死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

--.--.-- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
トラックバック(-) | コメント(-) | この記事のURL | 編集 |
2012.01.31 23:59
 どうも!

 お久しぶりですみません。

 いやしかし、なんでしょう、テンション上がりますね!!

 今までかなり問題のある人間と一緒に仕事してきたのですが、やっと、やっと消えてくれました。

 ほぼ詐欺みたい(というか間違いなく詐欺的)な契約の取り方をする、異常なまでに数字にこだわる周りが見えない人間なので、救いようがないと判断し、色々と手はずを整えていたのですが、そんな人ですからなかなか思惑通りことが運ばず、ただ、今日、元々消える予定だったんですが、それにも全然従う感じじゃなかったんですが、例によって「キレて※」嵐を起こしたその後で、「(私の)上司を呼んで言い分を聞いてもらえば僕の正しさがわかりますよ」と言ってた上司の呼び出しで消え、そのまま帰らぬ人となりました。
※週に1回以上はキレます。先月末に「次キレたら終わりね」と話していたのにもかかわらず。

 社会人としてそんな去り方はヒッジョ~にかっこわるいことこの上ないのでしょうが、まぁ、ね。

 オオカミ少年で、エラそうで、ペテン師で、バーサーカーで、無責任で、DV野郎※で、爬虫類の目をしたサイコパス・・・・とさんざんな言いっぷりですが、実際にそうなんだからしかたないんです!
※新婚4ヶ月ですが、奥さんを殴ったりするそうです。ちなみに奥さんは彼の髪を引っ張るそうですが。

 世の中には、残念ながら「死んだほうがいい人間」というものはいるものです。残念ながら。

 しかし、「善と悪」という概念があるのだからそれは当然のことで、「善き人」がいれば「悪しき人」がいるのも当然のこと。

 そういう現実に目をつぶり、人を悪く思ったりしちゃダメだとか、耐え忍ばなきゃダメだとか、そんな制限ばかりかけられても、今度はこっちが病気になる。だからこそ、自殺者の数とかうつ病の数も減らないんじゃないんでしょうかね?

 「悪いものは悪い」

 そういった事実はきちんとしておかないとやっぱりいけないですよね。

 今回のことで、ホントにそう思いましたよ。

 もちろん、その彼は口癖のように「僕、間違ってませんよね?」「僕、正しいこと言ってますよね?」「アイツ、おかしいですよね?」と言っていましたが、そもそもその「基準」ってなんでしょね? まぁ、彼にとっては「自分が間違ってるハズがない」という困った信念をお持ちだったということに尽きるのですが。


 そもそも、

 「これが正しい」

 なんて絶対正があるというのなら、誰も勉強しなくていいし、世界に宗教は一つでいい。だが、そういうわけにも現実にはいかない。

 南の島で平和に暮らしていた家族が、大国の核実験により住み慣れた土地を離れなきゃいけなくなる・・・・なんてことも、現実にはある。それでも、大国側の「自分たちの領土だから」という主張を「正しい」と言う人もいるし、「いや人としてそれはおかしいだろう」と言う人もいる。

 それを左右の思想の考え方に分けるのもよく使われている方法論だが、どちらにしろ「正しい」をアピールする人間はそもそも信用に値しないことが多い。それを「疑え」ということを教えてくれるのがいわゆる「高等教育」というやつだ。

 だが、その「正しさ」というものを強く持っているものに惹かれていく人間がいるのも現実。自分の中に強い強い「正しさ」というのを持つのは並大抵ではないから、そこに頼りたくなる。

 それが「宗教みたいな」会社であったり、「宗教」そのものであったりするわけで。

 オウム真理教は端から見たら異常な集団以外の何者でもないかもしれないが、その中にいればそこでの「正しさ」が「絶対正」となっていくのもムリのないことだろう。我々も、日本の中にいれば「常識」のことも、他の国では違うなんてこともたくさんありますよね。


 今回サヨナラしたそのサイコパス君も、体育会系の会社から、その取引先に出向して、その立場でかなり保守的な大手企業の仕事を引き受けているウチの会社の下請け的な仕事をしているのに、それを指示監督する立場の私に対して「オマエ」と言ってくるぐらいだから、そうとう違う世界で生きてきたのでしょうね。

