死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

--.--.-- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
web拍手 by FC2
トラックバック(-) | コメント(-) | この記事のURL | 編集 |
2010.06.15 23:59

 いえい。

 な~んか首と頭がつまってしまったので、雨でしたがお風呂に行きました。

 でも、正解でした。首のハリはとれてないですが、頭の中はスッキリしましたよ。寝湯でボーッと雨雲が流れる空を眺めていると、いろいろな考えが浮かんだりして、それをつい、書きとどめたくなったり、形にしたくなる自分がいて。

 結局、私は、子どもの頃から、空を眺めてそこにドラマを想像したり、放課中も絵を描き続けていたぐらいなので、創作することが好きなんですよね、根本的に。ほっとくと勝手にやるし、やめろと言われても、次々考えが浮かんで、形にしたくなる。

 これはもう、脳の神経回路からしてそうなってしまっているのできっと、なくならない性質なんだろうし、だから、創作で食っていきたいと思うのも、その方が自分でも自然に生きられると思うわけで。

 そんなことわかりきったことなんですが、そういった自分の本能的な部分を、ずいぶん曲解してきたなぁと思ったりもした。論語を勉強して、私は孔子と同じように「想いやり」が貫いてるだけで行動してるのだ、とか、人をよい方向にディレクションしたいのだろうとか、なにか、自分の行動の一貫性がほしくて、あれやこれやと考えてみたが、物足りなかった。力強さがないというか。

 それで、結局、あーしなきゃこーしなきゃ見つけなきゃと、「しなきゃ(つまりmust)」にしばられてしまう、これまでと同じように。創作に集中できる環境を作らなきゃとか、書かなきゃとか、自分を追い込んで結局、書く気が起きなくなったり。

 そうじゃなくて、もっとナチュラルに、「あ、書きたい」と思ったことをすーっと書いたり形にしたりすればいいんじゃないかなって思った。

 ようは基本的に、「作ることが好き」なんだよね。

 今まで、これまでの仕事をふり返ってきたけれど、根本にそういうことがあることを忘れて、やれ「あれが得意」「こういうことならできそう」「これが向いてる」「こういうことを大事にしてる人間だから」とか考えて仕事を選んだりしてきたけれど、そういう、「must」から来る発想によって、ずいぶん視野が狭くなっていたんじゃないかなぁ・・・・と思ったりもする。

 「must」じゃなくて、「want」を置き忘れてやってきたけれど、「want」がないからエネルギーが持続しないし、だから創作も最後まで形にできない(やってる内に自分を疑ってしまうので)という悪循環をしてきたんだよね。

 もっと、ナチュラルに、「こうしたいな(want)」という気持ちを愛さないとね。

 でもホント、今まで、「must」にしばられてきたよなぁと思う。

 そういう意味で「こうしろ!」「こうだ!」的なタイトルの本(自己啓発系に多い)は今後は読まないようにしよう。こういう本は売れるけど、どれも内容は同じようなものだからなぁ。宗教を持っていない人にとっての、薄い宗教みたいな。

 私は宗教的なものに対してのめり込まないようにしたいので、信仰を持っていないのだけれど、信仰を持っていないと、こういう、無形化された情報にまどわされやすくなるよね。まぁ、世の中には、「俺が正しい」と自分だけを信じる人もいるけれども。

 私は、基本的にマジメな性格なので、「こうしろ!」的な情報ばかり集めてると、それを忠実にやろうとしてしまう悪いクセがあるからなぁ。まぁ、相性ってのもあるんだろうけど、「こうしろ!」的なものはやっぱ、あくまでも自分にとっての「道具」として見るのが一番正しい方法だよね。師匠でも何でもないんだし。

 「失業」という仕事が一向に決まらない状態の時は、基本的に弱っているので、「こうしろ!」的なものは確かに力強く見えるけれど、でもやっぱり「こうしろ!」的なものに振り回されているうちは自分の人生を歩いていないことになるしね。というか、何も作ってないから、それじゃ。だから、楽しくない。

