死ななきゃOK

死んだ方がいい、死にたくない、いろいろあるかもしれんけど、とりあえず、死ななきゃOK。っていつも言えたらなぁ・・・

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2013.04.22 01:48
 こんばんわんことそば。

 ・・・それはまたありそうでなさそうであるかもしれない組み合わせですね。どうでもいいですが。


 それはさておき、世の中、なんというか、うーん、な人もいますよね。「損して得取れ」ってことができない、なんか、「私、出来るんです!」とか「私、いじめられてるんです!」というのをくり返すといか。

 世の中、自分の思い通りに行かないのが常であって、だけれども、思い通りに行かせたいのも常であり、その為に頑張ってる(当社比)からこそ、憤りを感じてしまう・・・まぁ、私もないわけではないので人のことは言えませんが、やっぱり、それは何も生み出さない考え、つまり生産性のない話なんですよね。だって、そこはあきらめないと。

 でも、そうやって、あきらめることで見えてくるものがあって、そのなかで、自分のできることをしていくこと、とくに、それを、与えられた中で満足するんじゃなくて、はみ出してはみ出して行こうとすることで、やっと、がんばりというのが報われるのが世の中ではないかなと。

 だって、「私、頑張ってます(当社比)」と言って、その商品が売れるかね?
 他にもっとよい商品があれば、そっちにいかないかね?


 人生は、自分の思い通りにはならないとはいうけれど、それは思い通りに行かないことをおかしいと思うのではなく、思い通りに行かせるためにすべきことをどれだけしたか、そしてその積み重ねがあってはじめて、思い通りに行く「ことも」あるんじゃないでしょうかね?
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2013.03.18 00:29
 こんばんはとこんばんわはどちらが正解でしょう?

 なんて話題でも「『今晩は』が語源なんだから、『は』に決まってるだろ、どこまでゆとりだ!」という、人を小馬鹿にする意見が出たりする世の中なので、まさにすべての人が気持ちよく感じるネタって本当にあるんだろうかと悩んでしまうこともありますが、それでも、今日、「世界フィギュアスケート女子」での、バンクーバー五輪王者のキム・ヨナの滑りは、心が洗われるようでしたよ。

 得点にも反映されましたけど、やはり、なんというか、一人だけ「芸術」ですよね。完成されています。

 まぁ、それが王者と言えば王者なのかもしれませんが、大きな大会に出てないからとかで力が出せないとか、そんなレベルの低いことはまったくなく、練習からすでにスケートをコントロールできる自信がうかがえましたし、滑り出してからジャンプまでの流れ、ジャンプ中の見ていての安心感は、残念ながら他の選手からは感じられないものでしたし、実際、そういった期待を持ってみんな見ているのに、その期待に押しつぶされず、むしろその期待を良い方向に裏切ってくれる演技を成し遂げられるのは、一言、「素晴らしい」と言うしかないですね。

 個人的には、ただただ美しいとしか言えないものを『芸術』というのだと思っていますが、まさに、今回のキム・ヨナ選手の滑りは、国籍や性別を超えて、スケートに興味がない人(私もさしてないんですが)にとっても、少なくとも「見て損をしない」芸術的な滑りだったのでは?と思います。

 「スケート史上最高の!」とまでは言いませんが、どんな立場の人であっても、とりあえず一番だったと瞬時に認めざるを得ない内容でした。それが、スタンディングオベーションを生むのは当然のことです。


 まぁ、国籍や性別を超えても、超えられない「思想」っていうのがあるのがまぁ、残念なところですが、でも、それこそが、「こんばんはとこんばんわの問題」と中身は大してかわらないですよね。
 それぞれの主張だけを尊重しても、世界平和にはぜったいならないですからね。

 ・・・・そうか、「嫌韓」とかみたいな発想って、世界平和を目指していない、ハナからムリだと思ってるから生まれる発想なのか、と感じました。

 まぁ、そういう層がいるからこそ実現しないと言ってしまえばそれまでで、そういう視点の低い発想というのは、いつの時代も変わらないなぁと思うのですが、そういったいつの時代もという長い時間軸で捉えることのできない人の意見もまた、美しさがないし、とても芸術性を感じることもないし、そうなると自然と「レベルの低い議論」となってしまいますよね。
 でも、だからこそ、レベルの高いリーダーがそこを引っ張るべきなんでしょうが、そもそもレベルが低い人は、理想も「現実的と言われる理想」しか追わないので、芸術的なリーダーを見出すことは、まずできないでしょうね。

 スティーブ・ジョブズが復帰するまでのアップルなんてのが、その、最たる例ですよね。


 やっぱり、芸術的なものって言うのは、偉大な人間になりたいと思ったら、触れておくべきです。それは間違いない。くだらない議論に時間を割いてるのは、もったいないですよ。

 「いいもの」に触れて行きましょう、いいものに。それは、世界共通ですよ、やっぱり。表面的な意味ではなく、本質的な意味で、ね。
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2013.02.04 01:51
 どうも、気がついたらiPhone5になっているtkiyotoです。

 でも、今さら変えても大して目立たないんですよねぇ。そう。残債が残ってる4Sから乗り換えるという大胆なことをしたことを除けば(通話用のSoftBank端末がほしかったのでキャンペーンを利用したのです)。


 さて、画面が縦長になったiPhone5で何をしているかというと、家で書いた転職応募用の文章を、出先や風呂で書いては書き直し、書いては書き直しというのを行っているんでありますよ。

 5は画面が広くなったんでいいですね。これまで、FC2ブログのアプリとか、Evernoteとか、アップデートされる度に文章表示画面が狭くなった印象がありましたが、画面自体が大きくなれば、全然気にならなくなるというかむしろ快適に使える気がします。難しいですよね、色んな人にとってのベストってのが。

 で、話を戻して応募文の話なんですが、私、こうやって文章を書いて10年以上経つわけですが、仕事運もあるみたいで仕事も結構うまくいくことが多いんですが、それをまとめて文章にするのって本当に難しい。攻略法的なものも読むけれど、いや、ホント難しい。自己PRって何よ?的な。

 だいたいそもそも、自己PRなんて普段しないんですよね。

 「男は黙って背中で語れ」なんてことを小学生の頃から思ってたぐらいなんで、大人になってPR術が身につくわけでもないし、自分から積極的に友達を作るわけでもないし、詐欺とかしようと思うような性格でもないし、ナンパもしないので、なかなか身につかない。身につけようとせずにここまで来たからなおさら。

 営業やってりゃ「自分を売ることだ」みたいな口伝もありますけど、自分を精一杯売るとかしませんからね、私。だからか最初の印象はよくないということが多いのですが、時間が経てば、わかってもらえて、信頼もかなりされるようになるんですけれど、最初は、やたら攻撃されますよね。なぜか。
 私自身、悪意はまったくないんですけど、はじめの内は危害を加えようとしていると思われるのか、それとも笑顔が足りないからか、おそらく「クッション力」に乏しいんでしょうが、人の利益とか抜きにして、世の中に対してどうであるかという次元で考えた行動をするので、みんな、最初はきっとわからないんでしょうね、何考えてんだコイツは的な。最終的には理解してもらえて、なおかつ異常なまでに信頼されますが。

