死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2012.09.25 01:10
 テレビを見てて思ったんですよね。

 ホラ、最近のテレビは画面が大きいから、テレビに映ってる人のアップとか、実物大だったり、実物より大きいこともありますよね。
 それ見てて、思ったんですよ。

 テレビって、一種の「窓」なんだなと。

 外の世界と繋がる、窓。

 だから、窓から外を眺めるばっかじゃダメというのもあるけれど、病気の人とか、外に行けない人のためにあるのもテレビの役目で、それが「窓」の役割にも合致する。

 テレビは、人びとが行ったことのない、見たことのないような景色であったり、人生であったりを見せてくれる窓で、考え方としては、ドラえもんのひみつ道具に近いものがある。通り抜けフープとか、どこでもドア的な(いや、テレビの方がドラえもんよりも先だけれども)。

 なんというか、薄型テレビになって、特に「窓」っぽく感じた。
 昔のテレビは「箱」だったから、画質もキレイになった薄型大型テレビは、Windowsなんかよりもよっぽど「窓」っぽいんじゃないかなぁ、とちょっと思った次第でありましたよ。

 だからどうということもないんですが、事件の分析をするワイドショートかも、結局、窓から近所のトラブルを見てるのと同じような感覚なんじゃないかな、と思って。直接関わり合いがないからこそ、好き勝手思えるし好き勝手言えるし、でも、トラブルに巻き込まれたくないから窓を通して傍観するだけ。

 政治のことも、同じじゃないですかね?
 窓から、見てるだけ。

 窓のいいところは、都合が悪くなったら隠れれば外からは見えないということ。
 そんなところも、テレビは「窓」だなって思いますよ。


 よくよく考えると、テレビ、怖い。

 ま、本当は、窓から見ている人間そのものが、怖いんですけどね。
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2012.09.17 00:55
 ダイエー金山店・・・に行ってきましたよ。

 ずいぶん古い建物で、ついに建て替えるとのこと。9月いっぱいは閉店セールで、2014年にリニューアルだそうで。

 なんでも、35年?
 結構長いことやってましたねと。

 子供のころは、6階建ての建物なんかほとんどなくて、ダイエー金山店といえば、1階から自動車に乗ったまま一気に屋上までエレベーターで移動して、屋上を自走して停めるという、不思議な立体駐車場があるんですが、それがもう、なんというか「先進的」な感じがしたんですよね、子供心に(ダイエー金山店の屋上駐車場を知らない人は航空写真でご確認ください。一応、6階建てビルの屋上です。右上が車用エレベーター。ストリートビューから見た方が不思議さがわかるかな?)。

 それが今や、「今時」お客用のエレベーターもない割に、階段は幅広で、高い建物がほとんどなかった当時は斬新だった、街を見下ろせるガラス張りの踊り場もムダに広く、店舗スペースもさほど大きくない、売ってる商品もなんかどことなく物足りない、トキメキの足らないショッピングビルになってしまいました。
 7階部分に相当する屋上駐車場から、乗降する手段は階段のみというのも今となっては逆に斬新ですよね。

 まぁ、周辺にはスーパーがない中での、スーパーのある商業施設なのでやってこられたんだと思いますが、やはり、閉店セールの店内を回っても、なんか、どことなく、「ああ、ダイエーだな」というちょっと残念でもの悲しい感じ。あまり若い人は来ない、来ても親と一緒、みたいな。
 実際、若い人が好む商品が置いてないし、来ないのだろうと思いますけれど。

 栄にあったダイエーの方が利用頻度が高かったので、そちらの方が思い入れがありますが、こちらも知らない店ではないので、閉店になるというと、あそこがなくなったときと、やっぱりどこか似ていますね。「ないと困るかもしれないけれど、絶対必要というわけでもない」というのか。
 モータリゼーションという言葉も死語になるぐらい自家用車が浸透し、郊外型ショッピングセンターの戦国時代も通過した今となっては、逆に、都心部にぽつんと取り残されていた、それこそ「ガラパゴス」な感じが、「ダイエー」らしい。


