死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2011.01.31 10:06
 おはようございます、みなさん。起きてますか?

 tkiyotoは基本寝るのが大好きですが、規則正しく早起きする仕事に慣れたせいか、休日は昼間で寝ていた昔では信じられないぐらい、9時以降も寝続けることが出来ない体になりました、残念


 ・・・・しかし、「起きてますか?」というのは非常にヘンな日本語ですよね。

 自分の中で「起きてる!」という実感がなければ、実際に眠っていなくても起きてないという言い方が出来るというわけでしょうが、それは対義語である「眠る」にも言えることですよね、「半分眠ってる」とか。

 そういう意味で、言葉とは辞書に規定されているような「かっちり」した物ではなく、ケースバイケースで流動的に変化する、あくまで「表現」の道具という側面もあってそれをあれやこれやと使い方を変えて楽しむという使い方もあるというわけで。

 私なんか特に、そういったお遊びが好きなもんだから、頭の悪い人に「すごいですね」なんて言ってみたりとか自分のことを自虐的に言って相手の反応を見て楽しんだりとか、いろんな「言葉遊び」をしたりします。
(ちなみにこのブログでもそういったところを計算して書いてる部分もあるので、わかる人にしかわからない面白さが隠れているのもそのためです)。

 そもそも、

 「○○は△△である」

 なんて決まってないじゃないですか、やっぱり。決まってるなら、世界にこんなにたくさんの愛の形やら宗教はないわけで。

 そう考えると、そういう「かっちり」したものにとらわれすぎてると、まさにその囚人になるんじゃないかと私は思ったりしてしまうわけ。
 うん、これじゃ「営業マン」が向いてないのもよくわかる。営業自体がイヤなワケじゃないけど、「営業マン」は苦痛、的な。


 「起きてる」かどうかを決めるのはその個人個人だと、私は思うのですけれど、「立てよ、国民!」のような政治家のアジテーションとか、「目覚めよ」的な映画のタイトルとか、他人に対して、すでに思っている(というか決めかねている)物をゆさぶってゆり動かして、自分の思ってる方向に「導こう」と思ってる人、多いですよね。
 それが決して「正しいこと」ではなく、焦らされることで生まれたことでも「正しいこと」のように感じてしまう、的な。ホロコーストしかりアパルトヘイトしかりね。

 それ自体はその人の生き方なんだとは思いますが、私はあくまでも個人の人生は個人の責任で行うべき事だから「こうしろ!」というよりも、「こうした方がいいんじゃない?」という言い方しか基本しませんけど、だからこそ、反権的というか、非組織的な考え方をする人間になったのかもしれません。

 だから、人の中でずーっと居続けるのが苦痛で、1人になって思考にふけったり、物を書いたりしてしまうわけです。自分にとっては、欠かせないことなだけで、大したことではないんです。

 それがなかなかお金につながらないのは、つなげようとしてないからでしょう、きっと。それもしかたないことかもしれません、うん。お金をもらえる仕事だからやるのではなく、お金をもらえなくても自然とやるのが、物書きじゃないかと、私は思ったりしてますからね。

 ・・・・・・こんなことを思ってるから、ますますお金と縁遠い物書きになっていくのかもしれません。

 みなさん、気をつけて!
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2011.01.17 02:14
この冬ではじめての本格的な雪の日でした。

そのため、誰も冬支度なんてしてないもんだから、日曜だというのに車の少ないこと少ないこと。

仕事帰りに歩いて帰る私は久々の雪道をザクザクと踏みしめながら歩く。

顔をあげれば、信号がかわってもゆっくり発進する車がいたりする。

いつもはせわしなく車が行き交う交差点なのに、まるで真夜中のような車の少なさと、普段では考えられないようなスピード。

それはまるで雪が、忙しすぎる世の中のスピードをゆるめてくれてるような感じを受けた。

そんな中でも、スピードをあげたせいなのか、坂道の頂上地点の手前で、タイヤが曲がった状態で停車している車もある。
おそらく、ホイルスピンしてるのにパワーをあげて、少しのハンドル操作で勢いよくスピンしてしまったのだろう。