 まぁ、自分自身も「簡単にわかられてたまるか」なんて若い頃は思っていたので、そういったスキルを身につけることもなく現在に至るわけですが、水が染みこむように影響力を与えることができるし、その影響力を持続させられる人間ですってのは、PRしづらいですよね。いや、それを書けばいいんでしょうけど。

 どんな仕事してきたかって、目に見える形もそうだけど、目に見えない仕事もたくさんしてきているわけで、それが他の人に影響を与えているってのも自分ではわかるけれども、それって、表現しづらいんだよねぇ、ホント。小さな仕事ほど、その人が見えると思うんだけど・・・。

 だから開き直って「仕事させりゃわかるよ」なんて口には出さず黙って仕事に取り組んで、結果を出して、周りがそれに驚く・・・なんてことをくり返してきたわけですけど、いざ、自分が入りたいと思うような所に行くとなると、そんなデカい態度でいられない自分がいて、何を書くのがベストかとここ2~3週間ぐらい考えているわけです、ハイ。


 ここで話が突然変わって恐縮ですけど、そういえば今度、会社の接待(?)的なもので出し物をすることになりまして、イチロー役を拝命されたんですけど、難しいよね、イチロー役。なにせ私、左利きじゃないし(←そこ?)。

 右のバットスウィングは『落合博満の超野球学』を読んである程度サマになるようにはなりましたが(あくまでも形だけ)、元々、運動神経ないですからね。いきなり左利きの選手の真似しろって言われてもなかなか・・・・いや、そこまで真剣に悩むことじゃないだろうと言われるかもしれないですけれど!

 で、YouTubeとか見るわけですよ、イチローのものまねを(←!?)。

 ・・・いや、ものまねだとデフォルメ化されてるから参考になるかなと。
 しかし、意外と、イチローのものまねしてる人、少ないんですねぇ。ちょこっと有名な人でも、似てるようで似てないような・・・という感じですし。理由としては、イチローはフォームをどんどん変えていくからってのもあるでしょうけど、やっぱ、雰囲気、ですよね。

 イチローは哲学があるのを感じられる背中をしてますが、それを込めるのがカンタンではないんじゃないかなと。ちなみに、年末に放送したNHK『プロフェッショナル』のイチロースペシャルで、イチローがさかんに「(身体の、ではなく、心の)姿勢」という言葉を口にしていましたが、イチローを真似するんなら、こういった、イチローの「姿勢」まで真似しないと、ホントに笑いだけ起こるんじゃないかと(注)。それはあかんと。
注)出し物内のイチロー役は、笑いじゃなくて締める役どころだから。

 で、イチローの思考が垣間見える動画をこれまでも結構見てきて、なおかつそれをいくつか文章にまでしてきて、非常に共感できる部分の多い人間だということも理解した上で、さらに動画をむさぼるように見てました。バッティングフォームもそうですけど、何をどう考えて、どう行動しているのか。


 ・・・・普通こんなことしません?

 私はするんですよ、とにかく。全力なんです。何ごとでも。プライベートは結構手抜きだらけですけど、プライベートじゃなければ、手は抜かないです。プライベートじゃないものは、イチローじゃないですけど、自分だけのものじゃないですからね。だったら、ベストを尽くすべきじゃないですか。ベストを尽くさなかったら後悔すると思うし。

 後悔・・・そう考えると、後悔したくないってのが、私の行動原理の一つかもしれませんね。

 ものまねで、ウケるかウケないかを考えるだけじゃなく、そのものまねをすることで、「どう」したいか。ってのが私にとって重要なこと。単に、その場だけで終わりたくないんですよね。だから、その場だけいい顔することができない。

 もし万が一、私がプロ野球選手になったら、おそらくイチローと同じようなインタビューの受け答えをするでしょう。
 それは、別に悪意があるわけでも、単に愛想がないわけでもない。
 すべての行動に、自分で考えた意味があるから。

 そういった思考プロセスを理解しようともせずに、型に当てはめて見られても、話しても時間の無駄と思うのもムリはないと思う。言葉で語り尽くすより、自分の仕事を、仕事に対する姿勢を見てろよと。イチローはきっとそう思っているのだろうと思う。思うというか、断言に近い形で言ってもいいと思う。私もそう思うから。

 別に私はイチローとまったく同じ人間ではないけれど、おそらく、仕事に対しての考え方はきっと、そう違わないと思っている。

 もちろん、あそこまで結果を残しているわけじゃないから、同列に上げるのもおこがましいかもしれないが、でもだからこそ、彼の思考プロセス(先ほどと同じリンク)を、他の人に伝えることができると私は思ってるし、そうしてきたつもり。これは私だけじゃなく、他にも同じような人は絶対いるはず(野球界にはいないかもしれないかもしれないけど)。

 そういう意味で考えると、簡潔に自己PRをするとすれば、「自分は、イチローみたいな人間です」と言った方が非常にわかりやすいと思う。あくまでも「みたいな」だけれど。


 今日もイチローの動画を見てて思ったんですが、自分の仕事に集中して、媚びたりせず、仕事の結果を追い求め、いつまでも満足しなくて、人間としての価値を高めることを考え、自分の価値判断基準で行動し、周りにはそれを強要しないが、周りがその姿勢を見て心を律する・・・自分で言うのも変だけれど、イチローと同様、自分はそうしてきたつもり。

 だからこそ、単に「凄い」とか「伝説に残る」と言われるだけでなく、仕事を辞めるときも握手で送り出されたり、年上の方々から「尊敬する」とか言われたりしてるんだと思う。

 それは何も、私が努力したからだというわけじゃなくて、恵まれていたというのもあるんだと思う。でも、だからこそ、やるべきことをやらないといけないと思う。責任というか使命というか、うまく言えないけれども、役割?なのかもしれない。



 ——で、現実問題、こういった「たとえるならイチロー」みたいなことを、自己PRに書くのもおこがましい・・・なんて考えてしまうからこそ、書けないのだが、こうやって書きながら考えることで見えてくるものもあるので、それを元に書いて、そろそろ出してみようかなと。

 それに、「イチローみたい」って言っても、イチローを正しく理解していない人もいるかもしれませんしね。イチローを分析して、それを伝えるように自分を表現してみるのがベストかな、と。


 あと、イチローのものまねを誰よりもうまいと言われるようにまで頑張って身につけたいと思います。急ごしらえなのでどこまでいけるかわかりませんが、とにかく、笑われるんじゃなくて、笑わせる側になりたいですね。

 そういう気持ちって、大事ですよね。


(後日談。イチローの完コピができない理由はもう一つありました。柔軟性と、体幹が強くないと、イチローみたいな打ち方はムリなんですわ)
 
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2012.10.31 03:17
 こんばんは、相変わらず、激しく久しぶりのtkiyotoですよ。

 最近、忙しかったですねぇ。いやまぁ、まったく余裕がないとかそんなことでは全然ないんですけれど、エネルギーを注ぐことがひとつあると、なかなか他の方に「エネルギー」というか「力」を注げない。