 だから、彼には彼の正義があったのかもしれないが、でもやっぱり、それはそれとして、平気でウソをついたりできる人を、信用することはやっぱりできないんですよね。

 それがめぐりめぐって「信用」になり、それがないからこそ、多くの人から「消えてほしい」そして、実際に消えたら「ホッとした」とされてしまうわけ。

 本当に信用ある人なら、そんな態度とられないですよ、よっぽどひどい所でなければ。

 もちろん、彼にとっては、「こんなに」正しい自分がひどい目に遭わされる方がワケわかんないという感じなんでしょうが、そういう「そちら側の正義」にこだわるんならやっぱり、そっちで暮らせばいいだけだって、誰だって思いますよね。


 そういった「現実」に目を向けずに、自分のやりたいことばかり主張し、追いかけ続けた結果、結局足下から崩れてしまった・・・・ってのが、彼にとってのこの3ヶ月だったんでしょう。仕事をするためには、足下を固めないとダメですよってことですよね。

 そんなこともわからない人が、よく世の中語ってたよなぁ・・・・と思いますが、「営業系」の会社にどっぷり浸かって、数字とお金だけで全部計れると勘違いしている典型的なコゾーだったなと思います。今思えば。

 そんなバラガキに、まともに接したのがバカだったんだなぁ・・・とちょっと反省。

 まぁでも、これ以上一緒にいても人生のムダだったんで、ちょうどよかったです。いい経験でしたけどね。サイコパスって、間接的に相対したことはありますけど、実際に当事者として相対すると、こういう感じなんだなって、非常によくわかりました。

 「社会」に対する感性が著しく欠乏している。
 だからこそ、平気でDVができるんだろうし、ウソとばれるに決まってるウソをついて仕事をとろうとする。しかも、堂々と「目先の利益を追ってちゃダメですよね」と言ったりね。スゴイよねぇ・・・・そういう意味で「病的」でした。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学
(1996/12)
M.スコット ペック

商品詳細を見る

 「悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じる」(文中p.285)

 罪の意識がないから、平気でウソをつける。
 「○○さんも僕が正しいって言ってましたよ」⇒その人に確認「そんなこと言うワケないじゃん」・・・・・なんでこんなこともわからないのかとホントに思うのだが、ホントにわからないから怖い!! 想像力がなさすぎて、ホントに爬虫類の脳なんじゃないかと思うぐらいだ。たぶん、自分と仲良く話してるから自分の味方をしてくれると信じて疑わないだけなんだろうが、キライでも仲良く話すよ、特に女はねぇ。

 そんな恐怖から解放されてホッとしている、というワケですよ、うん。

 そんな人間を抹殺せず他に丸投げしたような気がしないかって?

 いや、そういう人間はどこへ行ってもダメですから、まさにその事実こそが彼にとっての「罰」なんでしょうね。ちょうど、人を殺すのが好きな兵士みたいなものです。「俺様が現場で活躍してるから戦争に勝ててるんだ」と言って、時にはレイプしたり掠奪したり軍紀に違反したりと好き勝手して、結局、どさくさに紛れて味方に殺される・・・と。

 「彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。」(文中p.92)

 歴史上そういうことがゴマンとあるというのに、こういうことがなんでわかんないのかなぁ~と、高校時代に思って物書きを志した私としては、非常にいい経験をさせてもらいましたよ。

 やっぱり、「バカは死ななきゃ直らない」って死語にならない理由があるんですね。
スポンサーサイト
web拍手 by FC2
2012.01.18 03:12
 山崎豊子原作ドラマ、『運命の人』観ましたよ。

 さすがにというかなんというか、山崎豊子的ですね。『白い巨塔』とかその代表格ですが、重厚の中にも触れやすさのあるドラマの作り方はさすがです。

 で、そういえば山崎豊子について調べたことないなと思い立ちまして、調べてみたんですが、どうも「盗作疑惑」でイロイロと叩かれているようで・・・。
 私自身、山崎豊子作品自体、『白い巨塔』の原作とドラマに触れただけで、その、盗作されたものとか、山崎豊子自体の文壇での足跡なんかの話題には触れたこともないので、そのこと自体のゴシップな話題は正直、どっちでもいい話に感じてしまいます。「物書き」と自称しておきながら興味がないというのもどうかと言われそうですけれども。

