文は人なり

"The style is the man."――文は書くものじゃない、書こうとしたものが文になるのだ

 劇場版『ZガンダムA New Translation―星の鼓動は愛』を観る。

 3部作を見終えて思ったのは、これはガンダムだ、ということだ。

 作品論的に言ってしまえば、「評価はするが得点は高くない」という作品なのだと思う。「売れにくい」、もっとハッキリ言ってしまえば「売れない」作品のような気がする。もちろん、レンタルの回転は早いとかいう部分では売れると言えるが、宮崎アニメのような「売れ」方は期待出来ない。万人受けしないというか、ガンダムファンしか見ないというか。

 だが、これは間違いなくガンダムだ。
 ガンダムというパワーコンテンツという商業的な意味ではなく、ガンダムというメッセージ性の高い作品という意味で、ガンダムだと思う。そしてそれこそが20年以上経った今もなお見続けることができる作品にさせている理由だと思う。
 ちなみに商業的なガンダムの象徴は『機動戦士ガンダムSEED』シリーズであると言えるだろう。

 そもそも、(一部の?)大人になった男たちを夢中にさせている『ガンダム』とはいったいなんなんだろう?

【完成度で計りきれないガンダムという作品】

 『ガンダム』とはそもそもマーケットを意識した作品ではなかった。
 歴史的な話はほどほどにしておきたいが、 元々はそれまでの「オモチャメーカーの宣伝」的なロボットアニメの流れから少し離れて、もう少し高年齢層に「アニメでも映画のように伝えられることがある」という想いをぶつけた大人のアニメがガンダムだった。それゆえに本放送当時はお子ちゃまに理解されず、「打ち切り」をされているが、再放送とガンプラにて人気が出て、今に至る。
 このような流れも踏まえると、商業的なガンダム(当時はプラモ)があったからこそ、作品としてのガンダムが長続きしたのも事実だ。私がその口だからそう思うだけじゃないはずだ。

 だが、ガンダムという枠組みで見た場合、商業的なガンダム(プラモから派生したメディアミックス的なガンダム、SEEDとか外伝的なOVAとか)と、今作のような本流ガンダムはずいぶんと違う。

 何が違う?
 一言で言えば、熱さが違う。そう、熱さが違うのだ。面白さではない。カッコ良さでもない。楽しさでもない。熱さなのだ。

 もちろん、ガンダムのOVAなどが熱くない、というつもりではない。が、それらはガンダム世界に基づいて描かれた作品である。しかし、ガンダムの本流はガンダム世界を創っているのだから、その根底に「新しい何かを創り出す」という熱さが込められているのは間違いないのだ。それを、今回の新訳Zガンダムで見ることが出来たと思う。いや、正確には、ファーストガンダムに込められていた流れを正しく「継いだ」ように思う。

 そもそも、熱さが込められた作品とはなんだろうか?

 例えるなら、人気のプロミュージシャンが作ったラブソングというのではなく、思いの丈を込めに込めまくった普通の人の、ラブレターのような存在だと私は思う。

 プロがつくったラブソングは確かに聴いてて心地よいだろう。かたや、普通の人が書くラブレターがプロの書いたものより流麗な文であることはまずない。 確かに、ミュージシャンの作った美しいラブソングを聴いて一時的に身体をあずける女もいるだろうが、ラブソングだけで一生をあずけはしないのも事実だ。だが、ラブレターがきっかけで一生をあずける女だっているのだ。語り尽くされていることだが、ラブレターとはすなわち、「形より気持ち(が届くこと)」なのだということだ。

【ラブレターとしてのガンダム】

 思うにガンダムとは、ラブレターのようなアニメ作品と言えるのではないのか?

 確かにガンダムのカッコ良さとか、戦闘シーンの面白さとか、セリフ回しの独特さとか、宇宙時代というテーマとか、プラモの楽しみ方とか、色んな魅力があるのだけど、それが究極的に完成されている、という作品ではない。だからアニメ外からの評価はさほど高くはない。それはそれで事実なのだと思う。 

 とはいえ、ガンダムをラブレターとして考えると、ガンダムほど濃い作品はなかなかないのではないのか? とも思えてくる。

 ラブレターは知らない人が読んでも恥ずかしいだけのものである。だが、読む人にとっての想いが届くようなラブレターなら、それはどんなモノよりも価値のあるモノとなる。
 たとえば、読む人が持つ「自分はそんなに価値のある人間ではない」という想いに対して、「そんなことない。あなたは私にとって世界で一番美しい人なのだ」という真剣な想いが綴られたラブレターなら、それはプロの造った歌よりも「想い」が伝わることだってあるハズだ。

  ガンダムが主に男に受ける理由は、「ロボット」や「戦争」が描かれているからだけではないように思う。これはそういうものを観てきた人間の自己弁護だけでもないと思う。ガンダムファンじゃなくても残業して帰ってきてつけたテレビでガンダムの再放送に見入ってしまうことだって実際にはある。単に昔を思いだすだけじゃない、何か、男的に満たされるものがそこにあるのだと思われるのだ。
 言い替えるなら、男だからこそ、ガンダムにハマれるのではないのか?

