死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2010.01.16 19:59

 こんにちは! 気がついたら今月も半分が終わったというのに4件しか記事を書いていないtkiyotoですよ(←ひでえな)。

 しかし、あれですよね、よく続いていると捉えるか、それともサボっていると捉えるか難しいところですが、個人的に、よく続いてるなぁ・・・・とは思います。

 まぁ、辞める理由がどこにもないだけなんですが、何年ですか? 10年ですか? 数えたわけではありませんが、3000ぐらいの記事は書いているんでしょうね。

 

 なんでしょうね? 長続きの秘訣は。

 長く続けるってことはそういうことだと思うんですが、基本的に「好き」という感情がなければ続かないというのはやっぱり、イチローや松井が言うまでもなく真実なんでしょうね。私も、こうやって好き勝手放言するのは大好きです。

 特にこのブログはお金をもらってやっているわけではないので、責任がほとんどないわけじゃないですか。

 私なんかは、よほどの資産家でもない限り「お金=その人の人生の一部」と考えているので、もしお金をもらってこれを書くとなると、こんな長いこと毎日に近いペースで書けるのかどうか、怪しいところです。そのお金に見合う以上の仕事をしなければいけませんからね。

 いやまぁ、本来は「それが出来なきゃダメだろう」とそのエクササイズの意味あいを含めて始めてるので、そんなことを言っていても本当はダメなんですけど、そういう考え方が、この10年を支えているのかもしれませんね。たまに忘れてる時がありますが。

 そう考えると、長く続けることの要点として言えば、「好き」の度合いの問題かもしれませんね。

 単なる手に入れたい種の「好き」ならきっと、長続きしないと思うんですよ。だって、手に入れたら終わりですからね。でも、そうじゃない、もっと長く「好き」でいられるものって、もう一つの要素がいると思うんですよね。

 今日、ディスプレイに向かっていて、例によって肩が張ってきたので、休憩しようとしたんです。休憩って、悩みますよね。寝ころがるか、それともイスに座るのかとか。とにかく目とか肩を休めなきゃならない。そう考えてマッサージチェアに座り紅茶でも飲むことにしましたが、なんか物寂しい。

 それで、先日録画しておいた、みのもんたがナビゲーターを務める、小室哲哉が事件を振り返る、みたいな番組を観たときのことを思いだして、久々に聴いてみるかとTM NETWORK『EXPO』(正確にはTMN )をかけてみたわけですよ。

 もう、なんて言うんでしょうね? やっぱり、今聞いてもノッちゃいますね。あの頃の記憶が甦る・・・というわけではないですが、自分にとって心地よい音楽で、私個人は、今聞いても古いと感じない。
 感じないだけかもしれませんが、プロデューサーtetsuya komuroで売り出していた曲は想い出としてしか楽しめない曲が多いですが、「売上のこと忘れてるだろ?」と突っ込みたくなるような、新しいことへ挑戦する意欲が溢れているTMの曲を聴くと、「これだよな」と思わず気持ちが高ぶります。

 根本的に「ずっと好き」なんでしょうね。だから、今聴いても、同じ気持ちでいられる。懐メロのようにあの頃の気持ちに戻って・・・というのではなく、自分の血肉のひとつとしてなっていることを認識するというか。

 そこにはある種の「敬意」があるんですよね。今の自分を成り立たせていてくれることに対する。

 何かを追求し、愛しつづけることというのは、たぶん、自分の「モノにしたい」という気持ちからは絶対生まれないんでしょう。それは単なる所有「欲」であり、そういう感情にとらわれていると「想い出を汚された」なんて思うんでしょう。自分のものですから。

 でも、その「好き」っていうのは、長続きしない「好き」でしょうね。本当の「好き」っていうのは、もっともっと追究したい、もっともっと愛し抜きたいという気持ちが、それを支えているんじゃないでしょうか?

 イチローや松井が、「野球を好きでいること」が上手くなる絶対条件だと言うのは、そういう気持ちがあるからこそ、技術を高めていくモチベーションにつながるとよく知っているからでしょう。

 それは単なる「野球自体は好き」という好きではなく、もっと、「野球で上達するのが好き」とか「ゲームに勝つのが好き」とか「いいプレーで魅了できたときが好き」とかいう、野球というものの楽しさの「ふところの広さ」に対しての敬意があるからこその、「好き」なんだと思います。

 決して、自分が一番になるためだけの「好き」や、お金のためだけの「好き」なら、モチベーションが続かないと思うんです。続くと思ってる人が多いですけど、実際は続かない。才能があって期待されながらも、結果を残せず凋落をする人は、まさにその典型例です。「好き」が違うんです。

 

 私がこうやって、書くことを10年続けてきたのもきっと、「何か」そういった部分があるんでしょう、書くことに対する何か。

 私は、今も昔もいわゆる「活字」が好きではありません。極力避けたいタチです。ですが、読みます。書きます。読まなければならないと思うし、書かなければならないと思います。

 それはきっと、「文」や「言葉」そのものに対する、敬意みたいなものがあるのかもしれませんね。人の人生に「何か」をもたらすことができる手段だという。
 「活字が好き」とは根本的に違う何か――きっとそれは、私自身、活字が好きではないからこそ、なおさら敬意を持つのでしょう。絶対に意味がある、と。

 その気持ちがあり続ける以上、私は書くことをやめないでしょう。

 なぜなら、私の書いた文が、他の人にもそうですが、私そのものを支えてくれることも、あるのですから。世の中への興味や、私自身の願望が書く動機がそれを支えているのはもちろんですが、私が書いた文でも、「書かせてくれた」のは私だけじゃない。

 そのことへの敬意が、書くことを「好き」にさせ、長続きさせているのかもしれません。

 「好きなだけじゃ続かないけど、好きがなきゃ続かない」

 その言葉の本質は、「好き」のなり方の違いなんじゃないんですかね。何事にも言えることですが、長続きする「好き」と、長続きしない「好き」は、やっぱり何か違うもんです。
 だから薄っぺらいものを長く愛しつづけることができないんでしょうね。

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