死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2012.01.18 03:12
 山崎豊子原作ドラマ、『運命の人』観ましたよ。

 さすがにというかなんというか、山崎豊子的ですね。『白い巨塔』とかその代表格ですが、重厚の中にも触れやすさのあるドラマの作り方はさすがです。

 で、そういえば山崎豊子について調べたことないなと思い立ちまして、調べてみたんですが、どうも「盗作疑惑」でイロイロと叩かれているようで・・・。
 私自身、山崎豊子作品自体、『白い巨塔』の原作とドラマに触れただけで、その、盗作されたものとか、山崎豊子自体の文壇での足跡なんかの話題には触れたこともないので、そのこと自体のゴシップな話題は正直、どっちでもいい話に感じてしまいます。「物書き」と自称しておきながら興味がないというのもどうかと言われそうですけれども。

 というのも、あれやこれやと言ったところで、じゃぁ清廉潔白な人が書いたものを面白いと評価して、読んでくれるのかという現実があるわけだし、むしろ、この『運命の人』の主人公にしても、『白い巨塔』の主人公にしても、「己の(信念に基づいた)目的のためには手段を選ばない」者の生き様の中にこそ、ドラマが生まれるんではないのかと。

 ことに、山崎豊子自身、この作品について「沖縄の人たちの苦労を・・・」と言っているようですし、少なくとも原作ではなくドラマしか観ていない中でですが、作中の主人公にも「沖縄の人たちの苦労を・・・」というようなことを言わせていることを考えるに、作家が作中の人物に自分の想いを語らせたり行動に反映させるのは非常によくあることだし、特にリアリティを追求したり、実際の事件をテーマにする以上、ドキュメンタリー作品でもなければ客観的であり続けるのはほぼ不可能で、「作家」として「自分の想い」を作中に盛り込むことはごくごく自然な行為と言えるでしょう。

 それに、そういう「誰かに伝えたい」という衝動がなければ創作活動などできるはずもなく、その際にどういうモラルを持っているかというのも、想いの強さの前ではどんどん色あせてしまうこともあるのも、良きにつけ悪しきにつけ、創作活動に付随する「毒」の一種でもあると思うのです。
 とくに、今回の主人公にしても、「戦時中は国家と新聞にだまされた」「沖縄の未来を変えたい」などといった正義を行使するためなら、奥さんを裏切って情報をくれる女と密会をしたりするなんて、まさにその考えを投影した存在とも言えるわけですよね(でも、その正義の行使は国家のやってることと違わない・・・というドラマ展開になるんだと思うが)。

 つまり、そんな「想い」を作品に強く投影しようとする山崎豊子だからこそ、『運命の人』の弓成亮太や、『白い巨塔』の財前吾郎というキャラクターを、意志が強すぎて共感できない部分がありながらも、どこか憎めない、どこか同情してしまうという、一口で言い表せない彫りの深さのある造形物として描くことができるのだと思う。つまりそれが一つの、作風というか。


 こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、毒のない善人の書いたものほどつまらないものはないし、「○○へのラブレター」的なそれは一瞬の感動を生むかもしれないが、人の心に何かを突きつけるような鋭さもない。

 それが別に「善」であるとは言わないが、少なくとも、作品を世に送り続ける「作家」としては、そのような鋭さを失ったら「フツーの人」に成り下がってしまうし、それを人々が、「作品」と呼び、そしてわざわざ触れようともしないだろう。どこにでもある常識のままに書かれたものであれば、それはとりたてて特別な存在になることもない。

 世阿弥も言っているが「珍しきが花なり」なのだ。


 多くの人が「作家」や「芸能人」にモラルを求めるが、現実問題、それを言い出してしまうと、作品がつまらなくなるという意見は、ある意味で正しいし、だからといってそれを無条件に認めるのも正しいとは言い難い。

 しかし、世の中というものは得てしてこういうものである。

 浜崎あゆみが離婚したことに、世間の評価としては「やっぱりか」というのが大半を占めるのだと思うが、私もその一人だ。あれだけ感情を込めた曲を書く人間が、フツーの恋愛婚をして、うまく行くはずがない。なのに何をそんなにドラマチックに感じて行動に移してしまうのか。

 端から見たら予見された滑稽な光景だろうが、その、クリエイターとしての姿と、少女のような想いを捨てきれなかった姿の両面があるのがまた、人間らしさなのだと思う。創作に殉じつづけるということはやはりなかなか難しい。もちろん、結局は創作に帰ってくるのがみんなわかっていたからこそ、結婚してもうまく行くはずがないとみんな思っていたのだろう。知らぬは当人ばかりなりというわけだ。

 冷たい言い方かもしれないが、これはまぎれもなく現実である。

 こういったことが世の中には往々にしてあるし、だからこそ世の中は時に醜く、時に美しく、映ったりもするものだ。

 そしてその中で自分が何かを感じたものを形にしていくのが「表現者」であり、そのための方法論はそれぞれの信念や生き様や価値観に影響されるものだが、それが人によって違うからこそ、同じテーマでも違う作品ができあがるし、それに触れる人々の感じ方もそれぞれ違うのだ。

 その中でもいい作品が、何年経った後で触れたときにまた印象が異なるのは、まさにその点からで、平面じゃなく、立体的だから、一面じゃなく、多面だからこそ、様々な人に触れられるし、様々な心を映し出す。

 だからこそ「何度」も触れることができるわけだし、だからこそ「展開」され、「人気」も出る。そうしていける作品が、歴史の中に埋もれずに残っていく。それが結果として「いい作品」とか「名作」と呼ばれるものになっていくのだろう。
 日々変わっていく人の目に耐えられ得る作品が、いい作品というわけだ。

 それは、作家志望の人にありがちな独りよがりな作品にはないもので、インモラルだったり、人々の常識の外にいる人たちが作ったものにはあるものだ。それは、そういった人たちは創作時に常に、自分という人間の様々な面を意識せざるをえないからだ。


 作家たちは、創作を通じて、自分の作品と真剣に向かい合うことで、自らの人生を問われている。そして、そうやって完成したものが今度は我々に、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と人生を問い直すようになる。だからこそ、そういった作品が我々の心に「何か」を呼び起こさせる。

 それはつまり、「作品」とは、我々の心の試金石のようなものであるということでもある。

 だからこそ、心が豊かな人は様々な作品に触れ、そこから何かを得ることができるが、心の貧しい人は「値段」とか「評価」とか「人気」とか、そういった後から付随してきたものでしか作品を見ることができないので、何も得ることができないのである。

 「作品」は「作家」の「人生」なのだ。

 だから、作家に引退など存在しない。死ぬまで創作しつづけるしかないのだ。大正生まれの山崎豊子がさんざん罵られながらも書き続けるのも、その使命感があるからだろう。描くのは「正しさ」ではない。「人間」の感情そのものなのだ。

 それをわからない批評文は、取るに足らないものだと断言できる。なぜなら、作品と真剣にぶつかっていないからだ。作家が真剣に書いた作品と、真剣に闘っていないからだ。そこに心のギャップが生まれるのはムリからぬことで、「期待していたのに裏切られた」なんて言葉はまさにその最たる例だ。

 そういった面でも、作品が心の試金石である、ということが言える。

 本来、作品に触れることは、闘いのようなものだ。そうでなければ、作った人に対して失礼だと私は思う。人、一人の人生をカンタンに切り捨てることなんて、そうそうできるものではなかろうか? それとも、あまりにもライトな作品に触れすぎて、そういうことを忘れてしまっているのではなかろうか?
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