やはり、こんな日はたとえ早く帰りたくても、慌ててはダメである。
そうしたい気持ちはわからないでもないが。

私の家は、新しい住宅地のなかにあるので、構造上、通過交通が少なくなるようなつくりになっている。そこに住む生活者しか通らない道があるということだ。

普段はそういうことを意識するのは、周りが静かだとかいうときぐらいだが、こんなに雪の積もる日には、その生活の軌跡というものが明確に提示されることがある。





雪道に残った「わだち」は、ここが住宅地の生活者用道路で、必要のない道路の使い方はしないという証でもあるように感じた。

人は、自分の欲望に従って生きている。

「家に帰りたい」
そういう気持ちに素直に生きているということである。

その想いが空回りすることもあるし、その想いが家庭という幸せや、その積み重ねで「当たり前」をつくっていくのだとも思う。


雪が降り続く静かな夜は、いつもより時間の流れがゆっくりと感じられる。
それはきっと、「たまの雪」だからこそなのだと思う。

どれが正しいかなんてわからない世の中だけど、ひとつ言えるのは、真っ白な雪だけが見せてくれるものがある、ということだけ。

安全ばかりを意識しすぎて、誰も通らない道を歩くゆえの心地よさも味わえないのなら、それはそれで不幸だと、すくなくとも私は思う。

みんながわだちを残すのなら、私はそのわだちを見て、そこに思いを馳せる。

そんな楽しみ方が、人生にはあってもいいんじゃなかろうか。

少なくとも、そういったものが、私には必要なのだ。
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2011.01.11 22:28
どーも、異動になるかもしれない。なんてこった、異動?

歩いて行ける今から比べるとおそろし~く遠いところで、まぁ、みんなそんなもんでやってるといえばそうなんだけど、なんかねぇ、なんかねぇって感じ。

そんなことを言ったら世の中の人に殺されそうな感じだが、世の中の給与人はそれを当たり前のことと受け入れているのだが、そういうことがないようにないようにと考えながら生きてきたもんだから、いざこういう現実が目の前にくるとなんか、面食らうねえ。

まぁ、それなりに認められた上での異動なんだとありきたりのセリフを聞いたけれども、そんなんで喜ぶ歳でもないし、この仕事で出世しようという欲もないし。

とはいえ、そういうことをまったくもって避けてきた人生を変えようと思って歩合のある仕事をはじめたワケだし、正社員なんて難しいなんて噂話を聞いた中とはいえ、これは考え方によっては、ひとつのチャンスとも言えるワケで。

人生は短いから、やりたいことをやって生きていくのが一番正しいコトだから、そんな、行きたくもない競争の激しいところに行かなくてもよさそうな気もするのだが、それはダメだと言うもうひとりの自分がいる。

そういえば、初異動だと思ってたけれど、前にもあったな、異動。

そのときは、これまた実力が認められたとかなんとか言われて二回もしたけれども、すっかり忘れていたよ。

でも、考えてみれば、その異動経験は決してムダではなかったわけだし、というかむしろ、いろんな面で勉強にもなったと思う。

そういったことを考えていると、そのときの知識と経験が、異動することに対して「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということを訴えてる気がするのだ。

仕事が認められるというコトは、男にとっては大切なコトだ。

たぶんそれは、男という生き物が、自分を立てる柱になるからだろう。
女にはそれがない。それがないからダメなのではなく、「産む性」であるという「事実」が、そういうものを必要としないのだ。
だから、女の方が腹が据わってるし、だからこそ、男は女と結婚したがる。捨てられるのはたいがい男だし。


私は、これでも物書きを自称してるから、それ以外の仕事が認められたとしても、これが「私の仕事」ということで認められたとはなかなか思えない。
それではまるで、芸人を目指し、結局は正社員になってあきらめた人みたいに思えるから。


でも、実は最近、まったく仕事に身が入らないし、書く方もほとんど、テンションがあがらない。

なのに今、こういうことがあった時には、スラスラと書けるというおかしな現実がある。


今日はひさかたぶりに合気道に行った。

はじめて二年くらいになるが、すぐに使えるほど合気道は簡単なものではない。
とはいえ、足さばきが多少うまくなっていることに気がついた。
あまり道場に行けてないが、ときどき、時間があったら練習しているからかもしれない。