 そんな「ダイエー」が、どんな新装オープンを見せるのか興味も湧くが、年配が中心のダイエーユーザーを見ている限りあまり大胆なこともできないと思うし。
 ただ、そのままでは建て替える意味もあまりないのも事実なので、なにか、あっと驚くようなものを見たいものだが、それが「ダイエー」に果たしてできるのかどうか? という風に思ってしまうのは私だけではないだろうし、そう思えてしまうのが、なんか、「ダイエー」なんだな、という気がする。

 だからこそ、子供のころよくダイエーを利用した身としては、身につまされる想いにもなる。

 また、完成当初はどんな立派なビルであろうと、先進的な建物が次々生まれる時代の流れには逆らえないし、所詮コンクリート造りのものは「スクラップ&ビルド」の運命にあって、コンクリートガレキになって、それが増える現実も、なんかもの悲しい。でも、35年なら、持った方か。イオンのワンダーシティなんて、15年で壊したから。
 そう考えると、ちゃんとした古民家というのは、凄いなぁと思うが。そこもなんかもの悲しい。


 とはいえ、ノスタルジーに浸っていてもしょうがないので、とりあえず今後の動向を見守るしかないでしょう。

 顧客に寄り添い、「ダイエーブランド」を守ることを重視するか、それとも、今となっては古い「ガラス張りの階段の踊り場」から街を見下ろせるという夢のショッピングセンターを造った「精神」を復興させるのか、どんな青写真を描いているのか興味津々ですけどね、私は。

 そんな「感動」があるといいな、という、昔のダイエーに感動した人間の戯言になるかもしれませんが。
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2012.09.07 00:59
 ひとくちに「体罰」といっても、やっぱり色々と意見はあると思うんですよね。

 やれ、「必要悪」だとか、「なくても育てられる」だとか、そりゃもう、十人いれば十通り、百人いれば百通りの解答があると思うんですよ。でも、行き着くところは「正解はない」ってところになったりして、結局収集つかずに終わってしまう・・・・ってことはないでしょうか? もしくは、結局、持論に落ち着いてしまうか。


 「体罰」で思い出すのは、私の知人が言った言葉ですね。

 「親に殴られたことがない人間は、すごくいい人か、すごくヤな人しかいない」と。
 実際のところ、どうでしょうね? 世の中、そんなカンタンに「○○だから◆◆だ」なんてことばかりじゃないと思いますし。

 ただ、そういうことで性格が決まると言うわけではないと思うのですが、性格の資質、みたいなものは「体罰」についての親の考え方の影響って、凄く大きいと思うんですよね。


 ちなみに、私事で恐縮ですが、我が家は、「体罰禁止」で育てられました。

 その理由は至極カンタンでして、我が父が、自分の父親(つまり私の祖父)に、よく殴られていたから、それがホントにイヤだったから、子供にはそういう想いをさせたくない、とのことからです。とっくに故人ですが、祖父は、空手と柔道の有段者で、軍隊にもいた、それこそ「昭和の人」ですから、そういうことがあったことは理解できるのですが、実際に孫と接している姿からすると、とても想像はできなかった想いがあります。

 やや脱線してしまいましたが、そんなこんなで、父は、「どんなことがあっても手は上げない」と心に誓い、実際に実践してきたワケです。私も、叱られた記憶は多数あれど、殴られた記憶はどうしても思い出すことができないので、やっぱりなかったのでしょう。そもそも、暴力的な行為をされたこと自体、あまりないものですから、そんなことがあればきっと憶えていると思うのですよね。もともとマジメな性格ですし、恨み深い性格ですからね。

 そんなこんなで、幸いにも、そういった「体罰」には遭遇してこなかったんですが、だからというのもあるのでしょうが、やたら「体罰は絶対必要」とか「体罰があったからいけないことがわかった」とか言う意見にはどうも、首をかしげてしまいます。
 別にそれは、「体罰」を用いなくても伝えられるだろうと。そもそも論ですよね。


 だいたい、人が人に暴力をふるう際、その権利と責任の所在はどれだけ明確になっているかということを考えると、結構世の中、雑にできているなと言わざるを得ません。

 たとえば太平洋戦争期の各地の大空襲や原爆投下により、非戦闘員である民間人(女、子供含む)を大量虐殺した「罪」に対していったい誰が責任をとってくれるというのでしょう?

