死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2011.04.30 02:47
 いやはや、二週間ぶりの更新ですか。

 原発の問題はいまだ解決せず、復興のメドなど当然たたず、それでも過ぎていく時間の中で、「置いていかれる」人たちの心情はいかほどかとも思うのだが、そういうのが積み重なっているのが人の歴史というもので、そういう意味で、人生とは残酷なものだなとも思わせられる。

 まぁ、そんなだからこそ、宗教という存在が今も必要とされているわけだけども。


 さて、そんな世知辛い世の中のある一コマですが、先日、我が家に給与明細が送られてきましたよ。いつも、本社の方からご丁寧に郵送で送ってくれるのですが、これがまたもう、いつも、給料日一日前とか、当日とか、いやまぁどこもそんなモンと言えばそんなもんですが、今月なんて給料日後に来るってどうなのよ。ちょっと相手の立場に立てばわかりそうなものなのだが、いったい明細が何のためにあるのかイマイチ仕事として(以下略・・・・。

 そんなぐちはさておき、そんな会社から、「送られてくるよ」と言われて半月以上が経ってから送られてきた書類がありました。「契約更新」の書類という、現代の世知辛さを象徴している紙が送られてきまして、「あなたは半年ずつの契約だったけど、みんなと揃えるために3ヶ月更新の契約にしますよ」という契約書でした。

 しょせん会社なんて会社という組織が最優先されて考えてるので、社員のことがどーたらとか、社会のことがどーたらなんて、考えてるハズもないというのが現実の企業の体質であって、要領よく利用しなきゃ、いいように利用されて終わりなんてものが発生するもんです。

 ですから、そういうことには特段驚くこともないんですが、いちばん驚いたのがどこって、契約書にハンコ打って、同封されてる封筒に入れて閉じようかと思い、企業名で来てるので、「係」のとこを「御中」に書き換えてて気づいたんですよ。

 宛先が「管理部」になってると。

 いやまぁ、実際「勤怠」をケータイ電話からGPSも使って契約社員の動向を常に「管理」しているのでそれを別段おどろくことではありませんが、人事部や総務部や経理部などではなく、「管理」部ってところが、「ああ、なるほどな」と思いました。

 言葉がかろんじられるというのはいつの時代もかわりませんけども、こういうのを見ると、潮時ってのを読んでないといいように利用されて「責任も取ってくれない」ところに追い込まれそうでイヤですね。よっぽど首にはしないのが現実ですが、とにかく「契約」というものが、イコールの関係ではなくて、やっぱり「会社>個人」になってるのがよくわかります。

 何かあれば「責任取れ」「責任取れ」と連呼する世知辛い世の中ですが、それも結局、責任を取るのはいつだって「責任を取らされる」立場の人であって、やっぱり綺麗事だけじゃ生きていけない現実もあるんだなって痛感しましたよ。

 ま、こんなんで抜群のチームワークが生まれるかって言うと難しいところなんで、だからどんどん、日本は弱くなってるのかもしれませんね。元々「個」で勝負することを美徳としてこなかった国民なのに。

 色んな意味で、世知辛い世の中です。


 でも、そんな中で、あえてそういった問題に挑戦し、そういった事実を超える体勢をつくってがんばるところもあるでしょうね。っていうか、こっちの方がよっぽど自然なんですけどね。
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2011.04.14 03:16
 ブログ更新ペースがスーパーひどいことになってるtkiyotoです。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 東日本大震災からはや一ヶ月、こちらでも揺れを感じるような余震があるほど状況は芳しくないですが、それでもやはり西日本になるので、普段の生活に直結するような影響は比較的少なく、「がんばろう、日本」とかいうキャンペーンに何か違和感を感じ、関東が絡むと「日本」になるのか?とか勘ぐったりしてしまいます。兵庫や北陸の時はそんなことなかったのにね。まぁ、規模の問題でもあると思うのですが。

