死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2009.08.18 21:17

 く、首が痛い・・・・と言って早どれぐらい経つだろうか?

 とりあえず人間、なんでも人のせいにしたがるものだから、やれ椅子のせいだとか枕のせいだとか布団のせいだとかディスプレイのせいだとかメガネのせいだとかにして、色々買ったりしたけれども、そうしていても、「なんか合わない」「調子が悪い」と結局医者の世話になる・・・・しかも、プロスポーツ選手ほど酷使してるわけでもないのにもかかわらずだ。

 この問題の本質はなんだろうか?

 いつも痛みにかまけてまったく考えたことはなかったが、今日はちょっと真面目に考えてみた。というか、考えざるを得ないとも思った出来事があったからだ。

 以前、職場の上司に、誰でも知ってるようなスポーツ選手が多く通う腕のいい整体を教えられた。その時は「遠いから」とやめておいたのだが、この度そこから車で行けるぐらいのところに引っ越してきてた。

 「これは行くしかない!」とみなさん考えるだろうが、どうも私は躊躇してしまう。なぜって、そんなとこに行くほど自分は悪くないんじゃないかという想いがあるからだ。私なんかのような症状で、その先生の手を煩わせてはいけないのではないか、という想いもある。

 「そんなの気にしすぎだろ」という声もあるだろう。たしかにそうだ。
 しかし私は、にもかかわらず、本当に行って大丈夫なのかいう不安がなくならないものだから、Googleでさえ雀の涙ほどしかヒットしない幻の医院の情報を集めたりする。

 そんなことする人はそもそも行かない方がいい気もするが、それはさておき、そうやって調べている内に、そこに通うスポーツ選手がそこの先生と交した会話が載っていた。それを読んでいて目からウロコが落ちた。

 

 その医院は、電話帳にすら載っていない。電話帳に載っていないということは、最近バカみたいに検索エンジンに引っかかる「口コミのまったくない口コミサイト」に載ることもない。むしろ、載せないようにすらしている。やたらとその存在を明るみに出してもらっては困ると言わんばかりだ。

 そんなところだから、今はやりの、割引クーポン券なんてあるわけがない。あるわけないどころか、そんなもの必要ないのだ。

 頼まなくても、日本中から客が来る。紹介が紹介を呼び、トップアスリートたちが自然と集う場所になっている。もちろん、そういう場所だから、ミーハーな客に来てほしくないので、公に宣伝しない。だからこそ、クーポンなんてもってのほかだ。あれは、客が来ないところの苦肉の策だ。

 だからといって、そこの先生がお高くとまっているというわけではない。身元のしっかりした人(えらい人、という意味ではなく、お客さんの紹介でみんなに迷惑かけないような信頼できる人)であれば、普通の人でも同じように(厳しく)診てくれるという。しかも、この医院は予約不可なので、テレビで観たような人も一般人と同じように普通に順番待ちをするという。

 そんな先生とスポーツ選手との会話で、先生が厳しく指導するのは、「基本的なこと」だという。

 基本的なことはどの病院でも指導してくれる。でも、そこの先生が言うとどこが違うようにも感じる。それは、きっと「説得力」のなせる技だろう。数多くの「言い訳の効かない」世界の選手たちの体を診てきて、「差」をわけるのはやはり、「基本」の大切さをわかり、実行しているか否か。

 そういうやりとりを読んだ私は、目からウロコが出るような気分だった。

 なぜか?

 私は、本当は、私の体の不調の「原因」は、長い経験と対策の積み重ねの中で、わかっているからだ。わかっているからこそ、それと「真剣に」向き合っていない自分がいることに気づかされたのだ。その、「原因の本質」とでも言おうものに。

 首が痛いのは、首が無理な体勢をしているからに他ならない。

 それは、どんな時にでもそうで、その積み重ねが来ているのだし、その「対策」が付け焼き刃的なモノで、その負担に見合うものではないことを、私は潜在的に気づいてはいたけれど、見ようとしていなかったのだ。