子供ばかりの道場で、先生も若いのでこんな運痴な私がやって上達するんかと思ったけれども、一番大事なのは、やはり心がけということだろう。

本当にやりたくないことは人はやらないし、子どもとバカやりながらやってる方がよいから来てる自分もいるんだから、これはこれでいいのだろうと思う。

合気道が終わったあと、先生に送った年賀状に、今年から始める予定のブログ情報をのっけたので、それについて聞かれて困ってしまった。
自分でアドレス書いたくせに、くいついてきたんだから、これはチャンスと思うべきなのに、なんか濁してしまう自分がいる。

やりたいことをやっていないから、堂々とできないのか。
やりたいことをやってないから、寝る時間も惜しんでやらないのか。

そのどちらも当てはまっているのかもしれないが、こうやって自然とつらつら書いてる自分をみると、最近のモチベーションの低さと、いまだに完成しないブログのことがよくわかってきた。

刺激がなさすぎるのだ。

だから、やる気が起きない。

そもそも私は、熱血ではないし、燃やしても青い炎をゆらゆらとゆらすタイプなので、モチベーションを、興味のあることでしか持続させられない。

だから、ほっとけば自分の世界に入り込むし、それがよい方向に働けばまだしも、悪い方向に働くこともあるわけで。

私が興味があるのは、こういった人間の思考の「流れ」というか、世の中の「仕組み」というか、そんな、形にしづらいもので、それに触れるたびにどうも、キーボードを叩いてる気がする。

それは、宗教を持たないと決めたからこその、自分なりの世の中の解釈で、あくまでも自分だけのものしかないのだが、それでもそれが、誰かの役に立つのなら、それでもいいのかもしれない。

それが、私の仕事かもしんないしね。

でも、そう考えると、ある程度慣れてくるとそこから学ぶことがないから退屈になる自分がいるのもわかる気がする。

刺激がほしいんだよね、なんだかんだいって。
なのに、自分からはほとんど動かない。

だったら、提示された運命を受け入れていくってのが、私の生き方なんかもしれないね。

書くためのエネルギーは時間でも環境でもなくて、「刺激」なのかもしれないね。

ハートで書くんだから、当然といえば当然なのかもしれないけどね。
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2011.01.09 04:38
 2011年もはや十日に迫ろうかという段になってようやく、『楽しむぞ2010』に変わる新しいタイトルを考えついたので、早速タイトルを変更しておきました。

 まったくの予告なしなのでビックリされた方もおられるかもしれませんが、とりあえず今のうちなら、検索エンジンで「楽しむぞ」で検索してもトップに出てくるのでよいのですが、一ヶ月後にそれができるという保証はありませんので、このさいブックマークに入れておいてくださいませ。なんちゃって。


 さて、いきなりタイトルがザックリと趣旨替えをしてしまったので説明をしないといけないような気がするのですが、ようはあれですよね、「楽しむぞ2010」と銘打った割にはちっとも楽しめないことが多かった2010年だったので、これはいかんと思い、それに変わるタイトルをどうしようか・・・・なんてまったく考えてなかったのですが、とりあえず年も変わったことなので前年の反省を活かしてどうやって生きてくべさと考えていたら、ふと、今回のタイトルがひらめいたわけです。

 カンタンに言ってしまえば、「楽しむぞ2010」の前の「文は人なり」のサブタイトル「The style is a man」が復活したと言えばそんなところもありますが、それよりもまず、「楽しむぞ」という意志的な言葉が、あまり効果をなさなかったことに、あるひとつの真理を見たわけです。

 「~なりたい」よりも「~なる」と言った方が現実化するというような言葉がありますが(どこに?)、現実は、目標としたものよりも基本的に小さくまとまることが普通です。目標が漠然としていればしているだけ、それは人を惑わせるのです。


