死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2011.06.30 05:46
 なにか、やりたいことがある人間は、まず、プロを目指す。

 代表的なのは、プロ野球選手(もしくはメジャーリーガー)を目指す高校球児というところか。

 しかし、実際にプロになれる人間はそのニーズと比較しておそろしいまでに限られている。
 たとえ、プロになれてもまったく活躍できずに消えていく人もいるのだから、プロで、なおかつ第一線で活躍する人は、本当に、限られた人間であり、スターなのだ。

 そういった意味では、プロとはつまり、その道をつきつめた人で、その世界での頂点であると言ってもいい。

 そうなれない人は、ある人は裏方としてその業界にたずさわり、ある人はアマチュアの世界で趣味としてつづけることもあるだろう。
 いつか再びプロを・・・と考える元プロも、その中にはいることだろう。

 その関係を

 プロフェッショナル>アマチュア

とするのはカンタンである。また、そうでなければ、数多くのアマがプロを目指すなんてことはしないだろう。

 だが、それですべてを表現できるかといったら、そんなことはない。

 プロの技術にアマチュアがかなうかと言ったら、それはかなり難しい。常にプレッシャーと闘いながら技術を磨かなければ生き抜いていけないプロの世界の住人と、必ずしもそれ一本では生きていけないアマチュアの住人とでは、訪れるチャンスも、得られるものも、質、量ともにケタ違いなのだ。

 しかしそれでも、アマチュアがプロに勝つなんてことが実際にはある。

 たとえば、サッカーの天皇杯では、プロに限らず学生も参加するが、ときにプロに勝つこともある。

 だから、常に、

 プロ>アマ

という関係が成立するワケではないが、だが、その関係を否定するものでもない。時にアマチュアがプロを上回ることだってある。プロだって人間、アマチュアだって人間だからだ。


 「プロ野球は好きじゃないけど、高校野球は好き」という人はけっこういて、とくに女性に多い。
 そこにあるのは、野球の技術とか強さへの尺度ではなく、明日で終わるかもしれないからと、必死に、一試合、一試合を闘い抜こうとする、ひたむきな情熱への尺度である。
 それは、毎日のように試合するプロ野球選手には、なかなか見受けられない。一塁への全力疾走をする、しないなんてのがいい例だ。

 プロはなぜ全力疾走しないのか。
 それは、一試合、一試合にかける執念の割合が低いからというのもあるのだが、決して、それだけとも言えない。ある部分で、どこかに手を抜くことで、必要な時に全力を出せるように力の配分をするからでもある。プロという、まさに野球漬けの毎日の中で、試合の流れを敏感に感じとりながら、その波にうまく乗ることができるような技術が身についた者だけが、プロの世界で活躍できる。

 プロに求められるのは「一発屋」ではなく、期待に応え続けられることだからだ。


 高校野球では、故障など気にせず、全力プレーをする。その必死さが、観ている者に、プロにはない感動を呼ぶ。
 だが、プロの世界では、全力プレーの結果として故障したら、明日から生活することもままならなくなる。自分一人ならまだしも、妻子がいたらどうだろう? かたや、高校球児が、生活の心配などするだろうか?


 プロフェッショナルというのは、お金をもらう仕事である。

 その道をつきつめるがゆえに、誰も真似できないからこそ、人々がお金を払う商売だ。

 それはつまり、必死になることよりも、もっと違うものを期待しているということである。スポーツならば、高校野球ではお目にかかれないようなスーパープレーだったり、高い技術がもたらす攻防だったり、なによりも「勝利」に対する喜びを期待して、お金を払っているのだ。

 そのように、お金が介在することで、求められることに応えつづけていかなければいけないのがプロの世界であるのだから、必然的に技術があがるのは当然のことで、「勝つ」ための試合の流れを読んで、勝負所で120%集中するために、そうではない所では全力ではないように見えるかもしれない。
 それを「手抜き」ととるのか、クレバーととるのかは人それぞれだが、少なくともつねに全力では、観てる人の気持ちを満たすことができても、期待に応える結果が残せる保証はどこにもない。

 常に期待に応え続けなければいけないからこそ、自分のコンディションが良かろうが悪かろうが、安定した結果を残さなければならないのが、プロである。

 そう言った意味では、誰も手を抜こうなんて、本来はしないはずだ。実際、手は抜いてなどいない。競争相手がいるものだから、手を抜いたが最後なのである。

 だが、人々の目にはそう映らないことも多い。それがすなわち、プロフェッショナルの、プロフェッショナルたるゆえんである。

 つまり、

 プロフェッショナル>アマチュア

 という図式が成り立つのは、必ずしも技術うんぬんだけの話ではなくて、その「対象」に対してどこまでのエネルギーを注げるか、という違いである。

 常に結果を求められるからこそ、それに応えていかないといけない。万年最下位のチームがボロクソに言われるとか、毎日采配批判をされたりするなんて、いい例だ。プロは、お金や時間を払う人間たちと、闘っているのだ。

