死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2008.02.24 14:59

 実際に読んでみたおよそ一年後の考察はこちら

 ブックオフに入ったら目の前には「話題のなんたら」という帯が付いた本が置いてあった(うわーいいかげんな説明)。なんでも、元ホストが書いたケータイ小説の書籍らしい。

 期待しないで見てみたらやっぱり期待したとおりの(日本語おかしい)、レイプ! とにかく、まずレイプ! そしてイケメンホストとの恋!

 ・・・・・読むのは止めました。

 ケータイ小説が文学か否かという論争はまだまだ終わりそうにありませんが、最近は冷静な見方とかが増えてますよね。ネットでも

⇒ソーシャルメディアとしてのケータイ小説(CNET JAPAN)
⇒『恋空』を読む(濱野智史の情報環境研究ノート)

とか、2chのように「あれはクソだ」という感情論的な見方から離れた視点のものもちらほら目にします。それはひとえに、ケータイ小説を書籍化したものが出版部数が世間の人を驚かせるようになってきたからかもしれません。

 さて、その、レイプではじまったケータイ小説でしたが、やっぱ、読みたいと思わないのは仕方ないですよね? そもそもケータイでさっとサクサクと読むのに適した形で書かれているので、書籍として読むにはかなりツラいものがある。本を読む習慣のない人にはなんてことない(というかむしろ喜ばしい)かもしれないが、そうでない人には逆に作法が違いすぎて苦痛・・・・なのは私が歳を取ったということでしょうか(汗)。

 ケータイ小説の簡易な表現や展開は、きっと、作者が早く先を書きたい、読者が早く先を読みたい、そしてマンガやドラマなどの現代的なビジュアル表現に慣れた(50年前にはいなかった!)読者が共通にイメージできる世代の記号的表現が相まって、見た目以上の内容・情報を含んでいるのですが、それでも登場人物の行動や流れが、人間的に成熟した大人が見ると、たるい。その、共通記号とも言える表現が、安直すぎていろいろな経験を積んだ大人からしてみたら面白くないのでしょう。きっと。

 

 さんざんこき下ろして申し訳ないが、やっぱりこれを文学だとか文芸だとかと同じ座標軸で理解しようとするのは間違いなんじゃないかとも思う。

 たとえば少女マンガだったら、少年マンガのように派手なアクションシーンに重きを置かないから、人気マンガであってもイケメンが悪党を「ボカッ!」と殴るシーンが結構あるが、少年マンガだったらそんな「力のこもってない」殴り方じゃ守ってることにならない(というか相手を倒せない)と思われるからNG。でも、少女マンガの読者は「ボカッ!」だろうが「ドカッ!」だろうが、自分を守るために拳を出してくれたのが嬉しいのだからそれでOK。・・・・・とまぁ、このように、ケータイ小説の特殊な表現は、要するに見ている者が理解できればいい「表現」なので、それを無理矢理既存の「文学」とか「文芸」とかに当てはめて理解しようとしなくてもいいのではないのかと思ったりなんかり。

 特に、「編集者が介在しない」というメディアの特殊性上、 一般の読者にわかりやすい表現を作家が選択するというのは編集者の代替的な表現方法とも言えるのかもしれません。

 そんなわけで、別に存在を否定しはしないけど、むしろ私、見てて思ったんですけど、この、なんて言うんでしょう、一回で読んでわかるストーリー、次が気になるけどベタで破天荒な展開、なぜかモテる主人公、女同士の愛憎(レイプ含む)、妊娠・堕胎、そして男に騙される女! ・・・・・・・ってのは、要するに『昼ドラ』じゃないでしょうか?