 「力」のいらないことなら、やってますよ? テレビ観たり、プロ野球MAXという、選手の動きがファミコン時代のままのオンラインゲームをやっていたり。

 でも、「書く」って結構、「力」、いるんですよね。少なくとも私にとっては。

 書くための感覚を練り上げる時間というか、気持ちの流れが必要というか。

 書くネタがないわけじゃないですよ? その、プロ野球MAXネタとか、メタボ気味な我が家のゼニガメを庭で散歩させてみたら行方不明になりかけたとか、協力会社のダメ課長代理のダメダメ話とか、ジョブズを意識したであろうはずなのになぜか眠くなるプレゼンとか、フレッツ光の1Gサービス「ネクストスーパーハイスピードタイプ隼(超長ぇ名前)」はダウンロード速度が信じられないほど速くなるとか、色々あります。それこそ、毎日書けよと。

 でも、書いてないですよねぇ。あっさり書こうと思えばカンタンなのかもしれませんが、あっさり書きたくないというか、書き出したらキリがないからやめていたというか・・・・。

 まぁ、単なる怠慢といってしまえばそれまでですが、まとまりのある、完結性のある文章を書くまでの「エネルギー」がなかったというのがリアルなところでしょうか? 途中まででいいならできたんですが、「途中」というのがどうも・・・・自分的におもしろくないというか。


 もちろん、カテゴリを見てもらえば分かるように、企画倒れで止まっている「途中」企画もたしかにたくさんあるんですけれど。それでも、ひとつの記事に対して、分割せずにそこで完結している物がほとんどだと思うんですよね。
 それはなぜって、純粋に私が「そうしたい」と思っているからで、逆に言うと、「連続」して書いていくというのがなかなか気持ち的にできないんですよね。ガッと集中して、ガッと書きたいというか。


 それで、そのようなのは日記だけじゃなくて仕事にも言えて、この間、勉強会したんですよ。ガッと集中力を高めて造った恐ろしく濃い資料を使った勉強会。

 詰め込みすぎかと思ったんですが、好評でしたよ。誰も寝ない。私も顔色を伺うこともない。プロに対して媚びる必要なんてないんですよね。ほしがってる情報を与えてやれば、動き出すのがプロですから、なんかプレゼン法を意識して、変に細工とかしなくてもいいんですよね・・・・と、同じ日の少し前に参加した勉強会に眠りそうになったんで、そういうのも特に意識しましたよ。

 大事なのは、テクニックじゃなくて、何のためにするかだと。

 スティーブ・ジョブズのプレゼンがすごいのは、その「何のためにするか」ってのを明確に持っているんですよね。だから、ストーリー形式で語れるし、人々も引き込まれる。ただ、その、根底にあるものに気づかずに、上辺だけなぞっている人もいるのが現実です。「うまくやるために見習おう」じゃ、弱いんです。足りないんです。

そもそも、会議とかもそうですけど、そもそも「眠る」ってのは、生存機能を休める行為ですからね。生存に必要だと思われないことをしている会議は、眠くなるもんです。だって、眠ってても生きていけますから。


 ちょっと話がそれましたが、そんなわけで、現在、その資料が地域を越えて、どんどん色んなところに流れ、やれ表彰だとか周りが盛り上がっているんですが、私自身はというと、わりと冷めてて。

 嬉しくないわけではないですが、そもそも、こういうことをすることで業績が上がって初めて意味があるでしょと思う実利主義者的なところもあるもの大きいんでしょうね。数字が上がったウラに、自分のやったことがあればいい、というのが私の考え方だし。
 それに、別に私自身が目立ちたいとか、思わないんですよね。名誉よりも実利しか興味がない性格といえばそれまでですが。

 また、あと二つほど理由があります。

 こういった仕事をして評価をされる、というのは、別に今に始まったことではない、というのもあります。10年前の自分でも、同じようなことがありましたし。
 普通に(こういった自分に向く)仕事してれば、こんなことはついて回ることは予想はしてました。凄くイヤな言い方かもしれませんが、本人的には「なぜ他の人はやらないの?」とか「こんなんで満足してないよ」と思ってるぐらいです。そもそも、大物をライバル視しているからかもしれませんが。

 また、もう一つは、「この方面で評価されてもなぁ」と思う気持ちがあることです。

 普通に、創作的なところで評価されたいよと。

 でも、昔と違って、最近はちょっと変わってきましたよね。
 いい意味であきらめたというか、受け入れたというか。そういう気持ちを捨てたわけではないですが、「方向性」自体は間違っていないのではないかな、と。本来自分が望んだことは。そもそも、「文章」だったあくまでも私にとっては「手段」でしかすぎないんですからね、元々は。

 自分が本当に望んでいるものが根底にあって、それが、にじみ出るからこそ、そういう「結果」がついてくる。それは、否定することではなくて、ポジティブに受け入れるべきなんだな、と。


 そもそも、大きな結果を残せるということは、それなりのことをしたからだし、それなりのことをするためにはそれなり以上の努力をし続けなければいけない。

 そうなるためには、単なる努力だけじゃ、ダメなんですよね。
 自分の、根底にあるものから生み出されるものが、他の人との違いを生み、差をつくる。だから、自分では「なんで他の人はやらないの?」と思うことであっても、私にしかできないことを自分では気づかないうちにしているってことなんですよね。

 またそれは、自分が本当に望んでいることと、リンクしているからこそ、できること。

 ってなことを、最近の忙しさに自分は全然イヤではなかったり(肉体的には辛いけど)、大きな流れを生み出している周りの反応を見て、思いました。

 また、私にしかできない仕事があって、私が求められているのなら、それが自分の運命と思い、そこにエネルギーを注ぐのが、社会に貢献することだなと。
 そうしている内に、次のステップに行くこともあるだろうし、その延長線上に、物書きとして生活できるような立場というか環境ができていけるようにしていければいいかなと。


 幸い、「仕事」に関しての才能は恵まれているようなので(対人的なものとかはアレですけど)、それを否定するのではなく、受け入れて、利用していくしかないですよね。

 「物書きになるならこうしなきゃ」とか、格好つけずに、自然に。

 「自然」って何にもしないことではなくて、色んなことを踏まえた上で、「自然」に。
 そこが、夢ばっか追ってそのうち夢を追うフリしかしなくなるお子ちゃまのいう「自然」と違うところですかね。バットをたくさん振ってるから、力を入れなくてもきれいなスイングができるようになる、的なね。
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2012.09.25 01:10
 テレビを見てて思ったんですよね。

 ホラ、最近のテレビは画面が大きいから、テレビに映ってる人のアップとか、実物大だったり、実物より大きいこともありますよね。
 それ見てて、思ったんですよ。

 テレビって、一種の「窓」なんだなと。

 外の世界と繋がる、窓。

 だから、窓から外を眺めるばっかじゃダメというのもあるけれど、病気の人とか、外に行けない人のためにあるのもテレビの役目で、それが「窓」の役割にも合致する。

 テレビは、人びとが行ったことのない、見たことのないような景色であったり、人生であったりを見せてくれる窓で、考え方としては、ドラえもんのひみつ道具に近いものがある。通り抜けフープとか、どこでもドア的な(いや、テレビの方がドラえもんよりも先だけれども)。

