死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2011.05.08 02:51
 今年23になる子が、つき合ったことはあるが手をつないだこともないというんで、周りが出逢いを作って、とりあえずデートができそうかどうか・・・・?ってとこまでもっていってる現在。

 で、そんな子だからそもそも、「デートってそもそも何するのか?」という素朴な疑問を投げかけて来たんですよ。んでまぁ、そう言われてみれば、デートとはいったい何なのかを考えて答えてみたわけ。

 その時にとっさに答えたのは、「デートは英語のDATEから来ているから、日付に関係するとかなんとか」というムリヤリ文字数を稼ぐ言い訳くさいものではなく、「そこ」を楽しむ友だちとの遊びとは異なり、「私とあなた」の二人の間に起こる「こと」を楽しむものではないかということ。

 友だちの場合は、「飲み友だち」という言葉があるように、ある目的を達成することで喜びを分かち合う(それがたとえプロ野球の采配のことでも)同士という面が大きく、恋人(未満含む)のデートというのは、場所とか目的とかはあくまでも付随物であり、目的は二人の距離を近めたり、理解し合ったりすることが根底にあるんじゃないかと。

 たとえば、同じボーリングに行くにしても、友達とはスコアの競争に終わるだけでも、デートの場合は、思ったより運動神経悪いんだとか、マイボール持参するような凝り性な人なんだとか、ボーリングはあくまでも「媒体」にしかならないですよね? むしろ、ボーリングのスコアそのものより、その時の想い出の方が強く残るのではないでしょうか?


 そう思ったのは、その、「友だちとしてはいいけど・・・」というタイプのその子のことを考えると、女の子とどうしても深い仲になれないというのは、どこかにそうなれないものが流れているからに違いないと思ったからだが、それを考えてみると、ふいに「いい人なのに・・・」と言われるタイプの人がずっとそのままのポジションでいるのも見えてきたわけだ。

 「いい人なのに・・・」とか「友だちとしては最高」みたいに言われる男子諸君の何がいけないのか、なぜ女子たちに友だちの線を超えさせてしまえる印象を与えないのか、私も30を過ぎてるもんだから、よくよくなるほどなと気づいたのだが、それは「フェロモンがない」とか「男としての魅力がない」とかそういったAXEとかで片付く問題ではなくて、そもそも、そこにある「関係」をどう持っていきたいかによるのだと思う。

 「友だちとしてはいい」ってタイプの人は基本、関係を壊さないように気をつかう人であり、それは人としての価値としては素晴らしく、評価されてしかるべきだと、だれもが思うわけだ。だけど、それだけで恋愛ができるかというと、そういうわけにはいかない。

 カンタンに言ってしまえば、ブッダと恋愛するか?ということだ。しないだろう?

 でも、ブッダを嫌う人はそういないハズだ。むしろ、敬愛すらするだろう。「友だちでいい」というタイプの人はそんなポジションにいるわけだ。

 だからこそ、傷つけたくないし、でもあなたはステキだ、きっといい人が見つかるよという意味で「いい人なのにね」とか「きっといいヒトとめぐり逢えるよ」とか「友達としてしか見えない」と言われてしまうのだろう。

 それで「満足ーっ!!」って人はまずいないだろうが、そう言われてしまったらそのイメージを払拭するのはなかなか難しいわけだ。だって、ブッダになっちゃったんだもん。エッチなことしたりしちゃダメでしょ・・・・って発想。

 人間とはかなり身勝手な生き物であるからが、あまりにもいい人すぎると、自分にはそうできないからこそ「そのままでいてほしい」という期待をかけられ、行動の制限をかけられてしまうわけだ。で、「いい人」だからこそ、その期待を裏切ることもできず、そのままおとなしく「はい」と従ってしまうと。

 それを「見えない支配」というのはさすがに言い過ぎだと思うが、そういったことで悩んでる人は一人や二人ではないハズ。

 とくに、男の方がずる賢くなれない人が多いから(女と違ってずる賢くなくても生きていけるから)、がんばっても「いい人止まり」で終わってしまう人が続出するわけだ。女の方がずる賢いので、そんな「いい人」な男たちの「いい」部分だけの恩恵を預かり、賢しく生きているわけ。それが「いい人だけど・・・」という言葉として表れるのだろう。まぁ、反対側の立場からすれば勝手な理屈なんだが。