 性行為のシーン(※ベッドシーンではない)があったりとか、昼ドラより過激ではありますけど、基本的な・・・・なんて言うんでしょう? (自分の日常にない)刺激と暇つぶしと感動と話題を、ケータイ小説と同じように提供するのは昼ドラ以外に考えられないんじゃないかとか思ったんですよ、私。
 これまではケータイ小説はマンガを小説化したもの、若い世代へのわかりやすい道徳本だと思ってたんですけど、今日読んだ本とか、話の内容があまりにも似ているお話が多いので・・・・「そうだ! 昼ドラも似たようなベタでイタイ話が多いな」と思ったんですよね。

 ケータイ小説を全てチェックしているわけではないからすべてこうだと決めつけてはいけないのですけど、昼ドラと考えるとヒジョーにスッキリするのです、私の中で。ドロドロから癒しまでいろんなケータイ小説があるんでしょうけど、こう考えるとこの「人気」が実にスッキリ理解できる(私だけかもしれないが)。昼ドラも凄い視聴率いいですからね!

 それに、昼ドラも色々ありますよね? フジでやるような「ドロドロしたやつ」とTBSでやるような「ホームドラマなやつ」とか・・・・・・ケータイ小説もそんな感じじゃないですかね? フィクションなのに真実性を含んだ「あり得そうな話」ではなく、「あり得ない話」だけど、変に「リアル」で、だけど娯楽性もあって、次が気になって、どんどん見たくなる。人間のドロドロした部分とか、美しい部分とか、手っ取り早く観たい・楽しみたい、という需要に支えられているというか・・・・だから、「数字」が取れる。

 

 もちろん、ノンフィクションのケータイ小説もありますけどね。むしろ、ノンフィクションなのに嘘くさく見えてしまうってことがあるのは、読者が、物語の読み方に慣れているからでしょう。物語は通常、物語が読みやすく技巧をちらして書かれてますからね。だから「文藝」という芸術なんですし。ケータイ小説にそれがないのは仕方ないでしょう、目的が違うのだから。

 しかし、ケータイ小説をそういう存在として割り切るなら、それはそれでいいのだと思います。昼ドラを求める人はやっぱり多いのと同じようなものですから。もちろんほとんどが女性でしょう?ケータイ小説と同じように。フツーの生活をしている、お手隙な時間に見るのに、ピッタリなドラマなんだと思います。
 でも、フツーのドラマじゃかったるくて嫌という読者/視聴者ニーズがあるので、あんな形になりますが。少女マンガも過激にしないとケータイ小説に負けちゃいますから、変な方向に頑張ってます。こちらは少年マンガ規制の絡みもありますけど。

 

 そう考えると、ケータイ小説に無理矢理いいところを探したり、理解しようとしなくてもいいのではないのかな?と思ったりした。
 もちろん、レイプ、リストカットなどの数はホントに多いんですけど文学はあまり相手にしてくれないので、昼ドラみたいなドラマでも社会に対して投げ掛ける何かがあると思うので、そういう役の立ち方もあるしね(その質に関しては問えないけど……安易な理解を促す懸念もあるからね。HIV=即死亡とか)。

 文章で書かれたお話なだけで文学だの文芸だのと言っているのは、どこかに活字ならマンガやアニメより上みたいな思想が根底にまだまだあるからですかね? それはつまり、学校で感想文に「活字しかダメ」って刷り込んでいるからですかね?

 ケータイ小説が今、学校でけっこうやってる「朝の10分間読書」でよく読まれているのは、大人たちのそういった活字信仰文化への皮肉なのかもしれません。「本は素晴らしい、とにかく活字を読みなさい」という建前に対応した、新しい若者文化の象徴とも言えるのかもしれません。昼ドラを学校で観る人いなかったのに、観る感じです。私にはそう見えて仕方がありません。
 それを悪いとはいいませんが、そういう「活字」の読み方ならマンガでもいいんじゃないかと思っちゃいます私。まぁそれは、マンガでも感想文が書けるならいいんじゃねえのか?と思う私だからかもしれませんが。

 新しいことに何か真実があると思って探すのも正しいのですが、新しいことに見えることのどこかに古くからある普遍的なものが形を変えて存在することも、あるんじゃないでしょうかね?

 そういうことを踏まえると、ケータイ小説は新しくて古いモノなのかもしれません。だから、支持される。新しすぎるモノは若者でも理解できないものですよ。若者がいつも新技術を見つけるわけじゃないですからね。その適応が素早いというだけで。

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