 なんというか、薄型テレビになって、特に「窓」っぽく感じた。
 昔のテレビは「箱」だったから、画質もキレイになった薄型大型テレビは、Windowsなんかよりもよっぽど「窓」っぽいんじゃないかなぁ、とちょっと思った次第でありましたよ。

 だからどうということもないんですが、事件の分析をするワイドショートかも、結局、窓から近所のトラブルを見てるのと同じような感覚なんじゃないかな、と思って。直接関わり合いがないからこそ、好き勝手思えるし好き勝手言えるし、でも、トラブルに巻き込まれたくないから窓を通して傍観するだけ。

 政治のことも、同じじゃないですかね?
 窓から、見てるだけ。

 窓のいいところは、都合が悪くなったら隠れれば外からは見えないということ。
 そんなところも、テレビは「窓」だなって思いますよ。


 よくよく考えると、テレビ、怖い。

 ま、本当は、窓から見ている人間そのものが、怖いんですけどね。
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2012.09.07 00:59
 ひとくちに「体罰」といっても、やっぱり色々と意見はあると思うんですよね。

 やれ、「必要悪」だとか、「なくても育てられる」だとか、そりゃもう、十人いれば十通り、百人いれば百通りの解答があると思うんですよ。でも、行き着くところは「正解はない」ってところになったりして、結局収集つかずに終わってしまう・・・・ってことはないでしょうか? もしくは、結局、持論に落ち着いてしまうか。


 「体罰」で思い出すのは、私の知人が言った言葉ですね。

 「親に殴られたことがない人間は、すごくいい人か、すごくヤな人しかいない」と。
 実際のところ、どうでしょうね? 世の中、そんなカンタンに「○○だから◆◆だ」なんてことばかりじゃないと思いますし。

 ただ、そういうことで性格が決まると言うわけではないと思うのですが、性格の資質、みたいなものは「体罰」についての親の考え方の影響って、凄く大きいと思うんですよね。


 ちなみに、私事で恐縮ですが、我が家は、「体罰禁止」で育てられました。

 その理由は至極カンタンでして、我が父が、自分の父親(つまり私の祖父)に、よく殴られていたから、それがホントにイヤだったから、子供にはそういう想いをさせたくない、とのことからです。とっくに故人ですが、祖父は、空手と柔道の有段者で、軍隊にもいた、それこそ「昭和の人」ですから、そういうことがあったことは理解できるのですが、実際に孫と接している姿からすると、とても想像はできなかった想いがあります。

 やや脱線してしまいましたが、そんなこんなで、父は、「どんなことがあっても手は上げない」と心に誓い、実際に実践してきたワケです。私も、叱られた記憶は多数あれど、殴られた記憶はどうしても思い出すことができないので、やっぱりなかったのでしょう。そもそも、暴力的な行為をされたこと自体、あまりないものですから、そんなことがあればきっと憶えていると思うのですよね。もともとマジメな性格ですし、恨み深い性格ですからね。

 そんなこんなで、幸いにも、そういった「体罰」には遭遇してこなかったんですが、だからというのもあるのでしょうが、やたら「体罰は絶対必要」とか「体罰があったからいけないことがわかった」とか言う意見にはどうも、首をかしげてしまいます。
 別にそれは、「体罰」を用いなくても伝えられるだろうと。そもそも論ですよね。


 だいたい、人が人に暴力をふるう際、その権利と責任の所在はどれだけ明確になっているかということを考えると、結構世の中、雑にできているなと言わざるを得ません。

 たとえば太平洋戦争期の各地の大空襲や原爆投下により、非戦闘員である民間人(女、子供含む)を大量虐殺した「罪」に対していったい誰が責任をとってくれるというのでしょう?

 未だにそれで裁判をしていることもあるというのに。福島原発の件もそうですよ。結局、誰も責任をとりきれない。放射能の責任をとりつづけることなんて、ムリなんですよね。人間の寿命より長いものを。そういった面で私は原発に反対するのですが、それはいわゆる「数の暴力」の最たるものだと思うんですよね。
 はたまた脱線してしまいましたが、「暴力」というのは、こういった「理不尽」さがつきものだと思うんですよ。


 で、テーマの「体罰」についても、「とにかく従え」というのでは、理不尽きわまりないですよね?

 だから、グレたりするんじゃないでしょうか?

 それを、「腐ったリンゴ」だとか言ったところで、今度は言葉の暴力じゃねーかと思うのもムリはないわけで。まぁ、数の論理とか権力でつぶされてしまうこともありますが。

 「暴力」って、大事なのは、受け手がどう感じるか、なんですよね。

 こんなご時世なんて、部下が自分の仕事を否定されるたびことあるごとに上司に「パワハラじゃないのか」と真剣にブツブツ言ってる姿を目撃しますが、あれは逆の暴力ですよね。権力の、恣意的な行為。自分の仕事の責任は上司がとるということをわかっているのでしょうか?

 かたや、子供に対する親の暴力、いわゆる「体罰」はどうなんでしょう?


 そもそも論として、親は子供を育てる義務があると言えばあり、責任を負う立場と言えばそうなんですよね。
 だからこそ、親が子供を「しつける」ことは、非常に理に適ってはいるのですけれど、逆に言うと、それが「社会に対する責任感」であるならば、たぶん、問題としては大きくならないと思うんですよね。「こうこうこういう人間に育つべき」という想いで「しつける」なら、理解はできると。

 ただ、それ抜きの「悪いことしたから」とか、「このままじゃロクな大人にならん」とか、そういうのって、「推測」でしかなくないですか?

 ウソをついたから「罰」
 ごかましたから「罰」
 いい子にしてないから「罰」

 でも、現実問題、大人でもこれをキッチリ守ってると言えば、そんなことないですよね?

 サンタさんがプレゼントを持ってきたとか
 赤ちゃんはおへそから生まれるだとか
 仕事の愚痴ばっかりこぼしたりだとか

 やってません?

 子供が小さい内ならまだしも、小学生になって知恵がつけば、大人の欺瞞なんてすぐ見抜きますからね。そうなればますます逆効果になっちゃいます。

 そういうことを考えると、大人が、自分の言動に責任を持って「しつけ」ているのか、そこが問題になるんじゃないでしょうか?


