死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2010.04.06 23:36

壊すこともできない
 先日、総合駅の近くの公衆トイレに入ったら、トイレの窓に、パンチだかカカト落としだかわからないが、一発入れられている光景に出くわした。

 この窓は、ガラスの中に金網が入った割れにくい窓で、さらに鉄格子までついた頑丈なものだが、それに一発、何のためかわからないが一発、入れられていたのだ。

 ご覧のように、この窓はどんな強烈な一発を入れようが、人の力ではいかんともし難い強度を誇る。ヒビは入るが、窓自体が粉々になることはない。

 これをやった人がそのことを知ってか知らずか、もう一枚の窓も、同じように一発、それよりも強烈な一発をお見舞いされていた。粉々になることはなかったが、この窓よりも若干、中心のガラスの飛散面積が増えていた。だが、窓自体がその役割を失うほどの被害ではない。

 

 何がしたいのだろう? という問いはムダだろう。とにかく、なんらかの破壊衝動に駆られた、という理由だけが確かなもので、あとは個人的な感情によって引き起こされた、些末な行動だ。ただ、周りの人間にとってはそうであっても、本人にとっては、ムダなことではないのだろう。

 私なら、同じことはしないだろう。こんなぶち抜きにくいものをぶち抜こうとすることは馬鹿げているし、そもそもこんなものをぶち抜いたところで何も変わらないのだ。これをぶち抜けたところで、そこで得られる自信など空虚なものだし、それを讃える声に耳を傾けることもまた、空虚なものだ。

 そう感じるのは私が大人になったからなのかもしれないが、時折、なぜ、どうして、こんなことで満足できる人がいるのか不思議でならない。ガラスを作った人、はめ込んだ人、このガラスを開発した人の努力に想像力を働かせれば、こんなことをしている自分の幼さを露呈しているようなものだが、そこはガキのすることなので、そういうことに考えが及ばないのも仕方ないのかもしれない。

 とにかく、感情の発露をしたいという衝動に促されるまま、なのだ。

 それが若さであり青さであり、それが正しい方向に生かされれば世の中がうるおうのだが、現実問題として、そういうことを考えて若者を導こうとする大人は少ないようにも見受けられる。

 子供がキレやすくなった、キレる子供を育てたくない、そんな声を時折耳にするが、大人が子供にさじを投げていれば、つまりキレていれば、子供は自然とキレるだろうよ。

 

 大事なのは、セルフコントロールだ。

 大人と子供をわける決定的な違いも、セルフコントロールだ。

 子供は自分は分別がある、セルフコントロールできると主張し、道を踏み外す。道を踏み外すから、セルフコントロールできないと大人は判断するが、それは違う。セルフコントロールを身につけるために、いろんな道を試し、時に踏み外してしまうだけなのだ。

 「まっとうに」生きていれば「まっとうな人間」になれるなんて、本気で信じている人間がいるが、実際そういう人間は、杓子定規でしかものをはかれない、単なるロボットと化した大人であることも少なくない。それは、セルフコントロールができているのではない。人が作ったルールに、コントロールされているだけなのだ。それは、正しい大人の姿ではない。

 

 私は、この、一発入れられてもそこにあり続けるこの窓の姿を見て、子供と大人の「正常な関係」を見たような気がする。

 感情をエネルギーとした一撃が、窓の中心を射抜き、放射線状にヒビを入れ、その衝撃のすさまじさを物語るのが子供の持つ力の最たる例だろう。すべてが「正しい」ことではないが、そこにはひとつの「美しさ」がある。若さゆえの、純粋さが。

 かたや、そのエネルギーを受けつつも、なおもそこに己を揺らがせることなく存在するこのガラス窓には、若さの前に立ちはだかり、ただ個人の感情のまま行動しただけでは決して壊すことのできない大人の叡智が存在するということを知らしめる、大人の「強さ」があるように感じられる。

 大人とは、かくあるべきであろう。でなくば、子供がいつまで経っても、大人になりたいなんて思わない。

 子供じみた大人が多いと嘆くよりも、大人が正しく誇り高い大人であれば、子供はそれを見習って後を追う。大人はそんなことあり得ないなんて言うけれども、子供には大人にはない純粋さがあることを、大人が忘れているだけなのだ。

 私は、この砕け散らなかった窓を見て、そんな、大人と子供の分岐点を見た気がした。

 

 余談だが、この、網入ガラスというものは、本来火災時の飛散防止用で、衝撃防止用・防犯用ではないらしい。しかし実際は、割りやすく、かつガラスが飛び散らないし下に落ちないで音もしないで穴を開けられるので、泥棒からすると非常にありがたいガラス窓なんだそうだ。
 このトイレに使われていたのも、そういう理由と、公衆トイレという性質上、ガラス飛散を避けたかったからだろう。

 それを知らない子供たちは、「金網が入ってるから頑丈だろう」と思い、自分達の力で、普通のガラスとは違うことを試してみたかったのだろう。

 「普通のガラスのように割れることはないけど、穴は開くじゃん、大したことないな」

 それは自分の無知から来ているだけの事実なのだが、子供たちは「自分達の方が凄い」と納得して帰っていったのかもしれない。網入りガラスは、普通のガラスの間に金網を入れただけで、ガラスを2枚重ねただけの強度しか持たないという事実など、知る由もないのだから。

 しかしその勘違いも、子供ゆえの純粋さから来ているわけで、そういうことを考えると、「純粋さ」の中に生き続けている人間が「いつまで経っても子供」と言われるのも、無理からぬことだな、と思ったりもする。

 「純粋である」ということは、他者と交わっていない、という意味なのだ。「物」ならば、それはとても価値のあることだろう。だが人の場合は?

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