死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2010.02.01 22:31

 ブログタイトルを、変えました。

 昨日「いつか変える」と言っておいて即日で恐縮ですが、天使が降りてきたので・・・・・そんなに煮詰めたんか?と問われそうですが。

 んで、新タイトルが『楽しむぞ2010』という、小学生でも考えつきそうなタイトルではあるので、昨日までの『文は人なり "The style is the man."―文は書くものじゃない、書こうとしたものが文になるのだ』なんてインテリチック※なタイトルとえらいギャップがあるんですが、新しいものの方が考えに考えたんですよ? これでも。
※・・・ブログ内では1回も説明していないと思うが、「文は人なり(The style is the man himself.)」はフランスの博物学者ビュフォンの言葉です。

 ちなみに、日記を書き始めのホームページ(とってもきまぐれなページ)時代は『きまぐれな日記』なんてタイトルで、最初はスゲーいいかげんだったんですよね。

 それが、ブログを始めた頃から『欲望の日々 清く正しく美しくも結構な欲望だ』という意味深で誤解されそうなタイトルになったんですが、これ実は、ガマンガマンで中々欲望に忠実に生きられない自分を奮い立たせようとしたタイトルなんですけど、結局、あまり欲望に忠実に生きられなかったんですよね。「ほしがりません、勝つまでは」病にかかってましたんで。

 そんな中で、無理して欲望欲望と自分を追い立てなくても、自分らしく生きてりゃ自然と自分の生き様そのものが形として現れるだろと思ったところもあって、『文は人なり "The style is the man."』ってタイトルにしたんですよね。自分をポジティブに受け入れよう的なね。

 それとこの言葉を選んだわけは、「style」って言葉が好きなんですよね。"You have style(あなたはセンスがある)."って言葉をラジオ英会話で勉強したときのインパクトがありまして。
 日本語の「スタイル」ってのは表象的な「形」しか表現しませんけど、英語のstyleは「尖った書く道具」が語源らしく、ある意味でのとんがった(注:ツッパリではない)感覚というか独自性を表わす意味らしいんです。それは私が心惹かれるものだなと思いましてね。日本語訳と英語訳を同時採用させてもらったわけです(原文はフランス語ですが)。

 そんなわけで3年ほど「文は人なり」でやってきたわけなんですけど、タイトルって、力があるんですよね。知らず知らずの内に、中身や、製作者に影響を及ぼすほどの。

 たとえば、ブログの管理ページに行くのにも、まず、この、トップページに入ります。そうすると、目に飛びこむのは『文は人なり』。自分でカッコつけて選んだはいいものの、自然と、自分の文章を見て自分を見るという行動に走ってしまいがちなんです。
 たとえば、2時間早起き企画をはじめたはいいものの、毎回挫折している自分を見るにつけ(注:今は1時間早起きできてますが)、「自分はダメだなぁ」としか思えないんですよね、文章を読んでると。端的に言うと、「後ろ向き」になりやすいというか。

 きっとそれは多分絶対きっとそうなのかもしれないですれど(なんのこっちゃ)、タイトルが後ろ向きだからじゃないかな、と。

 始めた当初は「俺の生き様をとくと見ておれ!」ってな気分だったわけですけれど、今年はCHANGEの年と決めた際に色々と見直す機会がありまして。んで、そもそも、それがこの日記の目的なのか?とも思いましてね。そうじゃないだろう、と。

 確かに、ネットの日記なんて恥をさらしてナンボのところがあるし、それはそれで人を成長させることもあるのでそれ自体問題があるワケじゃないんですが、それは、「『文は人なり』とも言いますので、自己紹介は致しません」みたいな感じで済ますのが正しい使い方だと思うんですよね。

 まぁ、自分の生き様を見せて世に訴えかける、たとえるなら三島由紀夫みたいな人がつけるタイトルなら『文は人なり』とかでもいいんでしょうけど、私は別に、特別になりたいとか思ってるワケじゃないですからね、そもそも。
 むしろ、「普通」がいい。

 ただ、その「普通」ってのが、「フツー」と違うから周りから変わって見えるだけで、自分の中ではとってもナチュラルに、「普通」に生きてるつもりなんですよね。簡単に言うと、自分に正直に。
 そうしてない方が、そうしてちゃ生きられないという方が、おかしいと思いますもん、私。「逆でしょ?」って思うから。

 自分に正直に生きるのが難しいって世の中ですけれども、だからこそ、自分に正直に生きるために、勉強したり努力したりするんじゃないの?って思うんですよね。

 「フツー」は「しなきゃいけない」からするらしいんですけどね。

 まぁ、かといって私も「しなきゃいけない」ことに縛られてるという点では一緒なんですよねぇ。普通に暮らすため、自分に正直に楽に生きるための苦労なんだりは甘んじて受けるつもりなので、そういうものに「耐える」ってのが当然だと思ってたわけですよね。「欲しがりません勝つまでは」病ね。

 でも、現実問題、そうしてれば苦労が報われるとは限らないし、何より、いつの間にか「それ」が目的になってしまっているんじゃないかなってことがよくありましてね。
 ムダに悩んだりして無為に時間を費やしてしまうこともあったり、試行錯誤をくり返し続けたり、なんというか一言でいえば「大量消費」してたわけですよね。人生を。

 誰が「ほしがりません勝つまでは」なんて標語を考えついたのかしらないけど、きっとこういうことを考えた人ってのは、「勝つこと」しか考えてなかったんだよね、きっと。
 日本という国がどういう国になるべきかとか、国民がどんな暮らしをしたら幸せになるのかとか、そんなビジョンを持たず、ただ、目の前を乗りきることしか考えなかった。「不景気だから」と、「業務委託」とかもっともらしい言葉を使ってコストカットすることしか考えない経営者のように

 とはいえ私も同じように、遠い将来のためにやってることなのに、それがいつしか「習慣」になってしまい、それが「目的」になってしまって、そのやり方を疑うとか考えなおすとか、コペルニクス的発想の転換もしなかったんですよね。そこから離れることも、否定することもできなかったので。

 最近、よく思うんですよね。

 私の座右の銘の一つに「『できない』はやってから言え」ってのがあるんですけれど、もっと具体的に表現しなきゃあかんよねって。これじゃ、鬼畜米英に竹やりで勝てるって論理だもんね。そうじゃないんだよね。

 私はよく、できないことはないという説明に、「飛んでるミサイルを蹴り落とす」というたとえを使います。飛んでるミサイルを蹴り落とすなんて、アニメじゃあるまいし、不可能ですよね?とうぜんです。
 でも、生身の人間でもできることってあるじゃないですか。例えば、ミサイルを発射する前にそれを防ぐとかね。たとえ難しくても、不可能ではない。その為に何をするか?と考えることをやめなかったら、できるかもしれない。

 それは、「飛んでるミサイルを蹴り落とす」こととはイコールではないですけど、本質的には同じことですよね。大事なのは、ミサイルを撃ち込まれないこと、なんですから。

 「できないことはない。ただ、やり方が違うことはある」

 大人の考え方っていうのは、きっとそういうことなのかなぁ、と思いましてね。理想通りの完璧なことはできないけれども、できないからといってなあなあにしないで、違う形でもそれを表現するというかね。

 30も過ぎてんだから、大人な生き方をしないとね。だから、『楽しむぞ2010』。目の前の楽しさがすべての楽しさっていうガキじゃないんだからね。楽しんで楽しんで楽しんでその先にあるものもきっと、今まで見ていたものと同じなんじゃないかな。

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