 未だにそれで裁判をしていることもあるというのに。福島原発の件もそうですよ。結局、誰も責任をとりきれない。放射能の責任をとりつづけることなんて、ムリなんですよね。人間の寿命より長いものを。そういった面で私は原発に反対するのですが、それはいわゆる「数の暴力」の最たるものだと思うんですよね。
 はたまた脱線してしまいましたが、「暴力」というのは、こういった「理不尽」さがつきものだと思うんですよ。


 で、テーマの「体罰」についても、「とにかく従え」というのでは、理不尽きわまりないですよね?

 だから、グレたりするんじゃないでしょうか?

 それを、「腐ったリンゴ」だとか言ったところで、今度は言葉の暴力じゃねーかと思うのもムリはないわけで。まぁ、数の論理とか権力でつぶされてしまうこともありますが。

 「暴力」って、大事なのは、受け手がどう感じるか、なんですよね。

 こんなご時世なんて、部下が自分の仕事を否定されるたびことあるごとに上司に「パワハラじゃないのか」と真剣にブツブツ言ってる姿を目撃しますが、あれは逆の暴力ですよね。権力の、恣意的な行為。自分の仕事の責任は上司がとるということをわかっているのでしょうか?

 かたや、子供に対する親の暴力、いわゆる「体罰」はどうなんでしょう?


 そもそも論として、親は子供を育てる義務があると言えばあり、責任を負う立場と言えばそうなんですよね。
 だからこそ、親が子供を「しつける」ことは、非常に理に適ってはいるのですけれど、逆に言うと、それが「社会に対する責任感」であるならば、たぶん、問題としては大きくならないと思うんですよね。「こうこうこういう人間に育つべき」という想いで「しつける」なら、理解はできると。

 ただ、それ抜きの「悪いことしたから」とか、「このままじゃロクな大人にならん」とか、そういうのって、「推測」でしかなくないですか?

 ウソをついたから「罰」
 ごかましたから「罰」
 いい子にしてないから「罰」

 でも、現実問題、大人でもこれをキッチリ守ってると言えば、そんなことないですよね?

 サンタさんがプレゼントを持ってきたとか
 赤ちゃんはおへそから生まれるだとか
 仕事の愚痴ばっかりこぼしたりだとか

 やってません?

 子供が小さい内ならまだしも、小学生になって知恵がつけば、大人の欺瞞なんてすぐ見抜きますからね。そうなればますます逆効果になっちゃいます。

 そういうことを考えると、大人が、自分の言動に責任を持って「しつけ」ているのか、そこが問題になるんじゃないでしょうか?


 誰だって完璧な人間ではありません。

 ですが、このご時世に、「体罰」と呼ばれることをする人間は、自分をそれに近い存在として認識していることが多いように感じます。口ではそんなこと一言も言いませんが、無意識に、自分は「絶対的に正しいものに従って行動している」という、「思い込み」があります。

 そしてその正しさというのが、宗教の戒律に従っているということでもなく、法律の精神に則っているということでもなく、「○○はダメ」とか、「そういうルール」とかみたいな、常識というか慣習であったりと、「実態のないもの」が多いです。

 「実態のないもの」は、文字通り実態はないので、時と場所で変化しますし、都合よく作り替えることも可能なので、それを使うことに対して、責任をとらなくていい代物であります。何せ、形がないから責めようがない。

 ですが、小さな子供は、そんなことを知らない。

 だから、「お前が悪いんだ」と洗脳のようにくり返しくり返し責められ続けるという悪循環に陥ってしまう。「疑う」ことを知らないし、「疑う」ことを、親から教えられないのです

 これは、不幸ですし、生き抜く上での大事なスキルを教えない、親の怠慢であり、一種の暴力です。


 これと同じことが、DVとか、モラハラ配偶者とかにも言えます。
 この場合は、「結婚制度」という実態のあるものに、「愛」という「実態のないもの」を巧妙に絡ませることで、自分の有利な方に持っていこうとする支配のテクニックです。「結婚」は愛し合った二人が協力することで、「疑う」ことこそ、もっともよくないことだとされています。

 だから、マジメな人ほど、ちゃんとしてる人ほど、こういうのから抜け出せなくなります。

 そんな状態ではすでに「愛」などないのにも関わらず、それを、「結婚」という実態のあるもので「偽装」しているのです。「一緒にいるから・・・」「一緒になったには理由があるから・・・」「子供がいるから・・・」と。


