死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2010.02.22 23:17

 今日は久々に、一応地元であるO須商店街をあるってましたよ。

 それにしてもあれですね、やっぱり、歩きまくると、足が冷えるってことがないですね。帰ってきてお風呂入っても、ヒエッ(シャレじゃありません)ってことがありません。仕事で細かく歩くのと、歩きつづけるのってやっぱ噂通り全然ちがうんだなと実感。

 次に働く仕事は、仕事内で歩くことよりも、職場まで長いこと歩けるような場所にしよう、うん。ウォーキングも連続して歩かないと効果がないというしね。そして肝心の職場では、デスクワークだ。やったことないし。

 というかそもそも、机にかじりついているのは好きなんだよね。それなのに、プライベートタイムで机にかじりつく(ハズだ)からと、生活費を稼ぐ仕事は机とは全然違う仕事・・・・という選び方がそもそも、間違いだったのかもしれない。

 なぜなら私は、どんな研修でも面白く思ってメモをとり続けるような人間なので、デスクワークの方が根本的に向いているんだと思う。むしろ、身体を動かすことは、本来は好きじゃない。好きじゃないけどそうしないと動かさないだろうからしているだけだ。いわゆる「健康のため」。ちっとも楽しくなんかない。

 でも考えてもみよう。

 身体を動かすのなら何も仕事の中でやらなくてもいいんじゃないかと。たとえばスポーツクラブに通うとか、色々あるじゃないかと。たしかにそれはそうなんだけど、どーも「わざわざ」スポーツクラブに行くことができない。なんで「わざわざ」行かなきゃならんのだと思いさえする。
 自分の為なのに、それができない。体を動かすことが好きではないのだ、昔っから。田舎に行ってもいとこと遊ばず一日中マンガを読んでいた私だ。無理なことなのだ。しかも体育も、「頑張ってるから」3とか4をもらえるだけだ。

 学生のころの部活もそう。「あえて」運動部にした。こうすればイヤでも運動することになるから。しかし、かなりヒョロヒョロだったし運動神経がないので結果が残るわけがないのだが・・・・。 

 そんなことを予言していたかのように、高校一年のころの担任は三者面談で父親と私に向かって「この体じゃ良い成績が残せないから早めに辞めて進学に集中した方が良い」なんて言って我が父をぶち切れさせていたが、私もこんなチ○○スの言うことなんか聞くかと思ったものだが、先生の言うことは今思えば正しかったのかもしれない。

 とはいえ実際問題、ヒョロヒョロだったのに体重が15kg以上も増えたりと、机上での結果は残せなかったとしても今はやっぱり部活をやっててよかったと思ってるわけで、その先生の意見なんかゴミ箱にポイッとしていたのだが、やっぱり客観的に見てみると、私が体を使ったことに労力を費やすのは、あまり「賢い」選択ではないんではないかと、あれから10年以上経った今、つくづくと感じる。

 私は基本的に教師のあら探しをしたりはしないし、全員が全員金八先生レベルでいるのは無理だろとも思ってたし、一生懸命やってるんだから、むやみやたらに反発するのもどうかと思っていた。
 しかし、その先生だけは、どうもホントに、感謝すべき対象ではなかった。ちゃんと連絡すべきことをしなかったり、その割にはあれこれ制約を押しつけて来たり、教師用のデータを生徒に渡しちゃうし、とにかくもう、やる気あるのかと思ったぐらい、わが人生の中で唯一のダメ教師だ。教えられたことが何もなかったと思うぐらい、ひどかった。

 しかし、その先生は先生なりに私のことを考えてくれたのだろう。あくまでも先生なりに、だが

 私が体を使う世界で結果を残せないという点で言えば、確かだ。まぁ、今では一応、その部活の経験も生きて見た目の結果は残しているが、「天職」に近づいてる感じは一切していないのは事実だ。
 あきらかに、体を使う仕事は、私には向いていない。向いていないで言い訳するようなダサイ仕事をした憶えはないが、自分の中でなにかスッキリとしたものが得られないのは事実だ。なにか、充足しない。「私じゃなければもっとよくできる」と思う。実際は、そういう人はそういないものだが、いないわけではない。

