死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2012.09.07 00:59
 ひとくちに「体罰」といっても、やっぱり色々と意見はあると思うんですよね。

 やれ、「必要悪」だとか、「なくても育てられる」だとか、そりゃもう、十人いれば十通り、百人いれば百通りの解答があると思うんですよ。でも、行き着くところは「正解はない」ってところになったりして、結局収集つかずに終わってしまう・・・・ってことはないでしょうか? もしくは、結局、持論に落ち着いてしまうか。


 「体罰」で思い出すのは、私の知人が言った言葉ですね。

 「親に殴られたことがない人間は、すごくいい人か、すごくヤな人しかいない」と。
 実際のところ、どうでしょうね? 世の中、そんなカンタンに「○○だから◆◆だ」なんてことばかりじゃないと思いますし。

 ただ、そういうことで性格が決まると言うわけではないと思うのですが、性格の資質、みたいなものは「体罰」についての親の考え方の影響って、凄く大きいと思うんですよね。


 ちなみに、私事で恐縮ですが、我が家は、「体罰禁止」で育てられました。

 その理由は至極カンタンでして、我が父が、自分の父親(つまり私の祖父)に、よく殴られていたから、それがホントにイヤだったから、子供にはそういう想いをさせたくない、とのことからです。とっくに故人ですが、祖父は、空手と柔道の有段者で、軍隊にもいた、それこそ「昭和の人」ですから、そういうことがあったことは理解できるのですが、実際に孫と接している姿からすると、とても想像はできなかった想いがあります。

 やや脱線してしまいましたが、そんなこんなで、父は、「どんなことがあっても手は上げない」と心に誓い、実際に実践してきたワケです。私も、叱られた記憶は多数あれど、殴られた記憶はどうしても思い出すことができないので、やっぱりなかったのでしょう。そもそも、暴力的な行為をされたこと自体、あまりないものですから、そんなことがあればきっと憶えていると思うのですよね。もともとマジメな性格ですし、恨み深い性格ですからね。

 そんなこんなで、幸いにも、そういった「体罰」には遭遇してこなかったんですが、だからというのもあるのでしょうが、やたら「体罰は絶対必要」とか「体罰があったからいけないことがわかった」とか言う意見にはどうも、首をかしげてしまいます。
 別にそれは、「体罰」を用いなくても伝えられるだろうと。そもそも論ですよね。


 だいたい、人が人に暴力をふるう際、その権利と責任の所在はどれだけ明確になっているかということを考えると、結構世の中、雑にできているなと言わざるを得ません。

 たとえば太平洋戦争期の各地の大空襲や原爆投下により、非戦闘員である民間人(女、子供含む)を大量虐殺した「罪」に対していったい誰が責任をとってくれるというのでしょう?

 未だにそれで裁判をしていることもあるというのに。福島原発の件もそうですよ。結局、誰も責任をとりきれない。放射能の責任をとりつづけることなんて、ムリなんですよね。人間の寿命より長いものを。そういった面で私は原発に反対するのですが、それはいわゆる「数の暴力」の最たるものだと思うんですよね。
 はたまた脱線してしまいましたが、「暴力」というのは、こういった「理不尽」さがつきものだと思うんですよ。


 で、テーマの「体罰」についても、「とにかく従え」というのでは、理不尽きわまりないですよね?

 だから、グレたりするんじゃないでしょうか?

 それを、「腐ったリンゴ」だとか言ったところで、今度は言葉の暴力じゃねーかと思うのもムリはないわけで。まぁ、数の論理とか権力でつぶされてしまうこともありますが。

 「暴力」って、大事なのは、受け手がどう感じるか、なんですよね。

 こんなご時世なんて、部下が自分の仕事を否定されるたびことあるごとに上司に「パワハラじゃないのか」と真剣にブツブツ言ってる姿を目撃しますが、あれは逆の暴力ですよね。権力の、恣意的な行為。自分の仕事の責任は上司がとるということをわかっているのでしょうか?

 かたや、子供に対する親の暴力、いわゆる「体罰」はどうなんでしょう?


 そもそも論として、親は子供を育てる義務があると言えばあり、責任を負う立場と言えばそうなんですよね。
 だからこそ、親が子供を「しつける」ことは、非常に理に適ってはいるのですけれど、逆に言うと、それが「社会に対する責任感」であるならば、たぶん、問題としては大きくならないと思うんですよね。「こうこうこういう人間に育つべき」という想いで「しつける」なら、理解はできると。

 ただ、それ抜きの「悪いことしたから」とか、「このままじゃロクな大人にならん」とか、そういうのって、「推測」でしかなくないですか?

 ウソをついたから「罰」
 ごかましたから「罰」
 いい子にしてないから「罰」

 でも、現実問題、大人でもこれをキッチリ守ってると言えば、そんなことないですよね?

 サンタさんがプレゼントを持ってきたとか
 赤ちゃんはおへそから生まれるだとか
 仕事の愚痴ばっかりこぼしたりだとか

 やってません?

 子供が小さい内ならまだしも、小学生になって知恵がつけば、大人の欺瞞なんてすぐ見抜きますからね。そうなればますます逆効果になっちゃいます。

 そういうことを考えると、大人が、自分の言動に責任を持って「しつけ」ているのか、そこが問題になるんじゃないでしょうか?