 プロは、アマチュアたちの憧れでもあるが、アマチュアでは考えられないようなものと闘わなければならない過酷な道を歩くということだ。だから、シビアな世界にもまれることで、技術がより、磨かれていく。それができなければ、生きていけないのだから当然だ。


 だから、プロがアマより優れていることの方が当然増える。だが、だからといって、アマがプロより劣っているというワケではない。

 先にも挙げたように、高校野球は高校野球でのすばらしさがある。プロには、期待に応えなきゃいけない義務があるが、その反面、期待に応えれば結果はどうあれ許されるところがある。不倫報道で騒がれたプロ野球選手がそれだ。
 しかしアマチュアはどうだろう? アマチュアは、お金をもらわないということで、人々が掛ける期待は、一種の「夢」みたいなものである。もちろん、中には、「野球部には宣伝として投資したんだから勝ってもらわなきゃ困る」とかいう人もいるだろうが、ほとんどの人の掛ける期待は、プロの比ではない。

 だから、アマチュアのいいところは、そういった期待と闘うことに縛られないので、ひたすら夢を追えるというところだ。それが、(特に若い)アマチュアのいいところであり、それを追わない限り、プロにもなれないのだと思う。

 プロは、たくさんいる。その中に割って入るには、プロと同じことをしていてはダメなのだ。だから、アマチュアからプロになろうとしている人にはきっと、アマチュアだからできる「必死さ」や「情熱」を対象にぶつけていく必要があるのだと思う。

 高校野球で全力疾走してケガでもしたら、プロにはなれないかもしれない。でも、高校野球で全力疾走しない人が、そもそもプロに入れるのだろうか?


 と言いながらも、私個人としてはアマチュアの方が好きとは言えない。プロの、言い訳のきかないシビアでハードな世界の方が好きだ。

 けど、アマチュアの内からプロのマネをして、小さくまとまることは間違っていると思う。アマにはアマだからできることがある。期待に応えることで得られる喜びといったものには縁が遠いが、だからこそ自由な発想ができる。文学の新人賞でも、大事にされるのは、そういうところだ。技術的なことは、プロをやっていればイヤでも身につく。大事なのは、対象に対してどれだけ真摯に立ち向かえるか。


 そういったものをうまく描いたマンガが手元にあったので、それを読んでふと、こんなことを思った次第であります。

頭文字D(21) (ヤンマガKC (948))頭文字D(21) (ヤンマガKC (948))
(2001/04/25)
しげの 秀一

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 峠出身のプロレーサーに、14のときから(無免許、笑)峠で育ったアマチュアの主人公が、峠のレースで、技術で劣るプロにどう立ち向かっていくのか、また、峠出身でプロになったレーサーが、アマチュアとのレースでいったい何を見つけるのか?

 そこが非常に見応えがあります。

プロレーサーの素直な疑問・・・でも
 レースの結果も一巻でしっかりまとまってるのでそういった点も読みやすくていいですが、レースの結果うんぬんではなく、このマンガ本来のバックグラウンドテーマ「走る」ということに対する、「プロ>アマ」という単純な図式では表せないようなものがあることを描ききった、一つのハイライトでもあります。どちらかというと、主人公よりも、プロの人の心にフォーカスしている巻といえるでしょう。

 これは多分、マンガ家としての作者の経験からも来ているんでしょうね。アマチュア時代にあったものと、プロになってから失ってしまったもの。

 どちらが上で、どちらが下なんてことはない。

 どちらにしても、ベストを尽くす。大事なのは、そういうことなんだと思う。アマチュアでベストを尽くさなかったら、プロへの道なんて、それこそ夢のまた夢なんだから。

 そういうことを考えると、金子みすゞの「みんなちがって みんないい」という言葉が今も色あせないのもよくわかる気がします。「こうしましょう」じゃなく、「こうなんだ」というところが。

 おそらく、『頭文字D』の作者、しげの秀一も、プロだろうがアマだろうが、(クルマで)速く走りたいという走り屋たちに対する深い愛情があるのだろう。自身も走り屋だったわけだし。だから、単純に「プロ>アマ」とは描かないし、描けない。

 そういう意味で『頭文字D』というタイトルには、これから始まる主人公の未来(DRIVER?それともラリーストのスラングか何か?)の、あくまで一ページ(頭文字)にしかすぎない物語なんだよ、という意味が込められているのかもしれない。プロになるのに必要なのはなんなのか、プロが真っ正面から描いた作品・・・・なんじゃないかな? このマンガはあくまでも「成長ロマン」と作者も言ってるしね。
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