 さて、そんな大変な世の中と言われる時代にあって、引っ越しやらなんやらで忙しかった我が身もやっと落ち着いてきて、ずいぶん放置プレイだった、ユーキャンの「実用ボールペン字講座」を再開したんでありますよ。ちょうど一ヶ月止まっていました。なんて平和なんでしょう。


 それにしても、私もいい歳になったせいか、昔に比べると、無神経になりましたね。

 10年も前、NYで9.11のテロに遭遇したときは、煙が立つ国際センタービルに不謹慎だと一度しかカメラを向けられなかったり、買いだめのためにスーパーに集まる人たちの姿を「自粛」して写せなかったりした私。もっと前は貧困や紛争で苦しむ人に胸を痛め、のうのうと暮らしてることに罪の意識を感じながら生きていた私。

 しかし、いろいろな経験を重ねるにつれ、自分にできる限界というのがハッキリしてくるせいか、そういうことに悩まされることが少なくなりました。いい意味で鈍感になったというのでしょうか? センシティブな面がなければこうやって書くことは難しいでしょうが、センシティブすぎてもいけないのだとも思うわけで。

 そういうことのコントロールができるようになったのかなぁと、安易に思ったりしていますが、ある意味、汚れてしまったのかなぁとも思う気もして。

 30すぎてから、時々こんな言葉が頭に浮かび、自分に言い聞かせています。

 「汚れるのはかまわないが、腐るなよ」と

 誰も傷つけずに生きられたらいいなと願い、そのために必死に努力していた少年時代と決別し、「目的」を最優先させる大人な生き方のチョイス。

 でないと、誰も守れないんだよね、現実問題。

 ただ、それを理由にして腐ってしまう大人と、汚れても腐らずにいられる大人がいるのも事実だ。

 やるべきときにやるべきことをせずに、放っておけば、人は腐る。自分の中ですべてを完結させ、新鮮さを求めなければ、人は腐る。汚れたままの状態で、浄化しなければ、人は腐る。

 だから、この大震災があった後に起きたたくさんの「自粛」ムードも、腐りたくない人間の本能が起こした自然な反応なんだと私は思う。普段意識していない大きなつながりの中で生かされている自分、誰かの犠牲になってなりたっている自分を意識するからこそ、普段は汚れても平気だという顔をしていても、急にそれではいけないと感じたんではなかろうかと、私は思ったりする。

 ふだんから汚れないよう、綺麗でいようと思えば、東北の小さな街にいかんともしがたい原発のゴミ(放射性廃棄物)を運ぶことにも心を痛めなければいけない。しかしそれでは生きづらい。

 だから人は、大人になればなるほど、汚れても平気なようになっていく。

 大学の頃出入りしていたとあるサイトの掲示板で知り合った学生は、阪神淡路大震災の時、なにもできなかった自分を責めていた。すでに2年以上経過し、現場から500km離れた所に住む高校生が何も出来なくても仕方がないのにもかかわらず。
 彼は今どうしてるだろうか? きっとたぶん、その時のような悩み方はしないだろう。「せめても」と募金したり、はたまた想いを行動に昇華させ、赤十字社にでも入っているのだろうか?


 人はそれぞれの人生において、その人の価値観において、自分にとって必要な選択をする。

 その過程の中で、汚れる人、腐る人、そしてずっと綺麗なままでいる人。いろいろいるのだと思う。

 ずっと綺麗なままでいようとする人は結局、生きづらいから死んでしまう運命を辿ることが多いけれど、腐る人は自分が腐っていようと平気だから、死ぬまでそれを改めない。

 どれが正しいとかはカンタンには言えないけれど、多くの人にとっては、そんな極端な生き方よりも、汚れながらも生きていくという選択をするのだと思う。

 それはそれでたくましく、価値のあることなんだと私は思う。

 むしろ、それこそが、人間という生物を存続させてきた根源にあるものだとさえ思う。

 理想に生きて死ぬ人間ばかりなら子孫など残さないかもしれないし、腐った人間ばかりならつぶし合いで誰も生き残っていないハズだ。

 だから、こういった大災害があっても、人は立ち上がり、汚れをはらって生きていくのだ。


 東海豪雨の時に参加したボランティアで、9.11のテロの数日後のNYで、たくさんの汚れにまみれた現場を見てきた。でも、汚れをはらっていくことで元と同じとは言わなくても、まるで何事もなかったかのようにすることだって、負けなかったと証明することだってできるはずだ。