 このご時世の、子供への「体罰」もそうだし、大人への「DV」もそうですが、両者に共通していることは、行使者は、「実態のないもの」を、まるで「聖典」であるかのように思い込んでいることです

 なんでそこまで思い込めるのかというのは、ひとつに、自分自身の考えとマッチする部分があるということもあるでしょうし、ひとつに、そうすることで、「自分の責任」を考えなくていい、という非常に利己的な考えがあるからでしょう。

 だから、責任を取れない人間のする「しつけ」は、すべて「体罰」であると私は思うのです。

 だって、そんな人が、子供の未来に責任をとれるのでしょうか? 「しつけ」は子供の未来に対しての親の「責任」です。ですからそこに、慣習とか、世間とか、関係ないでしょう? 大事なのは、親が想像する「未来」に対しての、子供に与えておくべき「生きるためのスキル」を身につけさせることが、本当の「しつけ」であるはずです。

 あくまでも「未来」だから、親の考えが百パーセント正しいということはないかもしれません。
 でも、間違っていた部分や足りないものは、本人が補完していくものなのです。子供だって大きくなれば、親だって完璧な人間じゃないとわかります。その時に、親が必死になって「親としての責任」を果たそうとしたかが、結果となって返ってきます。
 「老人ホームに入れられて一人」みたいな人も、世の中にはたくさんいますから。


 もちろん、体罰やDVの行使者は、そういった「実態のないもの」を疑う習慣を親から授けられなかった哀れな人たちと言えばそうなんですが、だからこそ、虐待は連鎖するとも言えます。

 行為に対しての正義の有無は、人道的見地とか、子供にとっての影響とか、そんなんではなく、「だって正しいんだもん」という、思い込みに支えられているからです。ですから、止めようがない。

 「実態のないもの」を疑うことを知らないから。
 他人だけを疑い、自分を疑うことを知らないから。



 以上のことを踏まえれば、「しつけと言われたらしょうがない」とはならないのではないでしょうか?

 もちろん、その親がどんな思考プロセスで「しつけ」を行ったか、当事者にはわからないかもしれません。でも、「想像」しようと思えばできるのではないでしょうか?

 たとえば、ゴミの分別もできない人が、子供のささいなウソに対して「しつけておかないと、ロクな大人にならない」なんて言って体罰を行ったとして、「しつけならしょうがない」なんて言えますかね?

 「しつけ」という、「実態のないもの」を疑う必要、ありません?


 現場の人間が、そこをわかっていないとは到底思えません。

 でも、それを理由に親に制限をかけられるほどの仕組み作りが、まだまだできているとは言えないのが現状でしょう。行政職員に、それだけの権力が与えられていないのです。警察が協力しなければ、家にすら入れない。しかし、いじめ問題もそうですが、警察が介入すると、かなり大ごとになる。

 そのベースには、家庭内でも、学校内でも「自治」があり、尊重すべきという考え方があるからだと思うが、だからこそ、「しつけと言われたらしょうがない」とか、「イジメを把握できなかった」とか、ブラックボックス化したものに手が出せなくなっている。いや、そうしている、というのが正解か。

 だからといって、強硬的にやるべし、という極論もどうかと思うが、「自治が成立してないから、児童虐待もあるし、イジメによる自殺もある」という、「実態のあるもの」を重視するのは大切なことだと思う。


 「しつけと言われたらしょうがない」って言葉は、究極的に「実態のないもの」ですからね

 そんなもの議論したって、答えは出ませんよ。

 イジメをどうなくすかも然り、です。
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2012.09.03 01:09
 「伝説を作る」

 と言う若い社員がいるところも、最近はどうだろう?いる方が珍しい、なんてところも多いのかもしれない。なにせ、上昇志向じゃない若者が多いらしいので・・・実際にはいなくならないとは思うんだけど。

 で、今回は実際に「俺らで伝説を作ろうぜ」と言っている人がいた、というお話だが、それを飲み会の席でちゃかされているのを聞いた、さらに上の方の上司は、「気持ちは買うけど、あんまり人前では言わん方がいいな」と言っていた。