 誰だって完璧な人間ではありません。

 ですが、このご時世に、「体罰」と呼ばれることをする人間は、自分をそれに近い存在として認識していることが多いように感じます。口ではそんなこと一言も言いませんが、無意識に、自分は「絶対的に正しいものに従って行動している」という、「思い込み」があります。

 そしてその正しさというのが、宗教の戒律に従っているということでもなく、法律の精神に則っているということでもなく、「○○はダメ」とか、「そういうルール」とかみたいな、常識というか慣習であったりと、「実態のないもの」が多いです。

 「実態のないもの」は、文字通り実態はないので、時と場所で変化しますし、都合よく作り替えることも可能なので、それを使うことに対して、責任をとらなくていい代物であります。何せ、形がないから責めようがない。

 ですが、小さな子供は、そんなことを知らない。

 だから、「お前が悪いんだ」と洗脳のようにくり返しくり返し責められ続けるという悪循環に陥ってしまう。「疑う」ことを知らないし、「疑う」ことを、親から教えられないのです

 これは、不幸ですし、生き抜く上での大事なスキルを教えない、親の怠慢であり、一種の暴力です。


 これと同じことが、DVとか、モラハラ配偶者とかにも言えます。
 この場合は、「結婚制度」という実態のあるものに、「愛」という「実態のないもの」を巧妙に絡ませることで、自分の有利な方に持っていこうとする支配のテクニックです。「結婚」は愛し合った二人が協力することで、「疑う」ことこそ、もっともよくないことだとされています。

 だから、マジメな人ほど、ちゃんとしてる人ほど、こういうのから抜け出せなくなります。

 そんな状態ではすでに「愛」などないのにも関わらず、それを、「結婚」という実態のあるもので「偽装」しているのです。「一緒にいるから・・・」「一緒になったには理由があるから・・・」「子供がいるから・・・」と。


 このご時世の、子供への「体罰」もそうだし、大人への「DV」もそうですが、両者に共通していることは、行使者は、「実態のないもの」を、まるで「聖典」であるかのように思い込んでいることです

 なんでそこまで思い込めるのかというのは、ひとつに、自分自身の考えとマッチする部分があるということもあるでしょうし、ひとつに、そうすることで、「自分の責任」を考えなくていい、という非常に利己的な考えがあるからでしょう。

 だから、責任を取れない人間のする「しつけ」は、すべて「体罰」であると私は思うのです。

 だって、そんな人が、子供の未来に責任をとれるのでしょうか? 「しつけ」は子供の未来に対しての親の「責任」です。ですからそこに、慣習とか、世間とか、関係ないでしょう? 大事なのは、親が想像する「未来」に対しての、子供に与えておくべき「生きるためのスキル」を身につけさせることが、本当の「しつけ」であるはずです。

 あくまでも「未来」だから、親の考えが百パーセント正しいということはないかもしれません。
 でも、間違っていた部分や足りないものは、本人が補完していくものなのです。子供だって大きくなれば、親だって完璧な人間じゃないとわかります。その時に、親が必死になって「親としての責任」を果たそうとしたかが、結果となって返ってきます。
 「老人ホームに入れられて一人」みたいな人も、世の中にはたくさんいますから。


 もちろん、体罰やDVの行使者は、そういった「実態のないもの」を疑う習慣を親から授けられなかった哀れな人たちと言えばそうなんですが、だからこそ、虐待は連鎖するとも言えます。

 行為に対しての正義の有無は、人道的見地とか、子供にとっての影響とか、そんなんではなく、「だって正しいんだもん」という、思い込みに支えられているからです。ですから、止めようがない。

 「実態のないもの」を疑うことを知らないから。
 他人だけを疑い、自分を疑うことを知らないから。



 以上のことを踏まえれば、「しつけと言われたらしょうがない」とはならないのではないでしょうか?

 もちろん、その親がどんな思考プロセスで「しつけ」を行ったか、当事者にはわからないかもしれません。でも、「想像」しようと思えばできるのではないでしょうか?

 たとえば、ゴミの分別もできない人が、子供のささいなウソに対して「しつけておかないと、ロクな大人にならない」なんて言って体罰を行ったとして、「しつけならしょうがない」なんて言えますかね?

 「しつけ」という、「実態のないもの」を疑う必要、ありません?


 現場の人間が、そこをわかっていないとは到底思えません。

 でも、それを理由に親に制限をかけられるほどの仕組み作りが、まだまだできているとは言えないのが現状でしょう。行政職員に、それだけの権力が与えられていないのです。警察が協力しなければ、家にすら入れない。しかし、いじめ問題もそうですが、警察が介入すると、かなり大ごとになる。

 そのベースには、家庭内でも、学校内でも「自治」があり、尊重すべきという考え方があるからだと思うが、だからこそ、「しつけと言われたらしょうがない」とか、「イジメを把握できなかった」とか、ブラックボックス化したものに手が出せなくなっている。いや、そうしている、というのが正解か。

 だからといって、強硬的にやるべし、という極論もどうかと思うが、「自治が成立してないから、児童虐待もあるし、イジメによる自殺もある」という、「実態のあるもの」を重視するのは大切なことだと思う。


 「しつけと言われたらしょうがない」って言葉は、究極的に「実態のないもの」ですからね

 そんなもの議論したって、答えは出ませんよ。

 イジメをどうなくすかも然り、です。
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2012.09.03 01:09
 「伝説を作る」

 と言う若い社員がいるところも、最近はどうだろう?いる方が珍しい、なんてところも多いのかもしれない。なにせ、上昇志向じゃない若者が多いらしいので・・・実際にはいなくならないとは思うんだけど。

 で、今回は実際に「俺らで伝説を作ろうぜ」と言っている人がいた、というお話だが、それを飲み会の席でちゃかされているのを聞いた、さらに上の方の上司は、「気持ちは買うけど、あんまり人前では言わん方がいいな」と言っていた。

 確かに、「伝説を作る」と自分で言っているのはなんか、若いというか、青いというか、恥ずかしいというか、おかしいというか、妙な感じがするのも事実だと思う。実際、気持ちだけから回りするケースも多々あるし。
 上司も色んな人を見てきているので、それを踏まえて忠告していたのだと思う。


 これは私個人の考え方かもしれないが、伝説というのはそもそも、意図して作ったりするものではなくて、「なる」ものだと考えている。なぜそう思うのかというのは、私がいろんな仕事をしてきて実際に「伝説として残る」と言われてきたから、というただそれだけのことだからだ。

 私自身、仕事をしながら「伝説を残してやる」なんて思って仕事はしていない。

 ただ、やるべきことをやっているだけだと思っている。
 他の人と違うのは、「やるべきことかもしれないけれどやれない」というのをできるだけ排除することだと思う。つまり、誰もやりたがらないことでもやるということだ。しかも当然のように。

 これは、実は凄く、カンタンなことだと思う。
 カンタンじゃないのは、そのために払う犠牲がある、ということだけだ。それは、時間であったり、体力であったり、精神力であったり、時にはお金であったり・・・・他のものに使えた何か。

 多くの人は、その犠牲(投資と言ってもいいのかもしれない)を払わない。それよりも、「自分の」生活がよくなることを望むからだろう。「仕事に必死になっても給料が上がるわけでもないし」とか、「自分の将来にとってプラスになるとは思えない」とか、「仕事に人生かけるなんて無意味」とか、できない理由を探す。

 だが、それではとうてい「伝説」など作ることはできない。

 誰もができることは、「伝説」とは言わない。
 誰もやれないことをやるから、「伝説」なのだ。


 だからといって、たとえばゴミ回収をする人が伝説になるかと言ったら、ならない。
 それは、「イメージが汚い」とか「下の人がする仕事だから」ということではなく、あくまでも、その仕事に対して(見合うか見合わないかは別として)きちんとした給料が支払われているからだろう。その中で、決められたことをする・・・それでは伝説にはならない。

 でも、たとえばゴミ収集であっても、めんどくさそうにゴミを回収して収集車に放り投げたりするのではなく、道行く人に「ご迷惑おかけします!」と元気に声をかけたり、大阪市で問題になっている金髪にタトゥーではなく、清潔感漂う姿だったりしながら、なおかつ、誰よりも丁寧で素早くきちんとした仕事を手早くする・・・・そういう人であれば「伝説」にはなるのではなかろうか?

