起させようというのは、新聞が非難する「強引なコマーシャリズム」や「国民の意向を反映してない官僚政治」と同じではないのか。今一度再確認して欲しい。

新聞じゃなくても、生きる意味が見いだせない若者は、生きる意味を持つ経験をすべきだ。それは確かに誰しもが出来る経験ではない。しかし、しようとすることで、一つの変化が起こる。

「自分こそが自分の生きる意味を規定できる存在である」と気づくことだ。
あとは自然に自分の生きる意味が作られていく。無理矢理喚起することはない。自らの内から溢れて停まらなくなるほどになる。新聞のように「生きる意味」を過剰認識するようになってから、また意味を考え直せばいい。

これはヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』などを参考にして頂ければ、きっとわかってもらえるはずだ。世の中は出会いなのである(とはいっても出会い「系」ではない)。愛したいと思うときに愛すべき人に出会うように、読むべきときに読む本に出会う。

他人が出来るのは、その手助けをすることだけだ。その人の人生を規定するのも、その人自身だからだ。
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