 確かに、「伝説を作る」と自分で言っているのはなんか、若いというか、青いというか、恥ずかしいというか、おかしいというか、妙な感じがするのも事実だと思う。実際、気持ちだけから回りするケースも多々あるし。
 上司も色んな人を見てきているので、それを踏まえて忠告していたのだと思う。


 これは私個人の考え方かもしれないが、伝説というのはそもそも、意図して作ったりするものではなくて、「なる」ものだと考えている。なぜそう思うのかというのは、私がいろんな仕事をしてきて実際に「伝説として残る」と言われてきたから、というただそれだけのことだからだ。

 私自身、仕事をしながら「伝説を残してやる」なんて思って仕事はしていない。

 ただ、やるべきことをやっているだけだと思っている。
 他の人と違うのは、「やるべきことかもしれないけれどやれない」というのをできるだけ排除することだと思う。つまり、誰もやりたがらないことでもやるということだ。しかも当然のように。

 これは、実は凄く、カンタンなことだと思う。
 カンタンじゃないのは、そのために払う犠牲がある、ということだけだ。それは、時間であったり、体力であったり、精神力であったり、時にはお金であったり・・・・他のものに使えた何か。

 多くの人は、その犠牲(投資と言ってもいいのかもしれない)を払わない。それよりも、「自分の」生活がよくなることを望むからだろう。「仕事に必死になっても給料が上がるわけでもないし」とか、「自分の将来にとってプラスになるとは思えない」とか、「仕事に人生かけるなんて無意味」とか、できない理由を探す。

 だが、それではとうてい「伝説」など作ることはできない。

 誰もができることは、「伝説」とは言わない。
 誰もやれないことをやるから、「伝説」なのだ。


 だからといって、たとえばゴミ回収をする人が伝説になるかと言ったら、ならない。
 それは、「イメージが汚い」とか「下の人がする仕事だから」ということではなく、あくまでも、その仕事に対して(見合うか見合わないかは別として)きちんとした給料が支払われているからだろう。その中で、決められたことをする・・・それでは伝説にはならない。

 でも、たとえばゴミ収集であっても、めんどくさそうにゴミを回収して収集車に放り投げたりするのではなく、道行く人に「ご迷惑おかけします!」と元気に声をかけたり、大阪市で問題になっている金髪にタトゥーではなく、清潔感漂う姿だったりしながら、なおかつ、誰よりも丁寧で素早くきちんとした仕事を手早くする・・・・そういう人であれば「伝説」にはなるのではなかろうか?

 「そんなん現実見てねーよ!」という声も上がるとは思うが、そういう人を黙らせることができる人が、「伝説の人」になるのだ。伝説になる人は「現実」に負けたりしない。現実に負けた自分を省みずに人に自分の価値観を押しつけたりはしない

 伝説を作るのは、才能でもなんでもなく、ダメかもしれないが、ダメになるまでやってみよう、という「可能性」にかけることのできる人なのではないのかな、と私は思う。もちろん、その人にとっては努力ではないかもしれないが、周りの人からしたらものすごい努力をしているものだ。

 「伝説のゴミ回収人」も、これはあくまでもフィクションだが、フツーに考えたら、清潔感たっぷりでやれるハズがない。だが、ゴミ回収の地位を高めようと清潔感を意識して身なりを気をつけたり、ゴミをいい加減に出してカラスなどに物色されないように、地域の人たちのポジティブな行動を促すために挨拶をしたりと、ムダに見えるかもしれないが、見えない努力をしているかもしれない。

 そういったバックボーンがなければ、伝説などとうてい作れるはずもないだろう。

 「伝説」とは、高い目的意識によって支えられているものなのだ。


 もちろん、気持ちとして、「伝説を作ってやる」ぐらいの気概は必要だと思うが、でも、その基準が、「自分がやれば変えられる」という「空想」に近いものであれば、それはきっとうまくいかない。
 なぜなら、なぜ、それまで誰も手をつけなかったのか、という「現実」にフォーカスしていないから。

 実際には、多くの人が試みてみたけれどダメだった、ということもサラリーマン社会にはよくあることだ。
 理想通りになればうまくいくなんて、そんなにうまい具合に会社とはできていない。そういう調整能力がサラリーマンには求められることで、会社と「戦う」ことよりも、「うまくやっていくこと」の方が大事になっていくことが怏々として存在する。特に大きな企業になればなるほど、旧態依然の組織体制であればあるほど、そうなりやすい。