 「そんなん現実見てねーよ!」という声も上がるとは思うが、そういう人を黙らせることができる人が、「伝説の人」になるのだ。伝説になる人は「現実」に負けたりしない。現実に負けた自分を省みずに人に自分の価値観を押しつけたりはしない

 伝説を作るのは、才能でもなんでもなく、ダメかもしれないが、ダメになるまでやってみよう、という「可能性」にかけることのできる人なのではないのかな、と私は思う。もちろん、その人にとっては努力ではないかもしれないが、周りの人からしたらものすごい努力をしているものだ。

 「伝説のゴミ回収人」も、これはあくまでもフィクションだが、フツーに考えたら、清潔感たっぷりでやれるハズがない。だが、ゴミ回収の地位を高めようと清潔感を意識して身なりを気をつけたり、ゴミをいい加減に出してカラスなどに物色されないように、地域の人たちのポジティブな行動を促すために挨拶をしたりと、ムダに見えるかもしれないが、見えない努力をしているかもしれない。

 そういったバックボーンがなければ、伝説などとうてい作れるはずもないだろう。

 「伝説」とは、高い目的意識によって支えられているものなのだ。


 もちろん、気持ちとして、「伝説を作ってやる」ぐらいの気概は必要だと思うが、でも、その基準が、「自分がやれば変えられる」という「空想」に近いものであれば、それはきっとうまくいかない。
 なぜなら、なぜ、それまで誰も手をつけなかったのか、という「現実」にフォーカスしていないから。

 実際には、多くの人が試みてみたけれどダメだった、ということもサラリーマン社会にはよくあることだ。
 理想通りになればうまくいくなんて、そんなにうまい具合に会社とはできていない。そういう調整能力がサラリーマンには求められることで、会社と「戦う」ことよりも、「うまくやっていくこと」の方が大事になっていくことが怏々として存在する。特に大きな企業になればなるほど、旧態依然の組織体制であればあるほど、そうなりやすい。

 その中で「革命を起こそう」とか「伝説を作ってやろう」とかってのは、「若気の至り」以外のなにものでもない・・・と扱われても当然だ。
 それが、上司の、水を差す一言になったのだと思う。もちろん、そんな上司になりたくない、と思う気持ちもわからんでもないが、そういう気持ちだけでは変えられない。


 それよりも大事なのは、「行動」だと思うし、その行動を支える「信念」といったものだろう。

 行動するから、信念に基づいて行動するから、その結果が、生半可な気持ちでやっている人と違うから、「伝説」となる。フツーの人は、それができないからだ。フツーの人は、それができないから、できる人のことを「伝説」と認めざるを得ないのだ。


 「伝説を作りたい」
 そう思うならば、自身の行動が常識内に収まっていないか、一度考えてみた方がいいと思う。

 伝説は、誰もが伝説だと思うからこそ伝説なのだ。「思ってもらおう」というものではない。

 結果こそが「伝説」であり、結果が伴わなければ、ただの夢物語だ。


 伝説としての評価は、その人が行った「結果」だけではなく、高遠な理想を追い求める「プロセス」そのものを指すことも多い。
 でもそれは、イコール「プロセスを評価しよう」ということではなく、実現できないハズの理想に近づくという、誰にも想像だにしなかったことをやってのけたからに他ならない。「頑張ってるんだからプロセスを評価しろ」などとブーたれる、学校に帰れと言いたくなるようなガキとは、次元が違う。

 他の人が見ることができなかったものを見せてくれるから、「伝説」になるのだ。単なる結果ではなく、「高い理想に近づくプロセスという結果」こそが、伝説となる。


 だから、「伝説」とは目指すべきものではなく、「なる」もの、ということだ。

 少なくとも私は、そう思う。
 
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2012.05.15 01:21
 気がつけば4月はなんと1回しか更新していないことに気づいて愕然としているtkiyotoですよ。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 本日、野菜があるから取りに来いやと親に言われたもんですから、仕事帰りに寄ったんですよね。

 というと、どんなところに暮らしてるのかと思うかもしれませんが、実際には都心部だったりするので、自宅で獲った野菜というわけではなく、親の実家で獲ってきた野菜、というものなんですが。

 その習慣自体は生まれてこの方ずーっとのことなので、それが「当たり前」だと思っていたんですが、スーツ着て、地下鉄で実家によって、野菜取りに行くってシチュエーションを考えると、かなり不思議で可笑しくて。
 ちょっとこれはフツーじゃないなと。

 で、久しぶりに地下鉄から歩いて実家まで行きましたけど、なんつーか、相変わらずなんですけど、新鮮でしたね。夜の8時なのにもう収集所のゴミが山積みになってるとことか、「工夫した名前の」飲食店がつぶれていたり、電話ボックスの中の東南アジア系の女性が大声で喋ってて、子供がヒマしてて中でカンカン叩いてたりとか、相変わらず。

 目の前が墓地で非常に静かな住宅街に暮らしている今のところとは、ホントに、えらい違う。

 しかし、それが我が「実家」のある町の現実だし、「故郷」にはなってしまうという、いかにも「現代」って感じが、なんか新鮮だった。


 さて、実家で、レタスが豊富にあるので振る舞われたのがレタスしゃぶしゃぶなんですが、親の姿を見ていて、「ああ、子供がかわいいんだな」なんて思ってしまいましたよ。

 子供のころからなにげなくというか常に気づいていましたが、子供が満足できるように親は子供が満足するように食べている。子供が食べたいものを優先的に食べさせている。自分が食べるのをやめてまで、子供の食べたい気持ちを満たしてやる。

 ・・・そういったモロモロのことが、「当たり前」と思っていただけでなく、子供心に「幸せな家庭だな」と思っていたのはもちろんなんですが、それでも、改めて、こういう「当たり前」に感謝しないといけないなぁと思いましたよ。


 ことに、他人と暮らしている今のことを考えると、やっぱり、親が子供に持つ愛情というのは特別なもので、そういうのを「当たり前」と思いすぎて、他人にそれを「当たり前」に求めるのは違うよねと。


 また、我が家はどっちかというと貧乏な方ではありますが、幸せな家庭だったんですが、その理由が改めてわかった気がしましたよ。ホントに、「家族」が大事で、お金は二の次だったんだなぁって。

 私は、若干貧乏だったことがコンプレックスというか不満というか、親を楽させてやりたいというのもあって貧乏よりも成功してお金がほしいと思っていましたが、それを追うために、そういった大事なものをおろそかにするのは間違っていると思いながらも、どこか、何かを犠牲にしないとなりたいようになれないんじゃないかとよく思ったりするんですよね。

