死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2009.03.18 22:21

 仕事中に車で買い物に行ったのですが、その車内で、海援隊(若い人しらねぇだろうなぁ)の『贈る言葉』が流れていました。

 最近だと、FLOWとか、この歌の作詞者であり歌唱者である武田鉄矢と『3年B組金八先生』で共演した上戸彩(試聴あり)が歌ったらしいですけど、私の世代だと、海援隊でもなく、「学校で歌う卒業の歌」が一番すんなり来る。

 たぶん、卒業シーズン(明日は公立小学校の卒業式だ)だし、そんなリスナーからのリクエストだと思うのだが、なんか、久々に聞いていると、「あっ」っと思わせる歌詞があった。

信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つく方がいい
求めないで 優しさなんか
臆病者の 言いわけだから

 今、ストーカーモノに続いて、「モラル・ハラスメント」という、有利な立場を悪用して人を支配しつづける異常な人間の問題を綴った本をいくつか読んでいるのだが、なんちゅーか、まさに、これだね。奴らにないのは。

 モラルハラッサーはたいがい、「お前は優しくない」だのなんだのと言って相手を責めたりしながら、しかも自分は「常に」被害者なのだという風にして相手を責める。
 自分は責めているのに、その行為に「正義」という大義名分をつけて、相手の心理を圧迫し、(特にそういう闘争に弱い女性が)その支配から逃れる力を失わせてしまうわけだ。
 たとえるなら、ナチスの強制収容所で行われた手法とでも言おうか。外ではごく普通の生活をしている人が、実は平気な顔で人を苦しめているなんてことが、現実にある。私の身近にもそんなケースがある。

 そんなワガママな人たちが常に相手に求めるものが、「やさしさ」である。自分が「やさしい」行動はしてんのに、どうしてお前はできないんだと。

 でも、その人たちがする「やさしさ」って上辺だけのもので、中身が伴わないから、それを「返してあげたい」っていう気持ちにならないもんなのよね。

 それがそういう人たちにはわかんなくて、「教科書にこうやって書いてあることやってるのに何が悪いの?」と言わんばかりに、「花を買ってくる」とか「やさしい言葉を『言う』」とか、「俺は奢ってあげたじゃん?」とかアピールする。
 そういうのがダメなワケじゃないんだが(そんなこと言ったら世のほとんどの男は引っかかるよなぁ)、問題なのは、そのTPOと人の心を踏まえない、つまりマニュアル的なやさしさで、相手より自分は優しいんだと錯覚してしまうこと・・・・怖い話だが、現実にある話だ。

 そんな「求める優しさ」の正体は何って、それは人を信じられない臆病な心からだろう。

 「やさしくしてるのに返さないアイツがおかしい」そう思うのは、自分を「間違いない」と信じて、相手を信じられないから。自分が、相手が本来持っている「優しさ」を、プレッシャーを掛けて逆に奪っているという現実を見ない。それにもかかわらず「俺はお前のことを信じていたのに裏切った!」と言ったりしてしまう。それはまさに、『贈る言葉』の歌詞の一節、「信じられぬと嘆く」姿そのものなのではないのか?

・・・・とはいえ、武田鉄矢がそこまで深いことを考えて歌詞を書いたのかはちょっと疑問が残るところだ。なぜなら、実はこの歌、未練たらしい男が自分を慰めるために歌っているような部分がチラホラ見受けられるから。

これから始まる 暮らしの中で
誰かがあなたを 愛するでしょう
だけど私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない

 そう言い切れる自信はどっから来るんだと女性陣は言いたくなるだろうが、まぁ、男は大概こう思ったりするものだ。競争が好きだからね。でも、ホントに深く愛してくれていたらその男にいくよ、たいがいの女は。女の方が男よりもずっと、愛を求めているからね。

 こんなとこはストーカーとかとさほど変わらないのだけれど、その後に続く

遠ざかる影が 人混みに消えた
もう 届かない 贈る言葉 (繰り返し)

 があるから、それは不問にされてきてんだよね。

 好きで好きでしかたがない、でもその、かなわない恋の結末がふられて取り残される自分。でも、そういう経験は誰しもあることだし、この歌もその哀愁感がよいんであって、これで、最後に「でも、いつまでも追いかける」なんてついた日にはゾッとするよね。いやまぁ、先日そんなような歌を取り上げたけれども

 「俺なら絶対幸せにできる」そうやって言うのは自由だが、借金が二千万もある男がそうやってプロポーズして、それに乗っかったら女は本当に幸せになれるだろうか? ほぼ間違いなく幸せにはなれないだろう。

 なぜなら、そこには自分の「理想」しかなく、相手を苦しめるであろう「現実」に対しての配慮がない。配慮がないということは、愛がないということだ。

 なぜなら、それはつまり、相手の未来は愛していないということだから

 二千万の借金があれば取り立ても激しい。それを「一緒に頑張ろう、それが愛じゃないか!なんでお前は協力してくれない?冷たい奴だ!」と言ったところで、それは無責任な男の責任転嫁でしかない。