 どんな男でも、子供が出来れば子供が産まれ育つ環境を守ろうとする。その視点に狭い・広いの幅はあるとしても、男たちは、「子供を産めない性」であることを自覚している男たちは、常に未来の社会のことを考えていると言っても過言ではない。

 そしてその多くの男たちが考えている「未来の社会における人間と戦争、そして地球」というモヤモヤとした想いに対して、アニメに携わる人たちからの想いを込めたラブレターこそがすなわち『ガンダム』なのだと言えるのではないか?

【ガンダムのあるべき姿】

 ガンダムは、その世界の中で特異な存在として描かれる。戦闘兵器なのに目立つ白色で、試作機のわりに性能が良くて、数が少なくて、特別な力があって、勝利に導く存在で・・・とその存在自体が特別な存在である。そして物語はそのガンダムとそれにまつわる人々を中心に進んでいくために、そのガンダム、最後には勝つガンダムには、ある種の神聖性が生まれていくのだ。

 とはいえガンダムは無敵の存在ではない。場合によっては「勝てそうにもない」力を持った強大な敵と戦わなければならなくなるときだってある。だが、ガンダムはその戦いに、ボロボロになりながらでも、勝っていくのだ。

 これを単なるヒーローロボットのカタルシスだと私は思わない。
 むしろ、「大人のため」のアニメの中にそういう存在を描き出したことに注目すべきだと思うのだ。ガンダムは無敵ではないのに勝たなければいけないのだから、そこには何らかのファクターが潜んでいるハズだ。でなければ、大人が納得するわけがない。

 マニアックな話かもしれないが(何を今さら)、ガンダムが勝てそうもない強大な敵と戦った時、どんなファクターがあっただろうか?

 ガンダムが超巨大兵器ビグザムと対峙した時は、スレッガー中尉の決死の特攻で突破口を開いて撃破した。Zガンダムがハンブラビと対峙した時は、争いを生むモノへの怒りが、ジ・Oと対峙した時は人としての未来を信じた人々の残留思念が、ZZガンダムがサイコガンダムMK-2と対峙した時はプルの決死の特攻とそのことへの怒りが、F91がラフレシアを撃破した時はセシリーへの想いが・・・とあげればキリがない。ファーストガンダム以降はかなり精神論的だが、目指すものは同じだ。

 その目指すものというのは、「戦争反対」というのではなく、「人としての在り方」、すなわち未来、希望をもてる未来のことであり、それを具現化する存在が、「ガンダム」なのだ。
 だからこそ、その中に登場する「ガンダム」というモビルスーツ(人型兵器)が、ボロボロになりながらも戦い、勝っていくというのは、その未来に対する一筋の希望の一つの形であり、そのために白い存在でなければいけないのだ。たとえファーストガンダムのガンダムがスポンサー的な「目立つ色で」というプレッシャーがあったとして、『ガンダム』はそこから始まっているのも事実だ。

 だからガンダムより強い敵が出てきても、ガンダムは戦い自体に勝つのだ。そうでなければいけないのが、白いモビルスーツガンダムの宿命なのだ。

【ラブレターだからこそ…】

 ガンダムとは他の娯楽作品と多いに異なるのは、「感動」や「愛」や「おもしろさ」だけが目的ではない、ということだろう。だからこそ作品として評価しにくいけれども、何度も見たくなる不思議な作品なのだと思う。伝えたいことだけではない、というのか。
 だからその前で価値論や作品論を交わすことだけが、この作品と付き合う基準にはならないと思う。いや、そもそも、計りきることが出来ないのだ。そして、そういうアニメ作品こそがガンダムなのだ。

 ラブレターも同じように自分の気持ちを伝えるだけのものにも思える。
 しかし、ラブレターとして成功するラブレターとそうでないラブレターにはやはりどこか違いがあるはずなのだ。ガンダムはそこを埋めているのではないのか?

 それがなんであるかというのを具体的に列挙する気はない。ただ、ラブレターというのは、いいラブレターというのは、「いつまでも取っておきたい」と思うのも事実だ。

 夫とケンカをした妻が、ふと押入を開けて、昔のラブレターを見やり、出会ったころの二人に想いを馳せる。ガンダムとはそんな日常の世界で必要とされる、そんな作品なのではないのか? だから我々は、今日も深夜に再放送されているガンダムを観るのだ。

 結婚した人間がラブレターを読み返すというのは、その想いの歴史をたどることにある。

 ガンダムをラブレター、ガンダムの生みの親である富野監督からのラブレターからだとすると、7つのガンダム(そしてその1つを書き直した)の歴史を見ていくことで、クリエイターとして想いを伝えるのに悪戦苦闘した歴史も、そこで視聴者が得た「愛」に相当する何かを一生を共にする存在にしていくのがガンダムなのだと思う。

 そしてガンダムはラブレターのように大事にしまい、必要な時に見るような存在となっていくのではないか――

 ガンダムというモビルスーツの存在と、それにまつわるガンダム物語の本質については、「劇場版Zガンダム3レビュー~ガンダムになったZガンダム」に書かせてもらうので、合わせて見ていていただければ幸いです。














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