 でも、やっぱり、「金が目当てなんだ」といじけるような晩年を送るよりも、何が大切かを実感しながら生きられる生活の方がやっぱりいい。いくら、歴史に残る作品を残したくて、そういう人たちのようにならなきゃいけないと思っていても、現実としてそういう選択肢はとれない。
 そういう発想が「小市民」的なのかもしれないし、それで思ったイメージまでいっていない生活レベルを考えると、なにか、憂鬱な気持ちになったりするんですよね、「このままでいいのかな」と。

 ただ、自分の思うイメージには届いていなくても、それに近づいている感があるのなら、あまり卑屈になるのもどうかと思うわけで。近づいていないなら焦らなきゃだけど、多少なりとも近づいていれば、それでいいじゃないか、それを積み重ねていけばいいじゃないか、と「当たり前」に思えるようになりたいのですが、それがまだまだ未熟者でして。


 幸せな家庭を築きながらも、お金も多少多めにあるような生活がしたい

 子供のころのプチ貧乏生活を見ると、相反することを実行するそれも難しいのではないのか? とつい思いがちですが、いや、その両立ができないかを模索しながら生きてきたのが私の人生じゃないかと、ふいに思い返してみたんですよね。

 過去がどうとか、他の人がどうとか、そういう「当たり前」に縛られすぎですよね。

 あくまでも結果論として「当たり前」になっていた方が都合がいいものだけが、「当たり前」であるべきなんですよね、きっと。
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2012.02.23 04:43
 マッサージ屋に行きましたよ。
 というのも、整体に行って、骨のゆがみよりも疲労や冷えからの張りから来ているという話だったので、整体で治そうとしても限界があると思いまして。

 で、最近、多いじゃないですか、安いマッサージ屋。60分で3000円前後みたいな。これまでの半額近い低価格。

 どういう理由で生まれたのかは推測でしか言えないんですが、おそらく、マッサージ屋は値段が高すぎて回転率が低くなってしまう現状があるからではないでしょうかね? 本来は頻繁にマッサージを受けた方が体もほぐれるというものでしょうが、頻繁にマッサージを受けられる人ばかりじゃないのが現実。

 そこには、マッサージをする側の社会的使命感というか、仕事への充足感として「ガチガチになってから来ても一発でよくはならない」よりも、頻繁に来てもらって健康になってもらいたいことへの願望があったのではないでしょうか? 少なくとも、私がマッサージ師なら、そう思ったりします。そんな、やばくなってから来られて、解消しなくて「あそこダメだ」とか言われちゃかなわんですからね。

 それよりかは、値段を下げて回転率を上げ、お客さんも「来たい」マッサージ屋に頻繁に来れるし、お店も安定的・継続的に収入を得られるというところにビジネスチャンスを見いだした…というのが、この「安いマッサージ屋」ではないかと思うわけ。単なる価格競争というだけではなくて。


 そんなこんなで、その、新しくできた安いマッサージ屋に行ってきたんですが、感想。

 建物の作りが安っ!!

 いや、しかたないんですけど、なんか、オフィスみたいな内装だし、壁薄いし、パーティション低いし、外気の影響受けやすいし・・・・とまぁ安いなりのことはあるなと思いました。
 で、マッサージもきっと一般人レベルのことをやるのかなと思いまして。チラシには【高い技術!】とか書いてあったんですが、なんとなくそんな感じがして。

 足つぼ+全身もみでやったんですが、風呂屋でやる倍ぐらいするマッサージの時と同じように、足つぼをするとき片方の足にタオルを巻いてくれたのはやってくれないと(勝手に)思っていただけにちょっとビックリしました。ただ、タオルの生地がさすがに安かったですね。暖かみを感じるものではなかったですが、まぁそこはしかたないでしょう。

 あと、利用分でポイントがもらえるのはわかるんですが、マッサージ着に着替えないとポイントがもらえるというのもコストダウンの賢い方法ですね。ただ、30分ぶんに相当するポイントなので、それは太っ腹すぎないかと思ったんですが・・・でも、着替えとかあると確かに「60分」のマッサージが実際には「75分」とかになることだってありますよね。説明して、移動して、着替えしての2セット。それと洗濯代、予備着代を考えれば妥当な線かもしれません。実際にそれで「やりやすい服装」できてくれるなら楽なもんだと。シャンプーしない床屋と発想は同じかもしれませんね。


 で、実際にやってもらった感想としては、ごく普通。普通に普通のマッサージでした。

 そういう意味では、リピートしやすいと言えばしやすいのかもしれません。「安かろう、まずかろう」ではなくて、あくまでもファーストフードと同じく「安い、(普通に)うまい」というポイントはおさえています。そこ、大事なポイントですよね。なんかの本に書いてありましたが、「マクドナルドは世界で一番うまいハンバーガーを作るわけではないが、普通のハンバーガーを世界で一番売ることができる」的な感じといえばわかるでしょうか?

 技術を高めることがナンバーワンじゃないってことですよね。そこが、ホンダがトヨタに勝てない理由とでも言いましょうか。いや、話がそれましたが。


 で、そのマッサージ屋を出る時に、従業員総出で外に出てきて(バイクなのに)誘導してくれたのはビックリしましたね。このビジネスを立ち上げた人は結構、真剣にマッサージ屋で成功しようって考えてるんでしょうね。あくまでも「こんなんやろうぜ」的な感じじゃなくて、「これからはこういうのが必要なんだ」っていうのもありながらも、さらに「安くてもいいものを」って心がけを忘れてない感じがしました。

 こういうのを見ていて、なんとなく推測でしかないんですが、このビジネスをやろうと思った人はファーストフードもしくは、その亜種ビジネス出身じゃないのかなぁ? と思いました。少なくともマッサージ業界上がりではない気がします。誘導、見送りなら一人出れば済むことですもんね。それを済ませないあたりが、こういう「常識破りの」価格を打ち出せるんでしょう。

 まぁ、ここが元祖というわけでもないでしょうから、どっかの真似か、それともライバル店に対しての違いを打ち出しているのかもしれないんですが。それでも、こういうのが増えていくっていうのは、まちがいないなぁと思ったりしましたよ。


 ちなみに、マッサージ中、他の店舗との電話連絡している話を聞いていましたが、今日は5時時点で売上が9万弱(だったかな?)あったそうで、今後は他の店舗からこちらに人を増やした方がいいかもね、なんて会話をしていたので、順調に売上を伸ばしている感がありましたね。
 かといって、料金が安いからといってめちゃ混んでるというわけでもないし(むしろ空いてる)・・・でも、電話対応は非常に丁寧でしたし、設備にはあまり満足度は高くないですが、それ以外に及第点はとくになかったので(←ここがポイントなんだと思う)、こういう会社の株を買っておくというのもひとつの選択肢なんでしょうなぁ・・・・。
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2012.01.18 03:12
 山崎豊子原作ドラマ、『運命の人』観ましたよ。