 その中で「革命を起こそう」とか「伝説を作ってやろう」とかってのは、「若気の至り」以外のなにものでもない・・・と扱われても当然だ。
 それが、上司の、水を差す一言になったのだと思う。もちろん、そんな上司になりたくない、と思う気持ちもわからんでもないが、そういう気持ちだけでは変えられない。


 それよりも大事なのは、「行動」だと思うし、その行動を支える「信念」といったものだろう。

 行動するから、信念に基づいて行動するから、その結果が、生半可な気持ちでやっている人と違うから、「伝説」となる。フツーの人は、それができないからだ。フツーの人は、それができないから、できる人のことを「伝説」と認めざるを得ないのだ。


 「伝説を作りたい」
 そう思うならば、自身の行動が常識内に収まっていないか、一度考えてみた方がいいと思う。

 伝説は、誰もが伝説だと思うからこそ伝説なのだ。「思ってもらおう」というものではない。

 結果こそが「伝説」であり、結果が伴わなければ、ただの夢物語だ。


 伝説としての評価は、その人が行った「結果」だけではなく、高遠な理想を追い求める「プロセス」そのものを指すことも多い。
 でもそれは、イコール「プロセスを評価しよう」ということではなく、実現できないハズの理想に近づくという、誰にも想像だにしなかったことをやってのけたからに他ならない。「頑張ってるんだからプロセスを評価しろ」などとブーたれる、学校に帰れと言いたくなるようなガキとは、次元が違う。

 他の人が見ることができなかったものを見せてくれるから、「伝説」になるのだ。単なる結果ではなく、「高い理想に近づくプロセスという結果」こそが、伝説となる。


 だから、「伝説」とは目指すべきものではなく、「なる」もの、ということだ。

 少なくとも私は、そう思う。
 
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2012.09.01 00:59
 元町夏央のマンガ、『蜜の味』を読みましたよ。

 なんて書くと、去年放送されたドラマを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、まったく関係ございませんのであしらず。

 ただ、非常にタイミング悪かったですね。同時期に同タイトルのドラマをやるとは・・・個人的にはこちらのマンガの方がすんなり落ちましたけどね、何度読んでも「確かに蜜の味だな」と思うし、読むたびに違った「蜜の味」を発見するというか。


 このマンガは、「市橋ミツカ」と呼ばれる主人公を取り巻く人たちの主観で描かれている短編です。

 まぁ、カンタンに言ってしまえば、よくいる「かわいいけど魔性」という女を語るストーリーなのだけれど、描き方がエグい。

笑顔で「子ども産むわけないじゃん」とか
彼氏が死んでも笑ってしまうとか(ネタバレのため反転)
人を文字通り踏みつけて笑顔とか
自分の結婚式ぶち壊すの楽しみにするとか

 まぁ、文章にすると世の「とんでもない悪女」にくらべるとかわいいもんじゃん? と思えるものだが、「でも、こういう女、いるよね」って納得できちゃうのが、一番エグい。

 なんというか、「しょせんお話の中じゃん?」みたいに言えない、リアルさがある(リアリティでなく)。


 風俗系ライター酒井あゆみが、女性の堕胎についてインタビューした本『堕ろすとき』の作中にもあったんだけど、たいがいの女性は堕胎について真剣に悩み、苦しむものだが、中には、堕ろしたことに対しての感性が一般と違いすぎて「女としてあり得ない」という人も登場した。それは、酒井あゆみ自身が堕胎経験があって、それについて思うところがあり書いているから「あり得ない」と感じたんだろう。

 ちなみにここであえて「風俗系ライター」と私の嫌いなカテゴライズした書き方をしたのは、一般男性が抱く「風俗女は堕胎をなんとも思ってない」という偏ったイメージがあるため。「堕胎」は男が思っている以上に多いし、男が思っている以上に、女は傷ついている(そして考えている)ものです。
 それがこの本を読む意義だと思うのでこういう書き方をさせていただきました。