 というのも、あれやこれやと言ったところで、じゃぁ清廉潔白な人が書いたものを面白いと評価して、読んでくれるのかという現実があるわけだし、むしろ、この『運命の人』の主人公にしても、『白い巨塔』の主人公にしても、「己の(信念に基づいた)目的のためには手段を選ばない」者の生き様の中にこそ、ドラマが生まれるんではないのかと。

 ことに、山崎豊子自身、この作品について「沖縄の人たちの苦労を・・・」と言っているようですし、少なくとも原作ではなくドラマしか観ていない中でですが、作中の主人公にも「沖縄の人たちの苦労を・・・」というようなことを言わせていることを考えるに、作家が作中の人物に自分の想いを語らせたり行動に反映させるのは非常によくあることだし、特にリアリティを追求したり、実際の事件をテーマにする以上、ドキュメンタリー作品でもなければ客観的であり続けるのはほぼ不可能で、「作家」として「自分の想い」を作中に盛り込むことはごくごく自然な行為と言えるでしょう。

 それに、そういう「誰かに伝えたい」という衝動がなければ創作活動などできるはずもなく、その際にどういうモラルを持っているかというのも、想いの強さの前ではどんどん色あせてしまうこともあるのも、良きにつけ悪しきにつけ、創作活動に付随する「毒」の一種でもあると思うのです。
 とくに、今回の主人公にしても、「戦時中は国家と新聞にだまされた」「沖縄の未来を変えたい」などといった正義を行使するためなら、奥さんを裏切って情報をくれる女と密会をしたりするなんて、まさにその考えを投影した存在とも言えるわけですよね(でも、その正義の行使は国家のやってることと違わない・・・というドラマ展開になるんだと思うが)。

 つまり、そんな「想い」を作品に強く投影しようとする山崎豊子だからこそ、『運命の人』の弓成亮太や、『白い巨塔』の財前吾郎というキャラクターを、意志が強すぎて共感できない部分がありながらも、どこか憎めない、どこか同情してしまうという、一口で言い表せない彫りの深さのある造形物として描くことができるのだと思う。つまりそれが一つの、作風というか。


 こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、毒のない善人の書いたものほどつまらないものはないし、「○○へのラブレター」的なそれは一瞬の感動を生むかもしれないが、人の心に何かを突きつけるような鋭さもない。

 それが別に「善」であるとは言わないが、少なくとも、作品を世に送り続ける「作家」としては、そのような鋭さを失ったら「フツーの人」に成り下がってしまうし、それを人々が、「作品」と呼び、そしてわざわざ触れようともしないだろう。どこにでもある常識のままに書かれたものであれば、それはとりたてて特別な存在になることもない。

 世阿弥も言っているが「珍しきが花なり」なのだ。


 多くの人が「作家」や「芸能人」にモラルを求めるが、現実問題、それを言い出してしまうと、作品がつまらなくなるという意見は、ある意味で正しいし、だからといってそれを無条件に認めるのも正しいとは言い難い。

 しかし、世の中というものは得てしてこういうものである。

 浜崎あゆみが離婚したことに、世間の評価としては「やっぱりか」というのが大半を占めるのだと思うが、私もその一人だ。あれだけ感情を込めた曲を書く人間が、フツーの恋愛婚をして、うまく行くはずがない。なのに何をそんなにドラマチックに感じて行動に移してしまうのか。

 端から見たら予見された滑稽な光景だろうが、その、クリエイターとしての姿と、少女のような想いを捨てきれなかった姿の両面があるのがまた、人間らしさなのだと思う。創作に殉じつづけるということはやはりなかなか難しい。もちろん、結局は創作に帰ってくるのがみんなわかっていたからこそ、結婚してもうまく行くはずがないとみんな思っていたのだろう。知らぬは当人ばかりなりというわけだ。

 冷たい言い方かもしれないが、これはまぎれもなく現実である。

 こういったことが世の中には往々にしてあるし、だからこそ世の中は時に醜く、時に美しく、映ったりもするものだ。

 そしてその中で自分が何かを感じたものを形にしていくのが「表現者」であり、そのための方法論はそれぞれの信念や生き様や価値観に影響されるものだが、それが人によって違うからこそ、同じテーマでも違う作品ができあがるし、それに触れる人々の感じ方もそれぞれ違うのだ。

 その中でもいい作品が、何年経った後で触れたときにまた印象が異なるのは、まさにその点からで、平面じゃなく、立体的だから、一面じゃなく、多面だからこそ、様々な人に触れられるし、様々な心を映し出す。

