死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2010.05.31 11:15

 今まで、「やらなきゃいけない」ことのため、「したいことは我慢しよう」と考えていた。それは、そういう真面目な生き方が正しい、結果がついてくると信じていたからだが、実際はそうではなかったのだ。むしろ、うつになりそうなぐらいマイナス・・・・。

 すべては、「人の言うこと聞いたって、そいつらが責任取ってくれるわけねーんだから」と、私が他人によく言ってる言葉を、自分に対して言うのを忘れていたことにつきる。「寸暇を惜しんで成功した」「好きなことは我慢した」・・・・・・そんなん聞いて、今がこれだ!

 「仕事は遊びで遊びは遊び」という、MAX松浦みたいな人もいるご時世に、好きなことを我慢して・・・人のためにと考えて、結果、人どころか自分も救えない・・・・。

 人の事なんて知ったこっちゃねー! ぐらいの気持ちがあってもよかったかもしれない。そんな気持ちしかない人は、うつにはならないが、人としてどうかと思うけども。

 ・・・・まぁ、誰が悪いというわけではないが、そういうことを形としてはわかっていなくても、なんとなくわかっていたので、時々「タイトルを『欲望の日々』にしよう」とか「『楽しむぞ2010』にしよう」とか、あれこれしてきたわけだが、結局フラフラする。
 特にそれが一貫しないのも、「したいこと」「すきなこと」ではないからだ。

 今までの私は、自分の中にある「こうなりたい」という人間イメージのために努力してきたつもりだが、そのイメージそのものが、「なりたい」というよりも、「ならなきゃいけない」と思ってた節もあるんだと、ここ最近のアップダウンの中で気づいた。

 「ならなきゃいけない」から、近づいてないと感じたら、焦る。
 「ならなきゃいけない」から、それに関係することしかしなくなる。
 「ならなきゃいけない」から、自分の欲望は抑える・・・・。

 しかし、そうしていると、エネルギーが枯渇する。なにせ、自己イメージは、外的な状況に合わせて考え出された外的なものだからだ。そこからは、内的エネルギーが生まれない。

 イチローになろうとしてもイチローになれないのと同じことだ。イチローを目指していては、イチローと同じことしかしない。それは、楽しくない。イチローに勝とうと思えれば、楽しくなるのに・・・

 なぜなら、「あれをやったら倒せるだろうか?」などと考えて試行錯誤したりすることで、自分で、自分の人生を歩けるようになるからだ。それは、オリジナルだからこそ、楽しい。少なくとも、必死にイチローの物まねをしているよりは、全然楽しいし、イチローと比較して凹むこともない。また、イチローのすごさに、より敬意を示せるようになるかもしれない。

 

 そういう意味で言えば私は、イチローになろうとしていただけの選手と同じだったのかもしれない。それはちょうど、「見栄えのいい木」みたいなものだ。

 「立派なものになろう」という自己イメージを実現するために、必死に枝を伸ばし、たくさんの葉を拡げる。

 端から見れば、緑が生い茂り、遠くから見ると周りとくらべても立派な木である。しかし、よく見ると、葉っぱが生い茂りすぎて日が当たらない葉っぱがあり、枝がつまりすぎて、ところどころ枯れているとこすらある。他の木に隣接するところはそれがたとえ南側でも葉っぱが生えてないし、なにより、根っこが細い。
 それは、地中にあるから目には見えないけれど、強い風が吹いただけで大きくゆれたりするときに、初めてわかる。

 イチローならば、ぶれない。 根っこをしっかりはやしているから。しかし、私は、ぶれる。周りの言葉に影響されて。

 まったく過不足なく生きているように見えて、何かあったときに、実はそうではないんだと気づかされる。根っこが細いのに、上ばかりどんどん伸ばそうとするから、ますますぶれやすくなる。他の人にとっては大した問題じゃないことも、自分にとっては大問題になる。

 「いったいどうしたらいいんだろう?」と悩む今の状態が、これまでで最大のぶれなんだと思うが、それは今まで、「見せる」葉っぱとか樹形の部分を伸ばしすぎて、根っこを大事にしてこなかった「ツケ」なんだろう

 そして、根っこを大事にしないから、土壌をよくすることも、考えない。それでは永遠に、台風の恐怖におびえることになる。 土壌とは、人として生きる、「基本」の部分のことだ。自分の人生の、根幹となる部分。

 それに基づかないで葉を伸ばし続けても、それは、「ムダな葉」であり「ムダな枝」なのだ。今の私には、土壌を醸成することと、ムダな部分を切り落とすことが必要になのだろう。

 私は今まで様々なことに挑戦し、色んなことができるようになった。

 しかし、欠点がある。どれもこれも、「人並み以上」にできるようにはしても、「極めて」はいない。それは、基本から入って、応用を繰り返し、また基本に立ち戻る・・・・というような、道を極めるプロセスを歩まなかったからだ。

 そうやって「基本」というものをすっ飛ばしてきたのは、すぐに結果がほしいためだ。あれもできる、これもできる、それもできる・・・・・「なんでもできる人になりたい」というよ欲張り人間ここに極まれりだなと言わんばかりだが、しかし、それでは限界も来る。
 本当のプロの中に入ってしまえば、どれも、中途半端でしかないのだ。「なんでもできる」が、何にもならないことは重々承知のハズなのに、私は結果的にそうしてきてしまった。

 ようするに私は、以前紹介した、孔子の「之(これ)を知る者は、之を好むものに如(し)かず、之を好むものは、之を楽しむものに如かず」という言葉の、一番最初の、「知る者」でしかないのだ。楽しんでるように見えて、心から楽しんではいないのだ。「楽しもう」と努力してるだけなのだ。それは、楽しんではいない。 とうぜん、好きでもない。

 その時々で、「勉強になるから」といろいろなことに挑戦してきた。たしかに、勉強になった。「トイレを使って愛情についてのエッセイを書け」と言ったら書ける。これも、さまざまな経験があるが故だ。

 しかし、それを何のためにしてきたのかを忘れてしまっていたのではないのか?

(つづく)

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