 

 「あきらめるという愛」それが幅をきかせていた昔の価値観が、この歌詞を作ったのだろうと思う。そして、それは間違っていなかったと私は思う。なぜなら、人は全能ではないのだ。全能の神ゼウスでさえ、完璧な神ではなかった。
 どんなにくやしくても、鼻水垂らすほど泣いても、この、『贈る言葉』のように、あれこれ能書きつけながら自分を納得させても、相手の幸せにとって自分ができることは「潔く身を引くこと」以外の選択肢はないのだ。

 そういう意味で、みっともない姿をさらしたり、自分を情けなく感じたり、自分を納得させるために色々考えたりすることは、自分のためでもあるけれど、でも、相手にとって「重石」にならないように配慮しているその姿そのものが、相手への「愛」にようやく繋がるのではないのだろうか?

 

 「束縛されたい」そんなことを言う人がいるくらい、現代は淋しさに包まれた人間が多い。束縛の先に何があるだろうか? おそらく、成長しない人間という姿であろう。その関係で生じる「愛」に未来があると言えるのだろうか?

 単なる「ずっと好きだよ」は、「愛してる」とは違う。なぜなら「好き」は自分の気持ちだけであり、「愛している」はそれとは違うはずだ。たとえばあなたがストーカーに「好き」と言われて「嫌だな」と思っても、相手が「好き」だと思う感情は理解できるだろう。でも、同じように「愛してる」と言われても、あなたはきっと「愛されてる」とは思わないはずだ。

 それは、「好き」は物に対しても使う言葉だから、対象の意志は関係ないとあなた自身が知っているからだ。だから、ストーカーの「好き」は理解できても、「愛してる」という気持ちはわからないだろう。それはつまり、「愛してる」は「好き」の最上級ではないということだ。

 愛するということは、覚悟であり、自分の人生を相手に「捧げる」ものではなかろうか? 相手のために進んで苦しみを背負うことができること、それが愛なんじゃないだろうか?

  『贈る言葉』のふられ男(武田鉄矢本人がモデルだと思う)は、ふられて、でもそこで相手を恨まずにそれを乗り越えようとしたときにやっと、相手を本当の意味で愛せたんじゃないだろうか? だから、多くの人の心に今も届く歌になってるんじゃないだろうか? ここには「愛」があるから。

 

 ・・・・・まぁ、モラルハラッサーにそんなこと言ったところで、「俺はやっている!」「十分捧げてきた!」とか言うんだろうけどね。

 でも、実際は何も捨ててないんだよ、自分が「捨てたくないモノ」をホントに捨てたことはきっと、一度もないと思う。試しに一度、その人が捨てたくないモノを捨ててみればいい。烈火の如く怒るから。まぁ、それができない人のいい人が、モラルハラッサーの罠に捕まるんだろうけど。

 自分は相手のものをいくらでも捨てさせようとするのに・・・・友人関係、職場での立場、人間としてのプライド、お腹の中の子ども、大切な想い出の品・・・「あきらめない愛」の正体は、自分は何もあきらめたくないという、幼児的な心理が根底にあるのかもしれない。

 さらに困ったことに、そういう人は、そうやって「自分のモノを何一つ捨てないでいさせてくれる」ことが愛だと思ってさえいる

 だから、自分も「愛されてる」と感じて、離れようとしない「俺たちは愛し合ってるじゃないか、なぜ別れようなんて言うんだ?」と。ちなみに実話である。かなりキモイが。なぜって、「捨てる」ってことは、殻を破ることであり、そういうことをしていないから、外見は大人なのに中身は子どもだから。

 男女が愛を育み合うということは、何かをお互い捨てなければいけない。もともと共通点のない、赤の他人なのだから。でも、だからこそ、新しい価値を得られるのではないだろうか? 一人では手が届かなかったものを手に入れられるのではないだろうか? 愛とはそういうものではないのか?

人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから

 『贈る言葉』でふられた主人公は、ふられることで、自分が「胸に秘めた片想い」でいたままでは得られなかった感情をもらった。実際に、悲しみが多いほど人にやさしくできるとは限らない。逆のことだってある。でも、そうやって思えれば、この先つらいことがあっても、頑張れる。

 だから、自分がいちばん愛したのにとしみったれたことをいいながらも、相手のことを恨まずに、逆によかったとすら思ってる。自分で自分の殻を破った、つまり、古い自分を「卒業」したのだ

 そこには、二人が交わるための「愛」はないかもしれない。でも、この、ふられても相手を責めない相手への想いが「愛」なのは真実なんじゃなかろうか? 明日は公立小学校の卒業式である。そこにどんな愛があるか、見てみたいものである。親の愛、教師の愛、隣人愛・・・・愛はいたるところにあるはずだ。この、世知辛い世の中にも。

信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つく方がいい
求めないで 優しさなんか
臆病者の 言いわけだから

 人を信じられない人が、ストーカーとかモラルハラッサーになるんだろうね。自分以外、誰も信じていないから、相手も信じない。

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