 ただし、彼女の本は、恐ろしいまでにどれもこれも限りなく主観的であるため、堕胎をなんとも思ってない人の掘り下げがじゅうぶんできてはいないんですよね。「受け入れられない」と感情的になりすぎて客観的に描けてないので、非常に読みづらい。まぁ、これは彼女の作風ではあるのだが。


 ・・・と、話がそれた感もあるが、この、『蜜の味』では、それについて深く書いてはいないんだけど、この一冊を読むだけで、さらっと笑顔で「堕ろしたよ」と、そう言えてしまう女の心理がリアルに読み取れるのが、凄いところだと思う。

 「コイツなら言いかねんな」と。

 ここの描き方は、女性ならではかな、とも思う。

 すごくささいなことなんだけど、男性作家の描く悪女の堕胎とは違ったものを感じる。
 男性の描くそれはあくまでも母性のなさを表現する「演出」や「小道具」だけど、元町夏央の描くそれは、「そのキャラの自然な行動」、もっといえば「こういう女なら当然するだろう(男が気づかないだけで)」くらいな描き方。
 なのに、周りの人間(ほぼ男、特に真面目で優しい男)は、気づいてすらいない。歳のいった男でさえ。

 なんか、人として女として「それはないだろう」という気持ちが普通は働くのに、彼女ミツカには働かない。
 男にわかりやすく言うなら、DVがそんな感じだろうか? その選択肢もなくはないかもしれないけど、選ばんだろうと、「まとも」なら。

 だからか、男が客観的に読む方が案外、すんなり読めるんじゃないかな、と思った。「なるほど、こういう女だったのか」と。
 女が読むと、「共感できない!」という人が多そうで読者を選ぶ気はする。もしくは、「いるいる、こういう女(ここまでひどくないかもしれないけど)。でも私嫌い」的な。

 もちろん、女性として、ここは共感できるけどここはできないとか、ここまでやれちゃうのはある意味すごいとか、そういった肯定的な見方をする人もいるだろうからなんとも言えないが、少なくとも、「これ、おもしろいよ」と勧めても、万人が「面白かった」とは言わない作品だろうとは思う。

 岡崎京子とか、内田春菊っぽい立ち位置・・・というか、彼女ら作品の載る雑誌なのね、激しく了解。しかも、岡崎京子にいたっては、映画で有名になった『へルタースケルター』を掲載してた雑誌ね。


 この『蜜の味』は、そんな編集部の制作方針も合致した作品とも言えるワケで、「市橋ミツカ」と呼ばれる、人を惹きつけてやまない「蜜」に群がった人たちの目から見た「ミツカ(だからミツカなんだろう)」であったり、ミツカ自身が惹きつけられてやまない「かわいさ」とか「ちやほや感」とかの「女の子」という「密」であったり、ここで描かれるすべてのことが、「蜜の味」だな、と感じたワケです。

 あきらかにひどい女であるにも関わらず惹きつけられてしまうのを「単なる魅力」として描くだけでなく、惹きつけられる側の、好奇心とか憧憬とか後悔とか欲望とか、一種のエゴから来る感情をものとして「蜜の味」という言葉のネガティブなイメージも踏まえた上で描かれているのもポイント。

 その最たるものが、本編の主人公とも言える「喜多ユウキ」のエピソードであり、「ひどい女だとは思うが、それ以上に魅力的なので、近づきたい」という想いが子供の頃は果たせなかったからこそ、ミツカの誘惑に負けてしまう・・・といったものになる。

 それは「マジメでいいやつ」でもじゅうぶん考える、人として自然な発想で、というかむしろそういう人ほど憧れが大きくなってしまう、というあたりがとってもリアル。
 そう、そういう人ほど、こういう女にはまってしまうのよ。赤星陽一とか佐藤文哉みたいな遊んでる人間には、「蜜の味」を楽しむところがあるが、喜多ユウキにはそれがない。だからこそ、惹きつけられつづけ、大人になってしまったから、憧憬が大きくなり、子どもの頃できなかったが大人になってできるようになった、キスしたりセックスしたりしたくなるという衝動を抑えられなくなる。それが意味を持つものだと信じて・・・。


 「悪女もの」は、「処刑」されない限り、結構読後感がザラついた感覚のまま終わるものも結構あると私は思うのだが、この作品に関していえば、彼女が別に「処刑」されるわけでもなく、むしろ主人公の心の中で「さわやかな別れ」をされることで、淡々とした形で終わっている。

