死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2006.06.24 23:59

 ラジオでプロ野球中継を聞いていると、この試合のために、中日・森野の両親やら近しい人がわざわざ名古屋まで応援に来ていると言っていた。しかも試合の途中で、森野だけではなく、広島出身の谷繁の出身地の応援団がやってきているとの話もしていた。

 「もっくん、もっくん!」

 こんなことを呼ばれていた谷繁元信(もとのぶ)は、寝耳に水だからたいそう驚いたそうだが、そんな知人が

 「○○町のみんなで応援に来とるけーの」

 と広島弁で話しかけたそうな(ちょっと不確か)。

 さて、野球の応援と言えば、「メジャーリーグは鳴り物はない」から太鼓やらトランペットやらはやめろ、という意見がある。キツイ人なら「騒ぎたいならカラオケに行け」とか言ったりしているのだが、それなら「そういうのが嫌ならアメリカに行け」という不毛な論議が生まれてしまう。

 ここで応援の是非を問う気はない。だが、意外と見落とされがちなのは、そもそも、そういうのが「応援」になっているかどうか、という点だ。

 確かにメジャーでは鳴り物の応援がない。

 だが、日本の野球文化において、鳴り物がない応援の方が珍しい。ほとんどすべての野球選手は高校野球を通過してきているが、TV中継でもおなじみのように、応援とはまさにプロ野球のものとさして変わらない。リズムを合わせ、盛り上げる、といったアレだ。
 日本に来た外国人選手は、この応援を好きになれるかなれないかでやはり成績も違うという話も少なからずある。

 そう思ってアジアの野球を見てみると、やはり鳴り物の応援がある。

 ようするに、「応援」というのは、その国の文化とかによってそもそも違うのではないのか、ということにぶち当たるのではないだろうか?

 アメリカのメジャーリーグにおいて、そもそも日本での「○○町」応援団というのが存在するのかどうか私にはわからない。だが、こういう地元の応援に対して、期待に応える、応えなきゃいけない、と日本のアナウンサーは100%語る。それはなぜだろう? そもそも、それが常識化しているからと言えばそれまでかもしれないが、日本人にとって、故郷の人ということはすなわち、その町のヒーローであると同時に、お世話になった人という意味合いもあるのではないのか。

 思えば、東アジア圏(≒中国系文化)の歴史には、戦争中にドラや太鼓を叩くシーンがおなじみである。彼らは、その集団としての統率のためにそれらの「打楽器」を使う。今でこそそれは打楽器ではあるが、結局はその目的は、集団を一つにまとめるための道具のようなものなのではないだろうか?

 今日、両親やらの応援団が来た森野は、満塁のチャンスに3回打順が回ってくるという、超のつくラッキーデーだった。そして彼は、最初のチャンスに自身初の満塁ホームラン、最後のチャンスに自身初のサヨナラタイムリーヒットを放ち、今日のヒーローとなった。

 お立ち台でのヒーローインタビューでの内容は自然と、「応援団」についての話題になる。そう、彼らがチャンスを与えてくれたのだ。

 日本人は、神に感謝しない。
 だが、「God Bress(神のご加護)」が必要がないかわりに、近しい人々に感謝するのだ。今の自分があるのは、彼らのおかげだと。そして、そんな人たちと一体化するために、打楽器などによる派手派手しい「応援」が必要となり、全員が神に近い存在になるのではないのだろうか?

 野球場は「ボールパーク」ではなく、戦場なのかもしれない。

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