 だからこそ「何度」も触れることができるわけだし、だからこそ「展開」され、「人気」も出る。そうしていける作品が、歴史の中に埋もれずに残っていく。それが結果として「いい作品」とか「名作」と呼ばれるものになっていくのだろう。
 日々変わっていく人の目に耐えられ得る作品が、いい作品というわけだ。

 それは、作家志望の人にありがちな独りよがりな作品にはないもので、インモラルだったり、人々の常識の外にいる人たちが作ったものにはあるものだ。それは、そういった人たちは創作時に常に、自分という人間の様々な面を意識せざるをえないからだ。


 作家たちは、創作を通じて、自分の作品と真剣に向かい合うことで、自らの人生を問われている。そして、そうやって完成したものが今度は我々に、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と人生を問い直すようになる。だからこそ、そういった作品が我々の心に「何か」を呼び起こさせる。

 それはつまり、「作品」とは、我々の心の試金石のようなものであるということでもある。

 だからこそ、心が豊かな人は様々な作品に触れ、そこから何かを得ることができるが、心の貧しい人は「値段」とか「評価」とか「人気」とか、そういった後から付随してきたものでしか作品を見ることができないので、何も得ることができないのである。

 「作品」は「作家」の「人生」なのだ。

 だから、作家に引退など存在しない。死ぬまで創作しつづけるしかないのだ。大正生まれの山崎豊子がさんざん罵られながらも書き続けるのも、その使命感があるからだろう。描くのは「正しさ」ではない。「人間」の感情そのものなのだ。

 それをわからない批評文は、取るに足らないものだと断言できる。なぜなら、作品と真剣にぶつかっていないからだ。作家が真剣に書いた作品と、真剣に闘っていないからだ。そこに心のギャップが生まれるのはムリからぬことで、「期待していたのに裏切られた」なんて言葉はまさにその最たる例だ。

 そういった面でも、作品が心の試金石である、ということが言える。

 本来、作品に触れることは、闘いのようなものだ。そうでなければ、作った人に対して失礼だと私は思う。人、一人の人生をカンタンに切り捨てることなんて、そうそうできるものではなかろうか? それとも、あまりにもライトな作品に触れすぎて、そういうことを忘れてしまっているのではなかろうか?
web拍手 by FC2
2012.01.18 01:35
 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 さて・・・書くことないな。

 いつもは年賀状に使った写真を出すのですが、今年はホント、どこにも行ってないので、たいした年賀状も作れず、日々の延長のような写真になってしまいました。


 いや、フツーすぎるだろというツッコミもあるだろうけど、いやね、よくよく考えるとね、な~んも考えていないように見える猫も、ちゃんと考えてるんだなって写真なんですよ?これ。

 いわゆるノラ猫なんですが、背中側にはちゃんと茂みや立木があったりして、茂みがない方は空き地が広がり、視界が確保できるので、くつろいでいるように見えるけど、誰が来ても反応できるように危険に備えている。

もちろん、茂みから敵が飛び出してくるかもしれないと言えばそうかもしれないのだが、それでも、茂みを通れば音がするし、パーセンテージでいえば、やっぱり確率としてはそちらから来る確率は低い。それをわかった上でこういう姿勢でいるものですから、表面的にはボーッとしてるかもしれませんが、内面ではちっとも気が休まってない部分もあるんですよ、自然って凄いですよって・・・と思ったんですが、フツーに考えたら年賀状としてはどうでしょう? という感じがしないでもない。

 ただ、自分の中でこの写真をチョイスしたことを分析してみると、私は私なりに考えて生きてるんですよって気持ちがどこかにあるのかもしれません。
 また、この写真自体、切り取り方で相対する人間の心理状態がわかる写真だと思うのですが、最初、私、向かって左側の木の部分を画面の中心よりにするつもりだったんです。そうすることで、背中の憂いは絶つようにしてるんだと伝えたかったというのもあるし、現状として背中ばかり気にしているというのもあるかもしれません。

 これではいかん!

 ・・・と思い、急遽、写真のトリミング位置を変更し、猫が真ん中という、な~んも考えてないような作品ができあがりましたとさ。


 一年の計は元旦にありといいますが、今年の年賀状にそれを盛り込むこともなく、なんだか中途半端な感じになりまして。
 これが新年のスタートかと思うと、結構つまずいた感がありますか・・・ねぇ?
web拍手 by FC2
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。