 たとえば、パソコンをやりながら頭がディスプレイに近づいていくのは、視力のせいではなく、それまで問題なくできてきたことが出来なくなっている=首の筋肉が疲労して重い頭を支えられなくなって来ているからだ。
 もちろん、眼と繋がっている筋肉の疲労も関係するが、そういったことは、ブルーベリーを飲んだからといって解決することではない。首を支える筋力と、それを維持するエネルギー(栄養素)、集中力(意志)の欠如によるものだ。

 その、「原因の本質」を忘れて、一休みするとかマッサージするとかあれこれ対策しようが、「臭いモノに蓋」同様、一過性の効果しかないのも当然だ。自分に対して厳しく言うのも変だが、パソコンのディスプレイを見続ける資格が、私の体にはないのだ

 その先生は、そういうことをわかっているのだ。だからきっと、厳しく言うのだろう。そして、一番大事なのは、患者がその「症状」に対してどれだけ真剣に向き合う気があるのか問うているのだろう、自分の体を治すのは、自分以外に他ならないのだ

 

 いくら名医がいい手術をしようが、生きる気力のない患者にはなんの意味もないのと同じことで、我々はそういうことを「頭では」理解しているが、そういったことを本気で「考える」ことは、生きるか死ぬかの状況でもないかぎり、しないものだ。

 スポーツ選手にとって、その怪我が治るか否かというのは、それこそ生死を分かつような大事な分水嶺なのだろう。その時に、その「原因の本質」と真剣に向き合って、自分で原因を取り除いていった人たちが、結果を残していく。この先生は、そういう姿を間近で見てきたのだろうし、そういう経験がきっと自身にもあったのだろう。

 だからこそ、それが時として「厳しい言葉」になるのだけれど、それは、相手の未来への愛情の裏返しでもあるのだろう。

 

 そういうことに「気づく」と、私なんかが安易にその先生にお世話になるのは違うんじゃないか、という気持ちになったことも理解できる。

 私は、そのスポーツ選手たちほど真剣にやっていないんじゃないかという、自身のうしろめたさと自己評価の低さを持っていた。それは、端から見てどうなのかは知らないが、少なくとも私にとっては、血がにじむほどの覚悟があってしているかと言えば、そうではないからだ。もっと、もっとやれたはず、という想いが常にあった。

 だからこそ、安易にそこに「頼る」自分が、怪我をしながらそれに耐えて仕事をしているスポーツ選手と比較した場合、そこに行くのに「ふさわしくない」と思えたのだろう。

 別にそれは、私の単なる「考えすぎ」なのだけれど、だからと言って、こう言うことに気づいた今、安易にその先生のお世話になるよりもまず、自分がまず精一杯、真剣にやるのが先だと私は思う。それでもダメなら頼る・・・・というのが、本当の「患者」としてのあるべき姿なのではないのかな? とも思えてきた。

 忙しい先生の手を、アホなことで煩わせてはいけないと思う。そういう発想が、今の患者には欠如しているんじゃないのかな、と思うときもままあるしね。それが、惰性の医者を生むことにも繋がって・・・。

 

 もちろん、こんなことを考える人間なんてごくわずかなんだろうけども、「言われなきゃやらない」じゃ、今まであれこれ対策をしてきた時間がムダになってしまう。自分にできること、そして効果があることは、やるべきじゃなかろうか?

 それは特に、人の生活として「基本的なこと」を守ることであり、今までなんらかの理由をつけてやってこなかったことでもあるからだ。

 まずはそこから始めなきゃ、いけない。困ったときに誰かが助けてくれるって思ってるような人間にはなりたくないから。

 

 そんなわけで今日は、少しばかり外をウォーキングしてみようと思う。やれることからやる、それが、人の生き方の基本だ、きっと。

 「心配とは行動の不足から起こる」と言ったのは野村監督だそうだが、「頼る」のは行動の中でも最後にあるものだということを忘れちゃいけないよね。物や人に頼る前に、自分の限界に挑戦しろと。

 ・・・・・で、その医者どこだよって安易に質問してくる人がいるのも世の中だけどね。だからこそ、その医院は、姿を隠しているんだろうね。それは、先生の哲学によるものだから。

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