死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2013.02.04 12:10
 「熱心な教育指導」と「体罰」は紙一重だと言う意見って、多いですよね。

 でも、普通に考えればわかるけど、違うよね?

 教育に携わる人間は、何のために働いているのか?

 子供の未来に仕える仕事なんじゃないのか? だからこそ、「聖職者」と言われるのではないのか?


 たしかに最近の先生は、「仰げば尊し」みたいな人は少なくて、友達感覚的な、人間味のある人が多いけれども、それでもやはり、子供の未来を案じている人がほとんどだ。もちろん、なかにはニュースに出てくるようなアレげな人もいるかもしれないけれど、一般社会にくらべたら圧倒的に少ないと思う。
 実際、教育現場に入って仕事したことがあるけれど、おかしい人はそういない。むしろ、一般企業よりも明らかに、社会や子供のことを考えているのは疑いのない事実だ。

 体罰問題が五輪代表にまで及ぶほど拡大している現在、賛否両論が渦巻いているけれど、そもそも、「体罰は是か非か」というシンプルな議論に持っていくことそのものがおかしい。原発問題もそうだけれど、「議論する=どちらか正しい方を選ぶ」という簡単な二極化に持っていくことこそ、諸悪の根源じゃないかと私は思う。なぜなら、これで問題が解決するとは思えないからだ。問題を提議するのによく使われる手法が、目的になってしまってる・・・大人の社会ではよくあることだが、非常に恐ろしい傾向だと思う。

 で、そんな世の中にあって、当事者の子供たちはどうすればいいのか?

 今日も新聞には、「体罰問題のあった高校の駅伝強豪校」の話が載っていました。
 体罰問題があった監督は参加できず、主将はレース直前監督に電話を入れて激励されたとか、報道陣に向かって「監督のおかげ」と言ったとか、強豪校にした指導者なので卒業生の親らがゴール付近で監督続投の署名を求めたとか、把握している体罰は12件あって転校や退学した生徒もいたそうな。

 日本のスポーツ界って、いわゆる「軍隊式」であっても、「結果」さえ残せば多少やり方に問題があっても、目をつむろうってところ、多くないでしょうかね。いや、海外がどうなのか実際にはわからないんですけれど、日本人に多い「仕方ない」がここでも発揮されることが多いように思います。それは、たぶん日本人の美的感覚として「苦労して苦労してたどり着く」というのが好きというのも多いに関係しているでしょう。

 「楽したらあかん」と。だから、厳しくするんだと。

 相撲でも体罰による死亡事故がありましたし、おしどり夫婦で人気のプロレスラーが「シゴキ」で事故死させてしまったということもあったようです(真偽のほどはわかりませんが)。

 「スポーツは他者と争うのだから、どんな辛いことでも負けない心を育てる」という一種の愛情表現が、日本スポーツ界にはびこる「愛のムチ」。

 これはたしかに、戦前から戦後にかけての厳しい時代を生きてきた人が手に入れた、たったひとつの「真実」だったのかもしれませんが、それを「押しつけられる」方はたまったものではありません。
 そうしなければ絶対に成功しないかといったら、そんなことはありません。だって、「真理」ではないですから

 「体罰?必要です!感謝してます!」
 という成功者もいるけれど、それがあったからこそ・・・って思ってる人ばかりではありません。実際に、昔の優勝監督がはびこらせた「体罰」を禁止させて黄金時代を作った、前中日監督の落合博満みたいな人もいますし、中学時代から「その体罰に納得がいかない」と言っていた中田英寿みたいな人もいますしね。


 暴力の問題は根が深い。

 それは、未だおさまらない日中・日韓関係を見てもあきらかです。

 よく、相手国の「国民性」を問題にする人がいますけれど、相手国の国民性に問題があるとしたら、こちら側の国民性にも問題があるという発想を忘れてはいけません。

 そう、それはちょうど結婚みたいなものです。
 妻が悪い、旦那が悪い・・・そんなことを言い合って、何が解決するというのか? そうなってしまうのは、そもそも、解決する気もないし、自分たちの負担を減らしたいだけの人間の欲望がそこに垣間見える気がします。

 それがたとえ、9:1にしても、非があることを認めた上で「お互いにとって」よりよい関係を築く・・・つまり、離れることになっても相手のことを想いやれる気持ちが必要ということです。
 これは結構たいへんなことです。愛情がなくなった人に愛を注ぐみたいで・・・だから、なかなかできないんですが(まぁ、国交間の問題は「一度何対何で決まったのに蒸し返しやがって」みたいな気持ちがついてまわるからもっとややこしいんですが)。