 誰だって完璧な人間ではありません。

 ですが、このご時世に、「体罰」と呼ばれることをする人間は、自分をそれに近い存在として認識していることが多いように感じます。口ではそんなこと一言も言いませんが、無意識に、自分は「絶対的に正しいものに従って行動している」という、「思い込み」があります。

 そしてその正しさというのが、宗教の戒律に従っているということでもなく、法律の精神に則っているということでもなく、「○○はダメ」とか、「そういうルール」とかみたいな、常識というか慣習であったりと、「実態のないもの」が多いです。

 「実態のないもの」は、文字通り実態はないので、時と場所で変化しますし、都合よく作り替えることも可能なので、それを使うことに対して、責任をとらなくていい代物であります。何せ、形がないから責めようがない。

 ですが、小さな子供は、そんなことを知らない。

 だから、「お前が悪いんだ」と洗脳のようにくり返しくり返し責められ続けるという悪循環に陥ってしまう。「疑う」ことを知らないし、「疑う」ことを、親から教えられないのです

 これは、不幸ですし、生き抜く上での大事なスキルを教えない、親の怠慢であり、一種の暴力です。


 これと同じことが、DVとか、モラハラ配偶者とかにも言えます。
 この場合は、「結婚制度」という実態のあるものに、「愛」という「実態のないもの」を巧妙に絡ませることで、自分の有利な方に持っていこうとする支配のテクニックです。「結婚」は愛し合った二人が協力することで、「疑う」ことこそ、もっともよくないことだとされています。

 だから、マジメな人ほど、ちゃんとしてる人ほど、こういうのから抜け出せなくなります。

 そんな状態ではすでに「愛」などないのにも関わらず、それを、「結婚」という実態のあるもので「偽装」しているのです。「一緒にいるから・・・」「一緒になったには理由があるから・・・」「子供がいるから・・・」と。


 このご時世の、子供への「体罰」もそうだし、大人への「DV」もそうですが、両者に共通していることは、行使者は、「実態のないもの」を、まるで「聖典」であるかのように思い込んでいることです

 なんでそこまで思い込めるのかというのは、ひとつに、自分自身の考えとマッチする部分があるということもあるでしょうし、ひとつに、そうすることで、「自分の責任」を考えなくていい、という非常に利己的な考えがあるからでしょう。

 だから、責任を取れない人間のする「しつけ」は、すべて「体罰」であると私は思うのです。

 だって、そんな人が、子供の未来に責任をとれるのでしょうか? 「しつけ」は子供の未来に対しての親の「責任」です。ですからそこに、慣習とか、世間とか、関係ないでしょう? 大事なのは、親が想像する「未来」に対しての、子供に与えておくべき「生きるためのスキル」を身につけさせることが、本当の「しつけ」であるはずです。

 あくまでも「未来」だから、親の考えが百パーセント正しいということはないかもしれません。
 でも、間違っていた部分や足りないものは、本人が補完していくものなのです。子供だって大きくなれば、親だって完璧な人間じゃないとわかります。その時に、親が必死になって「親としての責任」を果たそうとしたかが、結果となって返ってきます。
 「老人ホームに入れられて一人」みたいな人も、世の中にはたくさんいますから。


 もちろん、体罰やDVの行使者は、そういった「実態のないもの」を疑う習慣を親から授けられなかった哀れな人たちと言えばそうなんですが、だからこそ、虐待は連鎖するとも言えます。

 行為に対しての正義の有無は、人道的見地とか、子供にとっての影響とか、そんなんではなく、「だって正しいんだもん」という、思い込みに支えられているからです。ですから、止めようがない。

 「実態のないもの」を疑うことを知らないから。
 他人だけを疑い、自分を疑うことを知らないから。



 以上のことを踏まえれば、「しつけと言われたらしょうがない」とはならないのではないでしょうか?

 もちろん、その親がどんな思考プロセスで「しつけ」を行ったか、当事者にはわからないかもしれません。でも、「想像」しようと思えばできるのではないでしょうか?

 たとえば、ゴミの分別もできない人が、子供のささいなウソに対して「しつけておかないと、ロクな大人にならない」なんて言って体罰を行ったとして、「しつけならしょうがない」なんて言えますかね?

 「しつけ」という、「実態のないもの」を疑う必要、ありません?


 現場の人間が、そこをわかっていないとは到底思えません。

 でも、それを理由に親に制限をかけられるほどの仕組み作りが、まだまだできているとは言えないのが現状でしょう。行政職員に、それだけの権力が与えられていないのです。警察が協力しなければ、家にすら入れない。しかし、いじめ問題もそうですが、警察が介入すると、かなり大ごとになる。

 そのベースには、家庭内でも、学校内でも「自治」があり、尊重すべきという考え方があるからだと思うが、だからこそ、「しつけと言われたらしょうがない」とか、「イジメを把握できなかった」とか、ブラックボックス化したものに手が出せなくなっている。いや、そうしている、というのが正解か。

 だからといって、強硬的にやるべし、という極論もどうかと思うが、「自治が成立してないから、児童虐待もあるし、イジメによる自殺もある」という、「実態のあるもの」を重視するのは大切なことだと思う。


 「しつけと言われたらしょうがない」って言葉は、究極的に「実態のないもの」ですからね

 そんなもの議論したって、答えは出ませんよ。

 イジメをどうなくすかも然り、です。
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