 それはたぶん、すごく「客観的に」悪女を描けている、ということなんだろうと思う。
 感情移入したり拒否したりとかでもなく、「そこらへんにいそうな悪女を描いたみた」的な。それがまさに「蜜の味」であって、それはなくなりはせず、次から次へと人を惹きつけていくのだ、と。


 単行本では、ミツカの、実家のエピソードが、プロローグとエピローグとして追加されている。

 ページ数にするとそんなに多くはないが、人を惹きつけてやまないミツカの親が、どこにでもいる、仕事熱心でやさしそうなおっちゃんおばちゃんであり、そして「綺麗と褒められる」娘には似合わない、手づくり弁当屋を営む自営業。
 そしてミツカはそれを手伝わされ、弁当の味見をし、唐揚げの美味さに満足することをくり返すうちに太ったような、美しさを全く意識しない母の姿を見、嫌悪する。

 家族への嫌悪が、結婚や子供への憧れを捨てさせているのは、作中に家族や子供と接するエピソードがないことからもうかがえるが、まじめな彼氏とつきあいながら、セフレに「少女に戻れる」とのたまう姿からも、「結婚式ぶち壊しても楽しいな」とのたまう姿も、彼女自身が、そういった、若いから、美しいから許されてる「蜜の味」をやめきれないことをうまく表現している。ちょうど、表紙の絵のように。

 まともな大人なら、どんなに「蜜」がうまかろうが、それだけ味わいつづけるわけにはいかない。今ある現実を受け止め、未来につながる仕事をするようになる。その中で、なにかをあきらめ、(かっこよくはないかもしれないけど)新しい自分を受け入れていく。その象徴が、ミツカを拒絶したユウキであり、ミツカの両親である。

 だが、ミツカは、今の自分をやめられないのだ。

 美人に生まれ、ちやほやされ、中学生の頃から年上の男を軽々と手玉にとり、自分に都合のいい恋愛ができて、日々を楽しんでいる・・・まさに「蜜の味」。


 もちろんそれでは「家族」なんて持てそうもないが、彼女には、そんなものは必要ないのだ。彼女の心を占めているのは、ラストページにあるように「かわいい自分」。ただそれだけ。

 むしろ、そうじゃないもの、特に両親の姿は、まったく受け入れられないものであり、だからこそ、子供もいらないし、夫となるべき人との信頼感もいらないし、彼氏で物足りない部分はセフレで補えるし、興味が湧けば女とも寝れるし、婚約してようが興味を持ったら喰ってしまう・・・といったことができるのだ。

 その精神的な幼さが大人びた雰囲気の外に出て、それが、人を惹きつけて、同時に、その幼さを一歩離れたところではなく至近距離で見てしまった人間は、離れていく。特に、道徳的に生きている人には、理解できない「幼さ」。
 佐藤文哉が自分の中にあり、なおかつミツカの中に見つけた、そういった幼さに近いものを受け入れようと文哉はミツカと一緒になろうとするが、ミツカはおそらく、そういったことすら考えていないのだろう。目の前のものしか見ていないし、興味がない彼女には。

 そんな、一時の「蜜の味」にしかなれない女が淋しいかどうかは本人にしかわからないが、少なくとも、今の段階では、本人は寂しくもなんともないだろう。表紙絵のように「女の子」という「蜜の味」に一番ハマってるのは、自分自身なのだから。


 そういった意味で、悪女にムカつき、ヘタに「処刑」したり、「大人になった姿」を描いたら駄作に落ちていたと思いますが、キャラクターの性格を変えず自由に動かして、きちんと「蜜の味」というテーマが描けているいい作品ですね。人って、そうそう変わらないですよね。

 万人に勧められるかというと微妙ですが、作品はタイトルやテーマが重要だと思う方(短編好きな方)ならかなり満足するんではないでしょうか?

 あと、「あの娘はやめといた方がいいよ」と言われる、マジメでいい人にも! そんな「蜜の味」の秘密が描かれていますから・・・・まぁ、幻滅しないかぎり、なかなか抜け出せないものではありますが。
 
蜜ノ味 (Feelコミックス)蜜ノ味 (Feelコミックス)
(2012/05/08)
元町 夏央

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