 体罰の問題も同じ。

 指導者が体罰をする。結果を残す。

 あら、全部正しい。やっぱり体罰は効果があるんだ。むしろそういうのを制限するのはダメなんだ。

 それは、10:0の考え方です。

 体罰に文句を言う方がおかしい。イヤなら辞めろ。殴られて鼓膜が破れても、そういった指導に嫌気がさしてそのスポーツ界から優秀な人材が去っても、「仕方がない」・・・。
 大相撲の季節になると必ず「日本人横綱が生まれない」ことがネタになりますけど、こういった所に根っこがあるんではないでしょうか? ちょうど、大人社会でも、就業環境が良くない会社は、優秀な人材ほど辞めていくのと同じように・・・・。


 日本は島国根性があるというのは皆さんも認識していることでしょうけど、スポーツ界、とくに学校スポーツ界でもそれは特に顕著なんじゃないかな、と思います。

 自分たちで道を切り拓くことができないから、たとえ問題があっても、それができる人に頼りたい。多少の問題があっても、成功例の方が多いのだから、そこは目をつぶろう。それが、子供たちのためになる。
 結果が伴えば、将来にも繋がるし、成功体験を味わえる・・・・それが、反省しない体罰指導者を生む温床になるのでしょう。

 子供たちの声に耳を傾けない、子供たちのためを思って心を鬼にしている大人たちが、本当に鬼になってしまっている・・・というのがおそらく、体罰問題の、本当の問題だろう。

 特にやっかいなのは、「感謝してる」って人がいるところですよね。それが、気づかないうちに「鬼」を育てている。昨日は節分でしたが、まさに「鬼は外」と言うのは、大人になってからかもしれません。


 大人の社会では、清濁があるのが人間で、多少問題があっても、結果が良ければ目をつむろう、的なことはしょっちゅう行われております。でもそれも、いつまでも許されるものではなくなってきているのが現実。

 昔は、「セクハラ」は泣き寝入りが常識だった。

 でも、今は逆に上司が「セクハラ」におびえる職場も出てきている。

 どちらが正しいとかが問題ではなく、忘れてほしくないのは、大きな時代の流れをつかむことだ。

 体罰教師は、体罰教師の生きた時代に身につけた成功体験を、子供たちに味あわせたいという「愛情」から、「心を鬼にして」結果、体罰をくり返す。なんど学校から指導されようが、子供たちがいなくなろうが、「成功」のためには、多少の犠牲もいとわない。

 なぜなら、その方法しかできないから。それ以外の方法では、結果を残せる自信がないから。その自信を作る方法論を構築してこなかったから・・・だから、自分にできるベストを尽くすしかない。期待に応えることが大事だ・・・彼らの思考プロセスはおそらくそうなのだろう。

 だから、恐ろしいことだけれども、当事者の声はさておき、「卒業生の親が署名活動」なんてことも起きる。「厳しくされたけれども、今の我が子があるのは監督のおかげ」と。結果しか見ていない。教育には、プロセスも大事だというのに・・・・。


 でも、その「成功の船」に乗れなかった人はどうなるのか?

 そこまで考えている体罰教師はおそらく、少ないだろう。なぜなら、そこから逃げだした「負け犬」は、人生も「負け犬」になると信じて疑わないからだ。

 たしかに、何ごとからも逃げ続け、成長しない人は現実にはいる。

 だが、昔使われていたけど、今はほとんど使われなくなった「腐ったリンゴ」方式で育てる教育は、社会に負の影響を及ぼすドロップアウターを創り出すことがわかっている。そういう教師がいなくなったワケでは決してないが、「それは果たして、社会にとって益があることなのか?」と考える人が増えたということだ。
 そういう大人は必ずいる。目に見えない「結果」を見られる人だ。

 もちろん、そうでない人間もたくさんいる。

 大人はついつい懐古主義にひたりがちだ。誤解を恐れずに言うならば、中途半端に成功した人ほど、自分の成功を客観視できていないから、安易に「これが正しい」と断言してしまう傾向があるように思う。嫌われ者のワンマン社長とかもその典型だろう。

 中途半端な成功でも、成功しないよりはマシ。

 それが、大多数の大人にとっての「真実」。

 それが結局、暴力に見舞われる子供を生み出す温床になる。大人たちに「悪意」はない。むしろ、本人たちは「善意」だと思っている。

 だが、大人の社会では、「善意」が人を殺すこともある

 むしろ、善意だと思っているからこそタチが悪いこともかなりある。原発問題も、諫早湾の問題も、長良川河口堰の問題も、ベースは利益だけじゃなく、「善意」だ。だが、それで苦しむ人は確実にいる。それが見えなくされているだけだ。

 また、それを教えない大人があまりにも多い。綺麗事で塗り固められたものを伝えることが教育だと信じ切っていることなど、まさに「善意」による暴力そのものだ。

 現実は、その通りにできていない。なのに、それしか見せない。それを「暴力」と言わずになんと言うのか?