 さすがにというかなんというか、山崎豊子的ですね。『白い巨塔』とかその代表格ですが、重厚の中にも触れやすさのあるドラマの作り方はさすがです。

 で、そういえば山崎豊子について調べたことないなと思い立ちまして、調べてみたんですが、どうも「盗作疑惑」でイロイロと叩かれているようで・・・。
 私自身、山崎豊子作品自体、『白い巨塔』の原作とドラマに触れただけで、その、盗作されたものとか、山崎豊子自体の文壇での足跡なんかの話題には触れたこともないので、そのこと自体のゴシップな話題は正直、どっちでもいい話に感じてしまいます。「物書き」と自称しておきながら興味がないというのもどうかと言われそうですけれども。

 というのも、あれやこれやと言ったところで、じゃぁ清廉潔白な人が書いたものを面白いと評価して、読んでくれるのかという現実があるわけだし、むしろ、この『運命の人』の主人公にしても、『白い巨塔』の主人公にしても、「己の(信念に基づいた)目的のためには手段を選ばない」者の生き様の中にこそ、ドラマが生まれるんではないのかと。

 ことに、山崎豊子自身、この作品について「沖縄の人たちの苦労を・・・」と言っているようですし、少なくとも原作ではなくドラマしか観ていない中でですが、作中の主人公にも「沖縄の人たちの苦労を・・・」というようなことを言わせていることを考えるに、作家が作中の人物に自分の想いを語らせたり行動に反映させるのは非常によくあることだし、特にリアリティを追求したり、実際の事件をテーマにする以上、ドキュメンタリー作品でもなければ客観的であり続けるのはほぼ不可能で、「作家」として「自分の想い」を作中に盛り込むことはごくごく自然な行為と言えるでしょう。

 それに、そういう「誰かに伝えたい」という衝動がなければ創作活動などできるはずもなく、その際にどういうモラルを持っているかというのも、想いの強さの前ではどんどん色あせてしまうこともあるのも、良きにつけ悪しきにつけ、創作活動に付随する「毒」の一種でもあると思うのです。
 とくに、今回の主人公にしても、「戦時中は国家と新聞にだまされた」「沖縄の未来を変えたい」などといった正義を行使するためなら、奥さんを裏切って情報をくれる女と密会をしたりするなんて、まさにその考えを投影した存在とも言えるわけですよね(でも、その正義の行使は国家のやってることと違わない・・・というドラマ展開になるんだと思うが)。

 つまり、そんな「想い」を作品に強く投影しようとする山崎豊子だからこそ、『運命の人』の弓成亮太や、『白い巨塔』の財前吾郎というキャラクターを、意志が強すぎて共感できない部分がありながらも、どこか憎めない、どこか同情してしまうという、一口で言い表せない彫りの深さのある造形物として描くことができるのだと思う。つまりそれが一つの、作風というか。


 こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、毒のない善人の書いたものほどつまらないものはないし、「○○へのラブレター」的なそれは一瞬の感動を生むかもしれないが、人の心に何かを突きつけるような鋭さもない。

 それが別に「善」であるとは言わないが、少なくとも、作品を世に送り続ける「作家」としては、そのような鋭さを失ったら「フツーの人」に成り下がってしまうし、それを人々が、「作品」と呼び、そしてわざわざ触れようともしないだろう。どこにでもある常識のままに書かれたものであれば、それはとりたてて特別な存在になることもない。

 世阿弥も言っているが「珍しきが花なり」なのだ。


 多くの人が「作家」や「芸能人」にモラルを求めるが、現実問題、それを言い出してしまうと、作品がつまらなくなるという意見は、ある意味で正しいし、だからといってそれを無条件に認めるのも正しいとは言い難い。

 しかし、世の中というものは得てしてこういうものである。

 浜崎あゆみが離婚したことに、世間の評価としては「やっぱりか」というのが大半を占めるのだと思うが、私もその一人だ。あれだけ感情を込めた曲を書く人間が、フツーの恋愛婚をして、うまく行くはずがない。なのに何をそんなにドラマチックに感じて行動に移してしまうのか。

 端から見たら予見された滑稽な光景だろうが、その、クリエイターとしての姿と、少女のような想いを捨てきれなかった姿の両面があるのがまた、人間らしさなのだと思う。創作に殉じつづけるということはやはりなかなか難しい。もちろん、結局は創作に帰ってくるのがみんなわかっていたからこそ、結婚してもうまく行くはずがないとみんな思っていたのだろう。知らぬは当人ばかりなりというわけだ。

 冷たい言い方かもしれないが、これはまぎれもなく現実である。

 こういったことが世の中には往々にしてあるし、だからこそ世の中は時に醜く、時に美しく、映ったりもするものだ。

 そしてその中で自分が何かを感じたものを形にしていくのが「表現者」であり、そのための方法論はそれぞれの信念や生き様や価値観に影響されるものだが、それが人によって違うからこそ、同じテーマでも違う作品ができあがるし、それに触れる人々の感じ方もそれぞれ違うのだ。

 その中でもいい作品が、何年経った後で触れたときにまた印象が異なるのは、まさにその点からで、平面じゃなく、立体的だから、一面じゃなく、多面だからこそ、様々な人に触れられるし、様々な心を映し出す。

 だからこそ「何度」も触れることができるわけだし、だからこそ「展開」され、「人気」も出る。そうしていける作品が、歴史の中に埋もれずに残っていく。それが結果として「いい作品」とか「名作」と呼ばれるものになっていくのだろう。
 日々変わっていく人の目に耐えられ得る作品が、いい作品というわけだ。

 それは、作家志望の人にありがちな独りよがりな作品にはないもので、インモラルだったり、人々の常識の外にいる人たちが作ったものにはあるものだ。それは、そういった人たちは創作時に常に、自分という人間の様々な面を意識せざるをえないからだ。


 作家たちは、創作を通じて、自分の作品と真剣に向かい合うことで、自らの人生を問われている。そして、そうやって完成したものが今度は我々に、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と人生を問い直すようになる。だからこそ、そういった作品が我々の心に「何か」を呼び起こさせる。

 それはつまり、「作品」とは、我々の心の試金石のようなものであるということでもある。

 だからこそ、心が豊かな人は様々な作品に触れ、そこから何かを得ることができるが、心の貧しい人は「値段」とか「評価」とか「人気」とか、そういった後から付随してきたものでしか作品を見ることができないので、何も得ることができないのである。

 「作品」は「作家」の「人生」なのだ。

 だから、作家に引退など存在しない。死ぬまで創作しつづけるしかないのだ。大正生まれの山崎豊子がさんざん罵られながらも書き続けるのも、その使命感があるからだろう。描くのは「正しさ」ではない。「人間」の感情そのものなのだ。

 それをわからない批評文は、取るに足らないものだと断言できる。なぜなら、作品と真剣にぶつかっていないからだ。作家が真剣に書いた作品と、真剣に闘っていないからだ。そこに心のギャップが生まれるのはムリからぬことで、「期待していたのに裏切られた」なんて言葉はまさにその最たる例だ。

 そういった面でも、作品が心の試金石である、ということが言える。

 本来、作品に触れることは、闘いのようなものだ。そうでなければ、作った人に対して失礼だと私は思う。人、一人の人生をカンタンに切り捨てることなんて、そうそうできるものではなかろうか? それとも、あまりにもライトな作品に触れすぎて、そういうことを忘れてしまっているのではなかろうか?
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