 傷は消えないかもしれないけれど、ついた汚れはいつだって落とせる。

 それには時間がかかることだし、労力もいることだけど、やらなきゃ、次に進めない。悲観に暮れて人生を諦めるのはカンタン。でも、それに負けないで闘い続けるのは、大変なことだ。ぜったいに一人ではムリだし、誰かの支えがいる。

 だから私は、しつこいくらいにリピートされる「がんばれ」よりも「負けるな」と言いたい。がんばらなきゃいけないことくらい、誰にだってわかってるはずだから。

 がんばってもダメなときに支えてあげられる仕組みが、この国にはあんまりないからこそ、こういう風潮があるんだろうけど、こういうのが「その時だけ」に終わることが私はいちばん怖い。

 それは私がセンシティブな面が捨てられていない証かもしれないが、人は忘れる。

 義援金が一人頭、生活費にも充てられない現実がある。大事なのは継続的な支援だ。殊に史上空前の規模での災害で、いくつもの街が文字通り「壊滅」しているわけだから。冷たい言い方かもしれないが、義援金をいくらかき集めたとしてもスズメの涙にしかならない。

 そんな中で、一時的な義援金にかぎらず、今後の報酬を支援にあてると表明した孫正義社長は、多くの人が意識しなくなった阪神・淡路大震災の「後の問題」について思うところがあったからこそ、こういう選択ができたのだと思う。個人的にソフトバンク自体にいい想いをしたことはあまりないが、このセンスは大事だ。

 そういう意味で、議員の報酬をカットするだけで膨大な額の捻出ができる税金というお金の役割を最大限に生かし、きちんと「増税」する姿を、それを素直に受け入れる姿勢を持つ方が、被災された人びとを鼓舞することより大事なんだと私は思うがどうなんだろう?
 
 菅首相および内閣には、自分が国賊とののしられるほどの汚れをかぶってでもこの復興に政治生命をかけるぐらいの意気込みを見せてほしいものだ。汚れなければできないことだってあるはずだから。


 原発を推進した人間が、汚れをかぶっても責任は自分で取るという意識があれば、福島原発はもっと厳重な防災体制が取られていたはずだ。万が一災害が起きても「どうだこの野郎!」とふんぞり返れる体制を作っていたはずだ。でなければ、自分のやったことが無に帰すのだ。
 そういう意味で、福島第一原発に限っては、汚れる覚悟が足りなかったのかもしれない。自分が汚れた分、それなりの埋め合わせをするのが普通の人間だが、この被害状況を見ていると、腐っていたのかなと思ってしまう。


 芸能人の方々は、「今、なにができるか」という視点で活動されている方がほとんどだろうが、そうではなくて、「今後、どうすべきか」という視点で活動していってほしいと切に願う。

 というか、そういうことを考えていないからこそ、「今」に何かをしようとしてるのかもしれないね。それはそれで当然と言えば当然だけど。

 反原発の歌を歌って東芝からCD発禁になったこともある忌野清志郎が生きてたらもっと先を見てたんじゃないかな。「ホラ見ろ原発はダメだったんだぜ」なんてことを言うんじゃなくて、きっと、たぶん、「もっと地に足をつけた生き方をしようぜ」って言ったんじゃないかな。なんとなくね。だって、ダサイ生き方は嫌ってたから。
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