死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2012.05.26 01:08
信じる、信じない。
それはすべて、自分の問題。
相手が信じられる人かどうかである以前に、
自分の問題。

信じて裏切られるのが怖くて信じられない。それもある。
信じて馬鹿を見るのがイヤで信じられない。それもある。
信じて損をこくのが耐えられなくて信じられない。それもある。

どれもこれも、「信じる」ことができない理由は、自分にある。

だが、「信じる」ことで貴重な人生の時間を棒に振ることもある。

ただ、「棒に振る」ことがイコール、ムダなこととはならないのではないのか?

人生は、ムダと思えることに価値があることだってある。
というよりはむしろ、ムダなことの積み重ねが人生なのだ。

それを避けていたら、人生は拡がらない。
たとえ拡がったとしても、薄っぺらい。

そんな人生を、自分は送りたいのかどうか。


ツラい思い出かもしれないけれども、
思い出すのもキツいかもしれないけれども、
まさに「それ」が今の自分を作っている。

それこそが「事実」であり、
それを乗り越えてきた「事実」こそが、
今の自分を作っているのだ。

そんな自分を、自分自身が愛せなくてどうするというのか。

確かに、自己愛は時として愚かさを生む。
だが、何もしないで愛するのではなく、
愛する必要があって愛することの、一体どこが悪いというのだろう?

傷ついた自分を愛せるのは、自分しかいない。
傷ついた自分を愛してくれる人が、本当に愛ある人ではないのだ。
そんなのは、誰にだって、できることなんだ。
愛情じゃなく、同情でだって、できることなんだ。

愛は、もらうものではない。
つくり出すものなのだ。

信じれば愛が生まれるわけではない。

ただ、
信じなければ愛など生まれるはずもないのだ。
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2012.05.15 01:21
 気がつけば4月はなんと1回しか更新していないことに気づいて愕然としているtkiyotoですよ。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 本日、野菜があるから取りに来いやと親に言われたもんですから、仕事帰りに寄ったんですよね。

 というと、どんなところに暮らしてるのかと思うかもしれませんが、実際には都心部だったりするので、自宅で獲った野菜というわけではなく、親の実家で獲ってきた野菜、というものなんですが。

 その習慣自体は生まれてこの方ずーっとのことなので、それが「当たり前」だと思っていたんですが、スーツ着て、地下鉄で実家によって、野菜取りに行くってシチュエーションを考えると、かなり不思議で可笑しくて。
 ちょっとこれはフツーじゃないなと。

 で、久しぶりに地下鉄から歩いて実家まで行きましたけど、なんつーか、相変わらずなんですけど、新鮮でしたね。夜の8時なのにもう収集所のゴミが山積みになってるとことか、「工夫した名前の」飲食店がつぶれていたり、電話ボックスの中の東南アジア系の女性が大声で喋ってて、子供がヒマしてて中でカンカン叩いてたりとか、相変わらず。

 目の前が墓地で非常に静かな住宅街に暮らしている今のところとは、ホントに、えらい違う。

 しかし、それが我が「実家」のある町の現実だし、「故郷」にはなってしまうという、いかにも「現代」って感じが、なんか新鮮だった。


 さて、実家で、レタスが豊富にあるので振る舞われたのがレタスしゃぶしゃぶなんですが、親の姿を見ていて、「ああ、子供がかわいいんだな」なんて思ってしまいましたよ。

 子供のころからなにげなくというか常に気づいていましたが、子供が満足できるように親は子供が満足するように食べている。子供が食べたいものを優先的に食べさせている。自分が食べるのをやめてまで、子供の食べたい気持ちを満たしてやる。

 ・・・そういったモロモロのことが、「当たり前」と思っていただけでなく、子供心に「幸せな家庭だな」と思っていたのはもちろんなんですが、それでも、改めて、こういう「当たり前」に感謝しないといけないなぁと思いましたよ。


 ことに、他人と暮らしている今のことを考えると、やっぱり、親が子供に持つ愛情というのは特別なもので、そういうのを「当たり前」と思いすぎて、他人にそれを「当たり前」に求めるのは違うよねと。


 また、我が家はどっちかというと貧乏な方ではありますが、幸せな家庭だったんですが、その理由が改めてわかった気がしましたよ。ホントに、「家族」が大事で、お金は二の次だったんだなぁって。

 私は、若干貧乏だったことがコンプレックスというか不満というか、親を楽させてやりたいというのもあって貧乏よりも成功してお金がほしいと思っていましたが、それを追うために、そういった大事なものをおろそかにするのは間違っていると思いながらも、どこか、何かを犠牲にしないとなりたいようになれないんじゃないかとよく思ったりするんですよね。

 でも、やっぱり、「金が目当てなんだ」といじけるような晩年を送るよりも、何が大切かを実感しながら生きられる生活の方がやっぱりいい。いくら、歴史に残る作品を残したくて、そういう人たちのようにならなきゃいけないと思っていても、現実としてそういう選択肢はとれない。
 そういう発想が「小市民」的なのかもしれないし、それで思ったイメージまでいっていない生活レベルを考えると、なにか、憂鬱な気持ちになったりするんですよね、「このままでいいのかな」と。

 ただ、自分の思うイメージには届いていなくても、それに近づいている感があるのなら、あまり卑屈になるのもどうかと思うわけで。近づいていないなら焦らなきゃだけど、多少なりとも近づいていれば、それでいいじゃないか、それを積み重ねていけばいいじゃないか、と「当たり前」に思えるようになりたいのですが、それがまだまだ未熟者でして。


 幸せな家庭を築きながらも、お金も多少多めにあるような生活がしたい

 子供のころのプチ貧乏生活を見ると、相反することを実行するそれも難しいのではないのか? とつい思いがちですが、いや、その両立ができないかを模索しながら生きてきたのが私の人生じゃないかと、ふいに思い返してみたんですよね。

 過去がどうとか、他の人がどうとか、そういう「当たり前」に縛られすぎですよね。

 あくまでも結果論として「当たり前」になっていた方が都合がいいものだけが、「当たり前」であるべきなんですよね、きっと。
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2012.05.06 17:26
ゴールデンウィーク中にこんにちは、更新ペースの悪いtkiyotoですよ。

ただいま一枚千円の五本指ソックスを履いて仕事中ですが、やっぱり値段は値段ですね。履いた瞬間から蒸れない感じがしちゃうとは。

パッと見、布でできてるのは同じなのに、実際には違う・・・まぁ、なんでそうですけれど、十把一絡げで見てちゃ、本質は見えないよねぇと思いましたよ。

忘れがちですけどね。
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