 

 そんなことを思い、重大なミスを犯していたことに気づいた。

 個人的にあれこれ勉強していて思ったことだが、「賢い人」というのは何からも学べる人で、「偉い人」というのは誰にでも感謝できる人だと思っている。
 つまり、どんなクソッタレなアホカスマヌケであろうが、その人が自分に対してしたどんな最悪で極悪でひどい仕打ちがあろうと、その経験があったからこそ自分は頑張れたと感謝できるようにならなければならない、それが上等な人間になる、というわけだ。

 そういう観点から行くと、私は、そのダメダメ先生に、ちっとも感謝していないことに気がついた。先生は、私の未来のために、自分が嫌われ者になってでも、真実を教えたかったのだろう。

 もちろん、先生がそんなことを考えていたわけではないのは誰でも分かると思うのだが、それでも、その先生の一言のおかげで、私は、部員たちが逃げだした中でも一人走り続け部を存続させ、次の世代では全国大会のベスト4に入る選手が出るような部の礎になった。

 まぁそれは自分が特別なにかをしたからというわけではなく、顧問が会うたびにそう言ってくれてるのでそう思ってるだけな所もあるが、それほど、あきらかに向いていない人間が続けて部を潰さなかったことが、顧問の先生は嬉しかったのだろう。
 結果として顧問の先生は、内申書に書く順位を一つごまかして書いてくれたわけだし、その、ダメダメ先生の言うように実際はたいした試合上の結果は残せなかったけれども、進学の役には立ったし、体格が変われば自信もついて人生も変わるし、今もその経験が役には立っているのだから、ダメダメ先生の言うことは「間違っていた」と思うのも事実だ。

 しかし、その、ダメダメ先生が言った「無理」という言葉があったからこそ、私は頑張れた部分もあるだろうし、「こういう大人にはなりたくないな」と勉強になったところもあるし、一概に、その事実を「抹消」してはいけないのだと思う。

 それどころか、「感謝」しなければならない。私という人間は、向いていないことも必死になってやれるように努力してしまう人間だということを、その先生は私に今になって教えてくれたわけだ。

 だからこそ、その、「向いていないこと」をやり続けるほどの情熱があるかないかってことを考えて、仕事を選ばなきゃいけないな、と思った。向いてなくても決めたらやろうとしてしまい、それをムダにしない人間だからこそ、向いていることをやった方が「楽に」生きられるんじゃないかな、と。

 

 ゴミ箱にポイッと捨てていた考え方だが、ゴミ箱にポイッと捨てるということはつまり、思考が自分ベースになっている証拠で、取捨選択した結果なのだが、それが必ずしも正しいわけではないという視点を、忘れてはいけないんだろうね、人は。
 捨てたゴミでも、自分がその価値を決めつけて「ムダだ」と判断そのものが正しいとは限らないんだから。ダメなものでも、人生には必要なものがある。

 たとえば徳川家康が、武田信玄軍に三方原の戦いで大敗し、家康本人が脱糞しながら敗走して逃げ帰った城で、その情けない姿を自画像に収めさせて、それからその画を自分の戒めのために時々見かえしたという「しかみ像」なんていう肖像画がありますが、人にはそういうものも、必要なんでしょうね。悔しい想いとか、恥ずかしい想いも、「事実」として受け止めないとね。

 それがあって初めて、新しい一歩が踏める、わけだしね。教師が考えるよりもずっと先の。だから、そういうことを踏まえて、その先生に感謝しながら、「向いてる」ことにチャレンジしてみたいと思います。

 そんなわけで、向いてる仕事で楽しい人生を送れそうな転職を楽しむ企画、『転職ライフ2010』を始めようかな!

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