 たとえば、自殺したいという人がいたとしましょう。

 そういう人を「助けたい!」って人が世の中にはいます。いや、私も助けたいとは思ってますよ? だからこんな文も書くわけで。でも、だからといって、電話で朝まで相談に乗ってあげたいとか、そんなことは思いません。

 「救ってあげたい」

 そう思える人は貴重でもあります。ですが、そういう人が、「ミイラ取りがミイラになる」のように、救いたい気持ちが先走りしすぎて、結局救えないなんてこともままあるものです。
 若いカウンセラーが患者に恋をするのも、その気持ちが先走りすぎるからです。ですが、そういった関係はなかなかうまくいかないものです。なぜならそれは、その人の「救いたい」という気持ちが先に立つあまりに、相手を対等な存在として見るのが難しくなるからです。

 自殺したい人というのは、それで助けを求めるような人というのは、本当は死にたくなんかないのです。死ぬしかないと思ってるから「死にたい」と言葉に出して言うのです。それは弱いことでも迷惑なことでもありません。ごく、自然なことです。
 本当に死にたい人は、言葉を発露する前に、この世にはいないでしょう。衝動のまま、命を落とすからです。

 で、そんな人に対して、「救いたい」という人の心がマッチして、マッチ売りの少女のマッチのように、それだけで心があたたかになり「救い」になることは実際にはあります。ですが、それでは、問題の解決にはならないのです。

 結局、その「死にたい」という原因がその人の中にあるものである以上、外部の人間がどれだけ、何をしようと、それを押しとどめることはできても、かき消すことはできません。その人自身が、その人自身の手で、かき消すしかないわけです。


 ――で、それがいったいタイトル変更となんの関係があるのかと思われるかもしれないのですが、こういうことなのです。

 私がブログのタイトルに採用した「楽しむぞ」という言葉は、他の人にとってはどうであったかはわかりませんが、私個人にとっては、楽しめていない自分を後ろ向きに考えた言葉なわけです。で、それでちっとも楽しい気分にならないわけです。なにせ、スタートから「ダメじゃん、自分」というところからはじまってるわけですから。

 と、タイトルのせいにしてもいけませんが、自分を「救おう」と思ってるからこそ、まさに「楽しむぞ」とあえて言わなきゃならない自分そのものに気持ちがフォーカスしてしまい、ネガティブな方向にいきやすくなるわけです。

 それじゃぁダメでしょと。それじゃぁ、自殺してる人も救えないでしょと。


 で、まったくそのことから離れていたわけなんですが、なーんかおかしい、なーんか気持ちがスムーズに流れないなと思ってあれやこれやと考えていたら、そういうことをふと思い出しまして。

 いや、決して、楽しいことがなにもないとかそういうことじゃないんですけど、なーんか違う人生を送ってるなと思いまして。ちっとも創作してないし、的な。仕事してないなぁ~って感じがしたんですよね。収入うんぬんではなく、「私の仕事」という意味での仕事。

 それってなんでかって考えた場合、自分が通る道からけっこう離れていたからってことに気がつきまして。

 「自分の殻に閉じこもってちゃダメ」
 とは思っていたんですが、そうやって思えば思うほど、殻の中におさまっていくのが人間というもの。ちょうど、不倫をしている女性が、自分のところに来ない男のことを考えれば考えるほど、その人のことを意識して、特別な存在としてインプットし、復讐心すら持っているというのに「愛してる」などと言うのと似ています。

 それはひとえに、自分の歩くべき道を歩いていないからだし、そもそも、自分の殻というのは、自分が意識して壊そうとするものなんかではなく、歩き続けるためには壊さなきゃいけないようなものなんです。

 動物が脱皮するのは、その状態ではそれ以上成長できないからで、「脱皮しなきゃ」とせかされてやるものではないのです。たとえばアゲハチョウならば、自分の中に空を飛びたいという欲求がどうしようもなくなってくるからこそ、さなぎになり、そこから羽ばたいていくわけです。