 それで結局、「ダメだってわかってるんだけど好きなの」という、バカな男にふりまわされる女が生まれるのも当然の帰結と言えば当然の帰結なワケだ

 冷たい言い方かもしれないが、特に女性に多い傾向なのだが、自分にとって都合のいい部分だけを取捨選択して生きて、それが思うようにコントロールできない現実を受け入れられないと、このドツボから抜け出せなくなる。これが、「ダメな男からなかなか離れられない女のナゾ」に大いにつながってると思うのだが、今回のテーマと外れるのでスルーしておこう。


 というかそもそも、最初のテーマは「デートとはなんぞや?」なにするんだということだったので、かなり脱線してしまった感もなきにしもあらずだが、こうしていくと、「友達」で終わらないデートの方法が見えてくる気がしないだろうか?

 友達で終わるタイプの人は、いざ、異性と二人きりになっても、それ専用のモードに切り替わらない傾向がある。それは、実際にどうしたらいいかわからないというのもあるだろうし、「仲良くなる」ということについて同性とおなじような接し方をしてしまうところがあるからだろうと思う。

 異性が仲良くなる、異性として仲良くなるには、セクシュアリティな面を外して考えるのは、不自然を通り越してナンセンスだ。程度の差はあるにしても、触れたいとか感じたいとかセックスしたいとか思うのが普通だ。それがいくら小学生であろうと、「異性」に対して持っている自分のイメージを満足させたいと思えば、男女の関係が築けるわけだ。だから、「かわいい」とか「かっこいい」でつき合う方がかなり自然だ。

 でも、「異性」に対してのきっちりとした線引きができてないと、「友達」に終わるケースも多々出てくる。

 もちろん、「友達」で終わる人がすべてそんな人ばかりではなく、異性は異性と自分の中ではきっちりと線引きをして「友達」と扱われないように必死にがんばっている人の方がきっとたくさんいるのだろうが、残念ながら「向こう」がそう思わない。

 それは、自分の思う「異性」の役割というものがずれている、もしくはその人と「マッチしない」から起こる現象なのだと思う。自分の中では男らしいと思う行為が、相手の目にはそう映らなかったとしたら、どれだけ努力しようが男としては見られない、ということだ。女の場合もそうだ。母親役に徹したら、母親にしかならないとか。


 だからこそ、あくまでも友達以上の存在になりたいと思うなら、「デート」を、それがたとえ「つまらなかった」と言われるようなものになったとしても、自分という存在はこうこうこういうものですよと表現したりしていく方が、「その場を楽しむ、楽しませよう」とすることよりずっと優先しなければいけないことなのではないのかな、と思う。

 それは時には「いい人」的な行為ではないかもしれないが、あまりにも「いい人」しすぎて自分がガマンすることが必ずしも自分にとっていいこととは限らないわけだ。周りはあくまでも周りだから、自分には「いい人」でいてほしいという期待をかけるが、その苦労を背負うのはその人たちじゃない。
 むしろ、その人たちはしっかりと汚れて、いろんな人とセックスを楽しんでたりするわけで、そんなのハッキリ言って不公平じゃないかと思う方が、人として自然ではなかろうか?

 かといって、「いい人」と言われるタイプの人が、チャラ男になってガンガンやりまくってもきっとなにも満たされないだろうから、そういう人たちのマネをするのはハッキリ言ってやめたほうがいいが、やっぱり「デート」の先にはムフフ(←古い表現だな)なものがあるという下心ぐらい持っていても、バチは当たらないと思う

 だって、女だって性欲あるしね。


 きっと、そこなんだろな。いい人で終わる人とそうでない人との、決定的な違いは。友達と一緒みたいに、ただボーリング行って、カラオケ行って、映画観て・・・・ってだけじゃ、満たされないもの、あるじゃない? これでパンツ濡れる女がいたらおかしーでしょ。男は女が何してようがしたくなりますが(裸エプロンなんてその思考の最たる例です)。

 特に女性は共感型の生き物ですから、共感する体験が多ければ多いほど心を開き、心を開くと同時に体も解放するもんですからね。だから、デートってのは、下心は持ちつつも、まず、お互いが二人でいるからこそ楽しめることをするべきなんじゃないのかなって思いますね。

 少なくとも、「いい人」で終わる人にとってのデートってのはってことですが。
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