 楽しもうと思っても楽しめなかったのは、「must」にしばられているからだったんだなぁ。プチうつにしてくれた本、『うつになりやすい人』にもそんなこと書いてあったわ。

だいたい、おいしいお饅頭を食べるのに「一生懸命に頑張る」とは言わない。「一生懸命に頑張る」のは、たいてい嫌いなことである。(加藤諦三『うつになりやすい人』

 そもそも、「一生懸命頑張る」で生きてきた人間に、それを否定したところで、他の答えがないとよけい困るだけなんだよね。

 でも、今日、頭を空っぽにして、自分の本能に従ってみたら、今まで見えなかった答えた見えてきたのだ。

 私は、「作る」ことが自然に好きなのだ。

 それはもう、物心つく前からなようなので、間違いない。

 私の両親は、保育園に入った私が友達とも遊ばず黙々と何かを作ることに没頭していることに不安を感じて先生に相談したことがあったらしい。でも先生は「こういう子なので見守ってあげてください」と言ったそうな。

 そんなわけで、私はほっとくと、何かを作りたくなるらしい。

 人と接するよりも、何かを作ることの方が楽だし、楽しい。

 今までの仕事でも、結局、システムを作ったりマニュアルを作ったり物を作ったり伝説を作ったり、とにかく「作る」ことに力を注いできた気がする。それは、有形無形を問わず、今までそこになかったものを作るという点では同じ「作る」なのだ。

 目指している形というのはたぶん、本当の意味での、クリエイター・作家ってことかもしれないね。その方法はこだわらないよ。だって、作ること自体が好きだもん。
 昔から、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいに多方面で創作することに「おかしい」って思ったことないしね。むしろ、「これ限定」のクリエイターがいる方が私は不思議だ。まぁ、商業的なニーズに合わせて考え出されたんだろうけども、創造するって、限定されないから創造になるんじゃないのかなぁ? まぁ、あえて「クリエイター」と横文字を使った時に、自分向けの意図があったのだろうから必然といえば必然なんだろうけど。

 そんなことを思う私だから、そういう意味で、俳優兼監督とかの方がよっぽどクリエイターだと個人的には思う。だから、クリエイター専門学校というのも、個人的には理解不能である。別にケンカを売りたいわけではないが、私はそこに当てはめて考えられると苦しくなると気づいたわけだ。

 創作とはもっと、自由であるべきだ。
 何かを創っていくってのは、歩いた道のあとにできることで、あえて創る物とも違うんじゃないのかなぁ? 本義でいえばだけど。そもそも、職業名もそういうものなんじゃないかなぁ・・・・って考えてるから貧乏なんですか? そうでしょうけど。

 まぁ、その技術の修練の場があることはよいことだとは思うが、そこが固定化されているから、○○クリエイターとかなんやらわからんクリエイターが出てくるんだと思う。まぁいいけど。

 

 でま、本題だが、そういうことを考えると、仕事選びもカンタンになってくるもんである。とにかく、どこ行っても、何かを作って行くだけなんだから、自分が「ここに入りたい」「これやってみたい」と思う会社を選べば良いだけなんだよね。実にカンタンだ。

 「want」に従って生きる。そうしてこそ、そうやく「創作」ができる。とはいえ、「want」だけだと独りよがりにもなり、「must」も無用なものではない。

 それはちょうど、「理想と現実」のバランスのように、「wantとmust」は干渉し合いながらその衝突をエネルギーに変えていくことが、結局は文化的経済的成功とつながる「創作」を生むんだろうね。

 とりあえず、作りたいと思ったものは、どんどん作っていこっと。それには資金がいるよね、ぐらいの発想で仕事を選ぼっと。・・・・なんて思ってたら、3日以内に連絡しなかったら不採用と言ってた会社から5日後の今日の夜に2次試験の連絡が・・・・・気持ちが運命を好転させたのか??

 とにかく、創作に生きよっと。

web拍手 by FC2












管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://tkiyoto.blog6.fc2.com/tb.php/1401-243c7c0f

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。