 体罰等、理不尽なことに負けず、非常に優秀な結果を残す人間は、スポーツ界に限らず、そのことを理解している人間だ。その、「非常に優秀」というのは、周りがどう言っているかとかそういうレベルではなくて、「あの人は○○をしたんだ」という枕詞さえ不要な人だ。その人の言葉そのものが、言霊になるような。

 体罰問題は大きくなったからこそ、以前よりはマシになることも多いとは思う。
 けれど、そういったことが絶対なくなるとは言えない。それは、どんな立派なシステムを作ろうが、人間そのものが入れ替わらない限りなかなか難しいから。そして、そんなことは現実問題、不可能だからだ。

 だからこそ、そういう問題の当事者になった人、特に体罰やイジメを受ける側の人は、そういったことに負けずに生きていくことが必要となる。それは、目の前の「成功の船」に乗れないという辛さを受け入れることに他ならない

 でも、よく考えてほしい。

 あなたが乗りたいのは、その「成功の船」なのか?と。

 本当に、その船しか、この広い世界にはないのか?と。


 高校生ならば、ある程度自分で学校も選べるけれど、義務教育を受けている子供は、学校を選べない。それでも、自分が乗る船は、自分で選ぶ気持ちを持ちたいところだ。

 あなたが乗りたい船は、ルフィが船長を務める「サウザンド・サニー号」か? エースの船か? シャンクスの船か? それとも「黒ひげ」の船か?

 子供でも、人生を選ぶ権利はある。むしろ、子供にこそ、人生を選ぶ権利はある。大人は養わなければいけない者がいるからこそ縛られる。でも、子供はその面では自由だ。その事実こそ、疑いようのない「真理」だ。

 だからこそ、子供が自らの手で人生をつかみ取り、自分の人生を生きていかなければならないし、それこそが、本当の成功だ。大人たちが言う「成功」は、本当の成功じゃない。それはたしかに「嘘」ではないかもしれないが、必ずしも「本当」とも言えないからだ。

 どっちかが正しいという安易な考え方にならず、必ず「側面」を見る習慣を持つことだ。そういった発想を持ちつづけることが、成功への秘訣だ。そしてそれができれば、体罰しかできない教師に「違う意味で感謝」することができるようになる。精神的にも優位に立てるだろう。


 そのためには、学校とは別の、そういった「真理」や、それを見つける術(すべ)をもたらしてくれる、小説やマンガ、映画、美術、音楽など、精神的栄養を与えてくれるものに触れることが大切だ。それこそが、本当の意味での「教養」だ。体罰教師の辞書には「強要」はあっても、「教養」はない。だから、押しつけるしかできないのだ。

 大人たちは神サマじゃない。だから、すべてをすべて信じる必要なんてない。また、それを伝えるのが、作り手たちの仕事だ。学校に行かなくなってもいいが、そういったものに触れることは欠かさないでほしい。
 それが無駄に耐えることよりもずっと、あなたを強くするかもしれないから。

 そして、それをわかって伝えてくれる教師こそ、本当の聖職者だ。
 なぜなら、あなたの人生そのものを、真剣に考えてくれているからだ。


 世の中は、一本化されていない。複雑なバランスの上に成り立っているものなのだ。

 その中で、ひとつの成功パターンだけで生き残れるとは限らない。むしろ、大人社会を生きてきて思うが、それがあるために、成長せず、人に害悪をもたらす大人たちのなんと多いことか。

 それが結局は「暴力の連鎖」を生む。
 これは、体罰じゃなく、「児童虐待」の連鎖にも言えることだ。

 世の中は本当に多様である。そのことを常に忘れないことだ。それが、結局は、人間の価値を高めることに繋がる。周りが思う「成功」だけを追い求めると、それが見えなくなってしまう。

 あなたは、そんな人間になりたいのか?


 最後に、ちゃんとした大人がいるからこそ、この世の中に絶望しないでほしいというメッセージを含めて、大人たちが子供たちに読んでほしい本として「青少年読書感想文コンクール」の課題図書に選んだ本から引用する。

 戦争という暴力から人生哲学を学んだのか?という質問に答えた、サッカー日本代表の元監督、イビチャ・オシムの言葉だ。

「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」(木村元彦著『オシムの言葉〜フィールドの向こうに人生が見える』)


 たとえ、「体罰」から学んだとしても、それをくり返すことは、人として正しいことだろうか?

 少なくとも、我が父は、それをしなかった。柔道の有段者である父親(私の祖父)に体罰で育てられた父は、自分の息子である私たち兄弟には「絶対に手をあげない」と誓って、実際にそうしてきた。だからこそ私は言える。「体罰などなくても、成功できる」と。

 愚かな歴史や、くだらない現実に負けないでほしい。
 
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