 それは結局、アゲハチョウのStyleであり、一生ぶれない自分の軸線ということなんですよね。

 私なんかホントに、それがぶれやすいので、「つべこべ言わずに書けよ、書けるんだから」と言われている期待感に応えられずにいたりするんですよね。

 そんなことを思って、タイトルを、そんな「~したい」とか「~しなきゃ」とかをぶちこわすエネルギーの源泉にしたってことです。

 ん? でもこれじゃ。同じ気がしますか??
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2011.01.03 01:31
 現在、別のブログをまた、こりもせず制作中である。

 とはいえ、これがなかなか、うまいことできない。書いても書いても、なーんかピンと来ないんだよねぇ。書いてて楽しくなかったり、こんなんでええのんかと思ったり、んで、真夜中に格闘してはこたつの魔力に負けてしまったりするという悪循環(どんなや)。

 で、今日は久しぶりにウォーキングしたんですが、煮詰まったときには洗い物するよりもやはり、足の刺激をする方が効果があるようですね。冬の冷たい空気と静寂があいまって、非常に頭がシャープになります。

 それで導き出したのは「そもそも準備不足だ」という、ごくごく当たり前のことで、だからこそ、勢いで作ったけれども、しっかりとしたものを作ろうと思うと、どーも気に入らないモノしかできないのであった・・・。


 気がつけば世の中は「2011」年になっているのに、ブログのタイトルは「楽しむぞ2010」のままだということを考えて、「準備が大事2011」に変更しようかと思ったけれども、それもダサくねーかと思ったりして、まさにそこにこそ、準備不足の感が否めないという、本末転倒な事態に。

 そんなわけで、もうしばらく今のタイトルのままでありそうです。
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2011.01.02 01:55
 あけましておめでとうございます。

 年賀状が元旦に届かなかった人もいるかもしれないぐらい、例年のごとく年賀状を出すのが遅くなりました。

 今回は、通販でしか買えないインクを使用している悪名高きDELLのプリンタを使っての制作だったので、カラーインクが足りず、到着も年末休みのせいか間に合わず、モノクロ印刷でしのぎきるという、かなり強引な制作となりました。モノクロでもさして違いがない写真だからこそできる技ですが・・・・というわけで、私からカラーの年賀状が届いた人はラッキーです(汗)。

 まぁ、準備が遅いからと言えばそうなんですが、やっぱり早めに準備しようと思っても、なかなか気分が乗らず、この一年を締めくくった一枚という写真に出逢えないのでなかなか作れないんですよね、作ろうと思っても。

 はじめは、パワースポットでもある、ゼロ磁場「分杭峠」から駐車場まで5kmの峠道を歩いたときにはしゃいで撮った写真にしようと思ったのですが、あまりにも人を選びそうな写真だったので、いまいち年賀状っぽくなくて躊躇してたんですよ。

 で、iphoneに入っている写真をとりあえずバーッと見ていたら「これはどうかな?」と思って、Illustratorに取り込んで、「A Happy New Year」という、毎年恒例のデータ使い回し(フォントは雰囲気に合わせて変えている)文言をかぶせてみると、なかなか良い感じじゃないですか。

 でも待てよ? たしか「A~」の「A」はホントはつけないのが一般的じゃなかったかと思ってちょっと調べてみると、「I wish you a Happy New Year」の、前の部分が抜けたままはやったのが原因じゃないかという説に出逢って、だったらこの長ったらしいのをつけるか? 美しくないなと思っていたんですが、試しにそれをかぶせてみたところ、これが以外とハマるじゃないですか、写真に。これはいいと思って、すぐ採用しましたよ。

 その結果がこちら

2011年年賀状


 自分の「報告」ばっかりではなく、本来の、「相手の幸福を願う」年賀状らしい、写真と言葉がマッチした年賀状になりました。

 しかし、我ながら、いい写真撮ったなぁ・・・・単に「おもしろい」と思って撮っただけの写真なんだけど(場所は徳川園のトイレ)、排水溝の中心にハートがあるのが哲学的ですよね。水が散らばってる感じも、非常にイイ。


 自分で言うのもヘンなんですが、こういった「感受性」をもっと世のため人のために使う物書きになろうと思います、今年は。それが今年の目標、ですかね。でも、準備は早く(汗)。
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